男性はゆっくりと歩いていた。
一歩一歩を踏みしめるように、子供の歌声を聴いている観客を掻き分けていく。
観客席から出ると、ポツンと孤立したベンチに年老いた女性が座っていた。
(また痩せたな)
まるで枯れ木のように細い四肢に、ギョロリと突き出た目。頬にはモミジのような赤い痕が残っている。
その姿を見ているだけで、ある人の面影が重なる。
(理咲、これでいいんだよな)
もういない妻に訊いても、何も返ってこない。しかしそれで十分だった。
覚悟を決めて、女性の前に立つ。
「ご無沙汰ぶりです。覚えていますか、青木千里です」
男性――青木父が頭を下げると、女性――青木祖母は顔をゆっくりと上げた。
「あなた……」
青木父の姿を認識した瞬間、生気のなかった老婆の瞳に炎が燃え上がっていく。
立ち上がって、胸倉を掴む。
「娘にどういう教育をしてるわけ!?」
あまりの迫力に、青木父は一瞬たじろいだ。しかし逃げ出すわけにいかなかった。逃げた先には守りたいものはないことを知っているからだ。
背中を押してくれなくても、応援してくれなくても、この世界で生きてくれているだけで支えられる。
「僕は、娘たちには自由に生きてほしいと願っています」
「暴力が自由なわけないでしょ?」
(あなたが言えたことじゃない)
青木父は言いたいことを呑み込んで、言葉を紡ぐ。
「違います。あなたが娘たちの自由を、努力を、踏みにじろうとしたからですよ。僕は娘が間違ったことをしたとは思っていません」
「私が間違ってると言いたいわけ!?」
青木父はふと考える。自分は娘たちのお手本になれているだろうか。自分のちっぽけな背中は、正しいことを伝えられているだろうか。
考えれば考える程、娘たちに怒られた場面しか思い出せなくて、思わず自嘲した。
「あなたは娘に怒られたことがありますか?」
「あるわけないでしょ。親なんだから。それがなんなの?」
「そうですよね。あなたはずっとそうやって、」
「覚えていますか? 君乃が生まれた日のこと」
「君乃……?」
まるで初めて聞いたような反応だった。青木父は奥歯を噛みしめながらも、説明を噛み砕く。
「一人目の娘――あなたの初孫です」
「ああ」
青木祖母は無関心な声を漏らすばかりで、反応が薄い。それでも青木父は淡々と話を続ける。
「あの日、理咲は君乃の顔を見せて、名前をあなたに伝えたはずです」
「それがなんなのよ。当然でしょ」
「当然、ですか」
なら祖母が孫の名前を覚えるのも"当然"なはずだ。目の前の女性は"当然"を一方的に押し付けている。それが凄く腹立たしくて、つい語気を強まる。
「それが理咲にとって、どれだけの思いだったと思っているんですか!」
「私は親なんだから、それぐらいしてもらわないとね」
「それぐらい……」
あっさり放たれた言葉に、青木父はやるせない気持ちになった。歯を食いしばると、舌の先端を傷つけてしまって、口の中に血の味が広がった。
(きっと考えもしなかったんだろうな)
妻がどれだけの想いで出産を伝えたのか。娘に会わせたのか。
あの時を思い出すだけで胸が締め付けられる。
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