現実に引き戻された陸は、自分が涙を流していることに気付いた。
涙をぬぐい、鼻をチーンとかみ、顔を上げる。
(しばらくはあんな思いはしたくない)
不安に駆られた陸は、音流宛にダイレクトメッセージを送った。しかし三十分待っても反応は無い。
すぐに通知に気づくわけがない、と自分に言い聞かせつつ、パジャマから普段着に着替える。
自室から出て階段を降りると、リビングから家族の団欒の音が聞こえてホッと息を吐く。泣いていたことがばれないように顔を洗ってから、リビングに入った。
「おはよう」
お父さんとお母さんから「おはよう」と返しがあったが、妹は何も言わずタブレットをいじっている。いつも通りの日常だ。ただし、外では台風が天気を荒らしている。
「今日は随分早いじゃない」
お母さんに言われて、陸は「んー」と生返事をした。陸は休日の日は昼飯時になるまで顔を出さない。だから、すでに9時を回っていても「早い」と言われる。
しかし実際には早いのではなく、一睡もできていないのだ。昨夜のことがまだ脳裏に焼き付いており、寝付ける訳がなかった。
「あんた、顔色悪くない?」とお母さんは陸の顔を訝しげに見てくる。
「ん、寝られてない」
「何? 悪い点数のテストを隠しているなら早くだしなさいね」
「そんなんじゃない」
「じゃあ、なんなの」
陸は一瞬、答えに詰まった。正直に答えるわけにいかず
「台風のせいだよ」と濁した。
「あんた、そんなに繊細だったっけ? 添い寝してあげようか?」
「思春期の息子にそんなこと言うなよ」
「まったく照れ屋なんだから」と茶化した後「なにか食べる?」と当然のように訊いてくる。
「食べる」
「じゃあちょっと待ってなさい」
言うや否や、お母さんは台所で準備を始めた。
待っているあいだ暇で、ソファに座ってテレビを見ることにした。
「お、珍しいな」
「別になんでもないよ」
すでにお父さんがソファで寝そべっていた。重そうに体を動かして、スペースを開けてくれる。
テレビでは台風情報が流れており、カッパを来たキャスターが暴雨にさらされながら、台風の激しさを実況している。
現場の緊迫した雰囲気が液晶越しに伝わる中、お父さんが口を開く。
「寝られないのか」
(そんなに心配することじゃないでしょ)
陸は内心うざったく思いつつも「台風のせいで」と淡々と返した。
「眠れないときはマスをかくといいぞ」
突然の下ネタに、陸は思わずせき込んでしまった。
「これからの季節は暑くて寝つきが悪くなるが、女子の夏服姿とか水着姿が見られるからトントンだよな」
さらに話を深堀りし始めたことに驚愕し、めまいがした。
「なんだ、これぐらいの話同級生としないのか」
「するわけないだろ! したとしても父親のは聞きたくない!」
もうこの父親イヤだ! と手で顔を覆った瞬間だった。
「この下ネタオヤジ!」
叫び声とともに、小柄な妹がお父さんの肩を強く叩いた。娘に甘いお父さんはタジタジといった様子だ。
尚、お母さんは慣れているためか、スンと澄ました顔で朝食の準備を続けている。
(ナイスだ、妹)
普段は妹のことをうざったらしく感じている陸だが、この時ばかりは感謝した。
しかしすぐにある事実に気づく。
妹が"マスを掻く"という言葉を下ネタだと認識している。中学2年生の陸でさえクラスメイトとの会話で、最近初めて知ったのだ。途中から会話についていけずに困り、帰宅してから検索したという経緯がある。そんなワードを、四歳も年下の妹が当たり前のように知っている。その事実は兄として衝撃的だった。
(耳年増すぎないか? まさか、お父さんの血が……)
考えれば考える程頭が痛くなっていき、深く考えることをやめた。
「ほら、出来たからすぐに食べちゃって」
お母さんに呼ばれて、食卓に着く。白いご飯。おかずは卵焼きとみそ汁とキムチ。朝食の定番だ。
「いただきます」
二口程食べて、自然と箸が止まった。どうしても食欲がわかない。
寝不足によるせいだけではない。胸の奥底に何かがつっかえている感触がある。それでも、せっかく用意してもらったのだから、とみそ汁がぬるくなるまでの時間を使って食べきった。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした」
陸が皿を洗い場に持っていこうとすると、お母さんがササッと奪い取った。
「なんで」
「今日ぐらいはいいわよ」
陸はむずがゆい気分になりながら、甘えることにした。
お腹が膨れたら眠れるかと思い、自室に戻り再び布団をかぶる。しかし眠気はこれっぽっちも湧いてこない。目や瞼は疲れたと語り掛けてくるのに、脳と心が暴れまわっている。
三十分程経っても眠れる様子がなく、スマホをいじり始める。
昨夜に充電を忘れていたためバッテリー残量が無く、面倒に思いながらケーブルを差した。
(ん!?)
SNSを覗くと、音流の新しい投稿が目に入った。スマホの処理が遅く感じる程ガン見しながら投稿を表示すると、そこには写真だけが貼られていた。
息を呑んで、冷や汗が流れた。
それは青空の写真だった。背景からして河川敷で撮ったものだろう。なにも知らない人間が見ても、ただの風景写真にしか見えないだろう。
しかし陸には理解ができた。
これは今現在、撮られた写真だ。台風に襲われている中、唯一青空が微笑む場所で。
(これって、僕へのSOSなのか?)
最悪なシナリオが思い浮かぶ。
陸と音流は台風の目で日向ぼっこをする計画を立てていた。しかし音流の母親にバレたことでご破算となった。もし、それでもまだ、音流が諦めて切れていなかったとしたら――。
いや、それどころの話ではない。昨夜の音流は異常な精神状態だった。最終的に落ち着いたが、陸は"お願い"を断ってしまった。
その結果、独りで断行してもおかしくはない。いや、それだけで済めばいい。
陸はふと、外から人の声が聞こえることに気付いた。
カーテンを開けると、豪雨の中で叫ぶ女性の姿があった。迷子を捜すように周囲を見渡しながら走っている。雨風のせいで声はかき消され、姿もぼんやりとしか見えないが、どこか音流に面影が重なって見える。
カチリ、と。頭の中でパズルのピースがはまった。
背筋が凍り、鳥肌が立った。
すでに女性は分厚い雨のカーテンの向こうへと行ってしまった。
脳裏に浮かんだのは葬式の光景。そして音流の顔。音流の笑みが灰色に染まっていき、祭壇の上に飾られるイメージが湧いてくる。
無意識に走り出していた。
突然に響いた大きな足音に、お母さんが反応した。
「陸、どこ行くの!?」
「大事な約束! 大丈夫、絶対戻ってくるから!」
お母さんの制止を振り切り、玄関の扉を押し開ける。
豪雨の中、少年はがむしゃらに走り抜けていった。
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