お嬢の朝は早い。
午前5時に起床すると、その足でそのまま台所へ向かう。ケトルに水を汲んでお湯を沸かし始めると、今度は洗面所へ移動する。洗面所ではドラム式洗濯機のスイッチとタイマーを入れ、おおよそ家に帰る時間に乾燥まで終わるようにセッティングしておくことも忘れない。そうして一通りの作業が終われば、ここからが時間のかかる化粧タイムだ。
お嬢はお嬢様ではなく、ただの庶民である。美人であるし服装こそ令嬢のように見えるが、それはただ個人の趣味が見た目にマッチしただけなのだ。家に帰れば学生の頃に履いていた芋ジャージを来ているし、好きなことはYo!tubeのお笑い芸人のチャンネルを見ることだ。
そんな庶民派筆頭の美人さんは、見目麗しい外見とは裏腹に化粧が死ぬほど嫌いである。時間はかかるし肌は荒れるしで、基本的に良いことがないからだ。しかし、ここ大日本帝国では『化粧をしない女性はマナー違反』とされる文化が根強く残っており、渋々今日もメイクに勤しんでいる。
さて、1時間程かけてガッツリ自分を美しく仕立てると、今度は優雅なモーニングの時間だ。ご飯をよそい、粉をかけ、先程沸かしたお湯をかける。お茶漬けである。
――全然優雅じゃなかった。
飯を食う時間も惜しいとガツガツ箸で米を掻き込み、小さな体に収めていく。彼女に飯を食べないという選択肢は存在しない。彼女は他者よりも非常に燃費が悪く、10時頃になれば腹の虫が鳴り出して、恥ずかしい思いをすることを知っているからだ。
ここでお嬢、時計を見る。いつもより若干ペースが悪い。さっき上手くマスカラが乗らずにタイムロスしたせいだろうか。このままではいつもの馬車に乗ることができず、1本後の馬車に乗ることになってしまう。それだけは避けねばならない。
ここで、大日本帝国を取り巻く交通事情について説明しておこう。この国の技術は色々と遅れていたり進んでいたりするのだが、交通網に関しては現代日本よりも遥かに遅れている。メインの交通機関が馬車であることからも、その事情は十分に察することができるだろう。いつの時代だと言いたくなるが仕方ない。この国は立ち上がりが遅く、いつも他国に置いていかれる傾向にあるのだから。
さておき。馬車がメインということであるが、人間の乗るスペースとは別に馬が走るためのスペースも必要となる馬車は、めちゃくちゃ空間を占拠する。朝の通勤時間帯ともなれば多くの馬車が行き交うことになり、結果大渋滞が生まれている現状がある。
再びお嬢の生活に戻ろう。マスカラのせいで若干出発に遅れの生じたお嬢。結果いつもの時間の馬車には間に合わず、混雑のピーク真っ只中に突入した。するとどうなるか。
「……はあ、行くしかないのね」
ここまではいわゆるオフピーク時間、死ぬほど混雑していたが、まだまだ混雑の限界ではない。だがここからは完全なピーク時間。会社員を始めとして、学生や死にかけのじいさんばあさんも馬車を利用する時間帯となる。そのため、通常の馬車が往来を走っていると、混雑のあまり動けなくなってしまうのだ。だから、こんな便利なサービスが登場した。
「今日も凄い行列ね」
ずらあああああああっと並ぶ行列の数、およそ数百人。彼らが待っているのは、一度に数十人が乗ることができる大型の馬車、スレイプニル車によるバス運行である。
8本足の軍馬は定員の30人が乗っても尚力強く大地を踏みしめ、快適な速度とともに彼らを目的地へと連れていってくれる。その乗り心地と代償に。
「ぷぎゅううううううう」
お嬢、潰れる。
小さな身体は汗臭い太ったオッサンにサンドイッチされて宙に浮き、背中越しに彼らの体温とツンとした臭いを感じる。しかしながら動くこともできず、ただただ地獄のような時が終わるのを待つしかないのだ。だが、地獄はまだ序章に過ぎない。まだ30人しか乗っていないのだ。スレイプニル車内にアナウンスが聞こえる。停車します。
「ぶぎゅべぼおおおおおおおお」
お嬢、さらに圧縮。
定員の30人を超え、さらに人が乗車する。
肩が触れ合う程度の車内は、全員が軽く押し合う程度に人が増加し、身動きがとりづらくなっていく。とはいえ、身体が小さく華奢なお嬢が、この攻撃に耐えられるはずない。サンドイッチ状態だった身体は1人オッサンを追加したことでトリプルサンドイッチになり、お嬢の尻とオッサンの尻が尻相撲をする形となった。
さて、現代日本の都心に住まう者ならなんとなく予想が付くことではあるが、当然この後も人が乗る。お嬢はフォースサンドイッチされ、スレイプニル車には定員の2倍以上の70人程度が乗ることになるのだが、どうせ同じ展開なので割愛する。こういうところも効率化である。
「つ、着いたわ……」
ようやくスレイプニル車から解放されたお嬢。
名も知らぬオッサンに身体を弄ばれ、満身創痍で辿り着いたのは行政改革ギルド、彼女の職場である。
「おはようございます……」
「おは――いや、凄い顔だねお嬢君」
「カイリキさん……実は、朝ちょっと間に合わなくてスレイプニル車に……」
「そ、それはご苦労様だね」
と、カイリキからは心からの労いの言葉。カイリキもまたスレイプニル車にお世話になることはあるが、たとえカイリキ程の肉体であっても、多くの人間による圧縮プレス攻撃はなかなか堪えるものがある。それをこんな小さな身体で支えることは難しいだろう。
「それなら、お嬢君には良いニュースがあるね」
「良いニュース?」
「ついにうちのギルドも、フレックスタイム制とテレワークを導入することにしたよ」
「!!!」
フレックスタイム制。その言葉に馴染みのない人もいるだろう。ざっくり言うと、『コアタイム』という会社側で決めた『この時間だけは必ず働いてくれ』という時間以外は、自由に労働時間を決定して良いという仕組みである。
システム的には、例えば定められた勤務時間7時間30分の内、休憩時間を差し引いた4時間はコアタイムで勤務を行い、残りの3時間半は個人の都合で働き方を調整してよいといった具合だ。一般的にコアタイムを10~15時に設定している企業が多く、究極的には10時に出社して15時に帰ることも問題ないのだ。その代わり企業によっては働いていない分が賃引きとなることもあるのだが。
そしてテレワーク。昨今は国際的にテレワークの導入が声高に叫ばれているため、認知度が極めて上がってきているが、要はオフィスに行かずに家で仕事をする仕組みである。
ここ大日本帝国においては『ぱそこん』を満足に使用できないジジイやババアが多く、一世代前の人間からすれば考えられないことであった。しかし、行政改革ギルドにおいてはザザ・ナムルクルスが暴れ回った結果、テレワークの導入が決定した。ギルドメンバー全員に対してパソコンとオンライン会議用のカメラが支給され、オンライン会議用のチャットやビデオ通話の方法を講習でレクチャー済みである。なお、ちゃんと講習の成果が活きているかどうかは別である。
「ようやく……ようやく、あの満員馬車から解放されるのね!!」
「ザザ君に感謝しないとね」
「ありがとうザザ君!!!!……あれ、ザザ君は?というより、最近ずっと姿を見ていないような気がするわね」
「あれ、言ってなかったかな?ザザ君なら、先月から試験的にテレワークしてもらってるよ。『ごめんお嬢さん、お先に失礼します!』だって。あれ、お嬢君どこ行くの?」
「ちょっと抜け駆けした人を殴りに」
「へええええっくしょおおおい!!!!!!うん?誰か俺のことを呼んだのかな???チャットでも見てみるか!」
お嬢『今そっちに行くわ』
「わーお、死んだぜこれは」
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