室内に一瞬の静寂が訪れる。やがて1人が音を上げたのか、かすれたような声を絞り出した。
「スパイ……ですか」
「そうだ。余の大日本帝国、その中枢組織。中央ギルドには“スパイ”がいる」
迷うこともなくご断言なされたテンノー陛下。そのあまりに堂々とされた立振る舞いに、流石の従者たちも困惑している。何故このお方は、自国にスパイがいると断言したのか、そして何故スパイがいると分かって尚堂々とした態度を取られているのか。
従者たちがあまりに怪訝な顔をしているのを見て、テンノー陛下はぷっと噴き出されると豪快に笑われた。
「あーっはっはっは!!!くくく、なるほど、そなたたちは自国にスパイがいると戦々恐々しておるのか!いやはや、それはすまなんだ。スパイと言ったのはある意味正しく、ある意味正しくない。だが少なくとも、そなたたちが思うような本物の“スパイ”ではないよ。いわゆる言葉の綾と言うやつだ。どうか許せ」
「へ、陛下!」
「そう怒るな。今からちゃんと説明する」
テンノー陛下はすっと立ち上がると、居室に飾ってある掛け軸までとことこ歩く。そのまま掛け軸をぺらりとめくれば、掛け軸の裏には壁埋めの隠し金庫があった。
「隠し金庫!?」
「な、なんとベタな……!」
「大したものは入っておらんからよいのだよ」
ダイヤル錠を右に左にカチャカチャ回し、難なく扉を開けた先にあったのは、1つの古臭い書物であった。それは表紙やカバーの劣化度合いから相当な年代物であると推測されるが、カビ臭さは全く感じられず丁重に扱われていることがよく分かる。
タイトルは――。
「サボタージュ、マニュアル……」
「左様」
従者の呟きにお答えになる陛下。表紙はメリケン語で書かれているようだ。その作者は、えーと、だぐらす・まっさー、何?
「これは我が家が代々受け継いできた貴重な書類……とは言っても、過去の世界大戦後にメリケンのマッサーカーからもらったものよ。あまりに読み込み過ぎて、すっかり数百年ものの本と変わらんボロさになったがな」
「ダグラス・マッサーカー!!当時のメリケンのトップですか!」
世界大戦で敗北した大日本帝国は、メリケン国支援の元で復興への道を歩んでいくことになる。その当時のメリケン国のトップがマッサーカーであり、この書物はその時からの代物である。とはいえ、高々数十年程度でこれだけの劣化をするとは到底思えない。なるほど、見た目のボロさはテンノー陛下の熟読の賜物であらせられたか。従者たちが納得しているのを気にすることもなく陛下はお話を続けられた。
「これは……まあ、そうだな。シンプルに言えばメリケンの対外情報機関、スパイ組織の工作マニュアルだ」
「工作マニュアル!?」
「ああ。当時、敵国や占領下にある国に対して、組織活動や生産性を妨害して弱体化させることを目的として作られている。これは、当時のメリケンのトップであるマッサーカーから祖父が記念に譲り受けたものだ」
テンノー陛下はパラパラと書類をめくる。そして、ふとその手を止めると顔をお上げになり、従者たちの顔をご覧になった。
「色々面白いことが書かれているから、後で写本を渡そう。ゆっくり見るといい。とりあえず、今は概要だけざっくり話すぞ」
ごくり。と、生唾を呑み込む音がする。それは自分だったか隣の者だったか。前のめりになる体を起こして背筋を伸ばし、従者たちは神妙な面持ちでテンノー陛下のお言葉を待つ。大国メリケンのスパイ工作マニュアル……いくら陛下が『お前たちが想像するスパイではない』と仰ったとしても、スパイという言葉が付くなら従者として気が気じゃないのも無理のないことだ。
たっぷりと間を取ってニヤニヤとお笑いになられた陛下は、ついにその内容を語られた。
「1つ、誤解を招きやすい指示を出すこと」
「……」
「……」
「……それだけですか」
「まだあるぞ。1つ、意思統一のために長時間の議論を行うこと」
「……」
「……」
「……あの」
「だから言ったではないか。お前らの想像するスパイではない、とな」
だがな、と陛下は付け加える。
「ここに書いてあることを行使した場合、100%の確率で生産性が落ちるだろう。マニュアル化されるだけのことはある、実に理にかなった方法だ。そしてこの方法は、今の大日本帝国に深く、深く、深く深く、谷よりも海よりも深く根付いてしまっているのだ」
先程までのニヤニヤ顔は完全に姿を消し、陛下がお見せになった眼差しは真剣そのものであった。
「お前らも、ここに来る前は一般の企業に勤めていた者もいるだろう。その時の上司を思い浮かべよ。そして、これから余が言うサボタージュマニュアルの中身を聞き、上司がスパイだったかどうか判断するがよい。――ゆくぞ。
1つ、誤解を招きやすい指示を出せ。
1つ、意思統一のために長時間議論せよ。
1つ、出来る限り不備を指摘せよ。
1つ、準備を十分行い完全に準備ができているまで実行には移すな。
1つ、高性能の道具を要求せよ。道具が悪ければ良い結果が得られないと警告せよ。
1つ、常に些細な仕事からとりかかれ。
1つ、重要な仕事は後回しにせよ。
1つ、些細なことにも高い完成度を要求せよ。わずかな間違いも繰り返し修正させ小さな間違いも見つけ出せ。
1つ、重要な決定を行う際には会議を開け。
1つ、もっともらしくペーパーワークを増大させファイルの数を増やせ。
1つ、通達書類の発行や支払いなどに関係する決済手続きを多重化せよ。
1つ、すべての決裁者が承認するまで、仕事を進めるな。
1つ、すべての規則を隅々まで厳格に適用せよ。
1つ、何事をするにも「通常のルート」を通して行うように主張せよ。決断を早めるためのショートカットを認めるな。
1つ、可能な限りの事象を委員会に持ち込み「さらなる調査と熟考」を求めよ。委員会のメンバーはできるだけ多くすること。
1つ、議事録や連絡用文書、決議書などにおいて細かい言葉遣いについて議論せよ。
1つ、以前の会議で決まったことを再び持ち出し、その妥当性について改めて問い直せ。
1つ、あらゆる決断の妥当性を問え。
1つ、ある決定が自分たちの管轄にあるのかどうか、また組織上層部のポリシーと相反しないかどうかなどを問題にせよ。
1つ、会議では長いスピーチを頻繁に行え。自分の言いたいポイントを説明するのに、個人的な経験や逸話をたくさん盛り込め。
1つ、重要な仕事がたくさんあるときに限って、会議を行え。
1つ、指示の意味が理解できなかったふりをして、何度も聞き直せ。
1つ、重要な書類を間違ったファイルに保存せよ。
1つ、自分のスキルや経験は、新人に教えるな。
くくく。さあ、お前の上司は一体何個当てはまったかな?」
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