陶然とした表情を浮かべていたヨシュア君が驚きで眼を丸くする。
所詮は凡人。ヨシュア君では、分かりようがないことだろう。賭けてもいいが、この作戦では絶対にアッシュルの結界を破ることはできない。
「五分」
「えっ……?」
「砂粒を散布してから、かれこれもう五分経つ。私の予想だと、そろそろ向こうに動きが出る頃合よ」
言うが早いか、砂嵐に異変が生じる。アッシュルの街を茶色く染め上げていた砂嵐に、ところどころ乱れ出しているようだった。
「結界魔道具の設定を弄ったのでしょうね。例えば、速度上限を引き上げてしまえば、途端に砂の粒は結界を通過するようになるわ。実際、速度上限を50kmも引き上げて時速150kmから時速200kmにされると、魔法による加速では到底実現できない速さになってしまうわね」
「そ、そんな……! で、では……」
「そのための追い立て。そのためのキルクーク。そのための――石油よ」
私は第二陣の航空魔法士官を飛び立たせた。
キルクーク・ヌジに関しては、住民の追い立てを行っていない。その理由は、ここに存在する油田と、そこから産出される『石油』が目的だからである。
査察で見たあの胸糞悪い拷問がヒントになった。温故知新。昔の人の知恵だって馬鹿には出来ない。古来の戦争では、魔法ではなく石油を用いた兵器が猛威を振るっていた時代もあるのだ。
「――投下」
砂嵐が晴れ始めたアッシュルの街へ石油の詰まった樽が次々に投下される。そして、中ほどまで落ちたところで火属性魔法により着火される。
ここで、もう一つの答え――温度を満たした。
火矢や火属性魔法からの延焼などを想定し、この手の結界には高温の物体を退けるように設定されているという。
燃える石油を『攻撃』と判別した結界から干渉音が鳴り響いた。
「これで更に継続して結界の魔力を削り取れるわ。砂の粒より効率は落ちるけど、三時間もすれば破れるんじゃないかしら?」
「し、しかし……砂の粒の時と同様に、今回も設定を弄られれば通過するようになってしまうのでは……?」
「そうね。だから、さっきのはそのことを教えてあげたのよ」
第二陣が戻ってくると、間髪を入れず第三陣が飛び立つ。そしてまた、次々と石油の樽が投下される。結界の天辺付近に落ちた石油は、そこにあった石油から火を貰いつつ結界を滑り落ちてゆく。
だが、それも途中まで。さっきまでは回転させるように風を魔法で吹かせていたが、今度は吹き上げるように風を吹かせている。
その様を見て、ヨシュア君がようやく気付いたようだった。
「――そうか! 今のアッシュルには、各地から追い立てられて来た民が溢れ返っている!」
「そういうこと。もし、向こうが温度上限を変えて石油と火を通過させた場合、とんでもない数の民草が犠牲になるって訳ね。要するに人質よ」
砂粒の時と同じように設定を弄れば、通過した石油が民草の頭上へ降り注ぐだろう。もっとも、こんな悪辣な手段はファラフナーズが相手でもなければ、使う必要がなかった。砂粒では対応されるからこそ用意した次善の策だ。
暇つぶしは、この辺にしておこう。
第四陣が飛び立つのを尻目に、私は立ち上がってぐっと身体を伸ばした。
「じゃ、そろそろ行きましょうか。兵を纏めるようルシュディーに伝えなさい」
「えっ……ど、どちらへ向かわれるというのですか?」
「つくづく察しが悪い男ね……アッシュルに決まってるでしょ。とっくの昔に、降伏勧告は済ませてあるわ」
ほぼ確実に、ファラフナーズは降伏勧告を受け入れる。
『故郷の皆を幸せにするのが私の夢だ』
ファラフナーズの言葉に嘘はない。そして、彼女の気持ちは今も変わっていない筈だ。
なぜなら、ファラフナーズは確かザジロスト山脈の向こう――ペルシア地方に任官したと本人から聞いている。だのに、ここメソポタミア地方で軍を指揮しているという事実が、彼女の持つ不変の愛郷心を証明している。
その時、白旗を持った使者の一団が結界を潜って出てきた。
「――急ぎなさい、モタモタしてると示しがつかないじゃない。これからアッシュルを占領するってのに」
「は、はい!」
破顔しながら、ヨシュア君がルシュディーのもとへ駆けてゆく。
(走れ走れ、アンタのような凡人はそれぐらいしか出来ないんだから)
私は、まずは挨拶でもしようとゆっくりと使者の一団へ歩み寄っていった。
事前の計算では三時間で結界が破れることを説明し、それまでに武装解除すれば民草へは手を出さないと伝えた。すると、使者の一団は特に交渉などすることなくこの要求を呑んだ。恐らく、ファラフナーズから全面的にこちらの要求を呑むように言い含められているのだろう。
兵らに命じ、敵兵の捕縛と解除された武装の処理をさせる。疲れは相変わらず溜まったままだろうが、戦勝の喜びによって疲労は一時的に麻痺しているようだった。
全ての作業が恙無く終わったところで、兵らをアッシュルの結界内へ進駐させてから、火の付いた石油を消火した。
「さあ、進軍よ」
兵らに隊列を組ませ、一糸乱れぬ行軍でアッシュルの中心に位置する宮殿へ向かう。少し前までは死にそうな顔をしていた連中が、なかなかどうして様になっている。
捕虜にした将官の半分ほどを取り敢えず殺し、槍の先に突き刺して先導する兵に掲げさせている。戦いの前であれば却って敵軍の戦意高揚を招く行為だが、敗戦後であれば誰が勝者で誰が敗者かを明確にする効果があるだろう。
街中から注がれる畏怖と絶望の視線を浴びながら、我が軍は宮殿の広い中庭に遠慮なくドカドカと上がり込んだ。
向こうから見知った顔が歩み出てきたので、それに応じて私もまた部下たちを下がらせ一人で前に出る。
「まあ……よくやった方だと思うわよ。ファラフナーズ」
「そうだろうか。こうして、見るも無惨に負けてしまったが」
「途中参加の割にはね」
こっちは年単位で準備していたのだ。ぽっと出のファラフナーズに負けてたまるか。
「戦後の話をしましょう」
差し当たって、取れるものは取ってゆくとして、賊まがいの略奪だけでは芸に欠ける。イリュリアによる間接統治を盤石なものとするためには、いくつかやらなければならないことがある。
私は持参した資料をファラフナーズへ差し出した。
「これが一応、『アッカド共和国』の建国までの流れになるんだけど」
「分かった。――目を通しておいてくれ」
ファラフナーズは、私が渡した資料の中身を少しも覗くことなく後ろの秘書官へ回した。
(……ファラフナーズ、まさか……)
その態度に思うところがなかった訳ではないが、私はそれを直接的に口にすることはなかった。
「……ずっと、聞きたかったことがあるのよ。アンタは『故郷の皆を幸せにするのが私の夢だ』と言ったわよね。その気持ちに嘘はない?」
「無論だ」
「それ、なんで『故郷の皆』だけなの? 他は?」
ファラフナーズは、良心的な人間だろう。その〝力〟を、その才能を、利他的なところに注ぐべく生きている。そういう人間だ。
しかし、だからこそ『故郷の皆』と限定するところだけが解せなかった。
(私は……差別しない)
じっと瞑目して私の話を聞いていたファラフナーズが徐に瞼を開く。
「私は、この世の全てを己が両手で掻き抱けるとまでは驕っていない。現実と、理想と、その両方を考えた時、やはり『故郷』が譲れぬ最後の一線だった」
「そこをどうにか譲ってくれないかしら」
「……どういう意味だ?」
私は、ファラフナーズの眼を覗き込み、その奥に押し込められた彼女の良心へと訴えかけた。
「――ファラフナーズ、私のもとへ来なさい」
揺れた。
今、間違いなくファラフナーズの静謐を湛えた瞳が僅かに揺れた。
「戦乱の早期終結は一国の勝利によってのみ齎される。それが、イリュリアであるのと、パルティアであるのとに、一体、何の違いがあるというのかしら。ファラフナーズが誰かを幸せにしたいというのなら、それがイリュリア国民であることに何の問題があるというのかしら。加えて言えば、これからはアッカドの人間もイリュリア国民に数えられるというのに」
私は勝つ。
勝って、全てを終わらせてみせよう。
「だから――私のもとへ来なさい、ファラフナーズ。現場で指揮できる人間が圧倒的に足りてないのよ。アンタの助力があれば、戦乱はより早く終わらせることが出来るわ」
「……ありがとう」
その時、ファラフナーズは今まで見たこともないような満面の笑顔を浮かべた。父と母と平和に抱かれる幼子が浮かべるような、何の憂いも感じさせない屈託のない笑顔を。
そんな顔を見せられたら、私はもう何も言えない。
踵を返して、宮殿の中へ去ってゆくファラフナーズを、私はただ黙って見送るしかできなかった。
それから暫くして、ファラフナーズと共に宮殿の中へ入っていった秘書官の一人が、人間の頭部ほどの木箱を抱えてやってきた。
涙ながらに差し出された木箱の上には、折り目正しく便箋が乗せられていた。私はその便箋を手に取り、静かに開いた。
『貴殿の誘いは、正しく望外の喜びであった。人間、歳を重なるにつれ言葉を弄することを覚え、自他ともに二十を数える頃にもなれば、心からの「手放しの称賛」というものからは随分と遠ざかる。いわんや敗戦の将をや。
戦乱の早期終結を願う心は私とて同じ。かつては友とも呼びし貴殿の言葉、しかと私の胸に響き申した。
されど、いやしくも私を将と慕い、敬い、付き従ってくれたアッカドの民をこそ我が主君と思えば、厚顔無恥にも敵方へ返忠すること罷りならぬ。
故、槍先に殉じた同胞に倣い、今生を将たる責に殉じる所存。
遺骸は好きに召されたし』
署名すら省かれた短い遺書だった。
しかし、この妙に堅苦しい文書を見れば、書き手が誰であるかは明白だった。木箱を受け取り中身を検めた私は、納められた彼女の額にそっと接吻を落とした。
ファラフナーズは宮殿内で自刃し、その首を自ら斬り落としてこの木箱の中へ収めたのだろう。
「……敵将ファラフナーズの遺骸はこの地へ埋葬してあげなさい」
「諸将と同じく辱めないので?」
ヨシュア君が、てんで空気の読めない発言をする。頬が上気しているところを見るに、少し興奮し過ぎているらしい。つくづく、平凡な男だ。
「民衆の機微が読めないの? そんなことしたら民の恨みを買うわよ。戦争は勝って終わりじゃあないでしょう。その後の統治も考えなきゃあね。『高潔なる武人。敵ながら天晴』とでも言って、遺骸は丁重に扱いなさい」
「分かりました!」
ヨシュア君を遺骸の埋葬に遣わせ、その間に私は兵らに呼びかける。
「聞け、幕僚ども! 軍人は殺してよし、文人はほどほどになら殺してよし! 旧態依然、頑迷固陋の老人どもは排し、まだ何者にも染まりきっていない若人を徴用しなさい! その方が扱いやすいわ! 既得権益は引っ剥がせるだけ全部引っ剥がせ! 最悪、土地と税さえ抑えりゃこっちのモンよ!」
しかし、これより悲しいことがあるか。
友の死は、それ自体が悲しいことだ。けれども、その死を悲しむ暇すらないというのは、これまた例えようもなく悲しいことではないか。
兵らが狂喜乱舞して、金目のものを求めて宮殿を走り回る。
怯える顔でそれを見つめるアッシュルの民は今、何を思うか。
私はそのどちらにも、あまり興味を持てないでいた。
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