イリュリア王国一の野心家を自負するロイ・アーヴィンにとって、玉座とは唯一にして無二の上がりだった。
それは自身に流れる英雄王家の血がそうさせるのではない。例え貧民窟のちっぽけな孤児としてこの世に生まれ落ちていたとしても、その上昇志向は必ず社会の頂点、つまり玉座を目指したことだろう。
しかし、百年前ならそれでも良かった。五十年前でも、十年前でも。
もっと言えば、現代においてもイリュリア王国以外の国であれば、それで良かった。
アルゲニア王国でも、パルティア王国でも、ガリア帝国でも、神聖エルトリア帝国でも、ヒジャーズ王国でも、ナジュド部族連合でも、ヒムヤル王国でも、アビシニア帝国でも。
この現代、イリュリア王国に生まれ落ちたことが、ロイ・アーヴィン最大の不幸だった。
先の国王一家逃亡事件。ロイ・アーヴィンはその手助けをする一方で、その裏では計画を失敗させるべく妨害する手筈をも抜け目なく整えていた。
国王一家の監視役だったベルンハルト中将と密かに相通じ、いち早くその計画を察知したフリをして国王一家の追跡・捕縛に一役買い、ロイ・アーヴィンは平民と議会から更なる信頼を得た。
しかし、ロイ・アーヴィンの思惑通りに進んでいたのはここまでだった。
ロイ・アーヴィンの計画では、現・国王である〝狂王〟を体良く追い落としつつも己の評価を上げ、立憲君主王政を成立させた後、必ず訪れるであろう反動を利用して自らが玉座に就く目論見であった。
予想外だったのは、革命の進行速度であった。
議会は、既に安定を求める方向で大勢は合致していた筈だった。それがどうしたことか、少数派である筈の急進的な勢力が平民の後ろ盾を得て議会を牽引しようとしている。
明らかに何者か、才ある者の関与が認められる。それはそう遠くないところ――議会の中に潜んでいる筈なのだ。
誰だ……誰が革命を促進している?
「――『イスラエル・レカペノス』ですよ。お父様」
学院への入学を機に、何の断りもなく名を『ヘレナ』と改めたアーヴィン家の長姉メアリ・アーヴィンが熱に浮かされたような顔で断言する。
「なぜ、分かる?」
「なぜ、分からぬのですか?」
誂うような声色のニュアンスを込めて、即座にメアリは問い返した。
「……分からぬ。根拠は何だ」
「見れば分かるでしょう。彼の者の放つ輝きは尋常のものではありません。一目瞭然かと」
「ふざけるのも大概にしろ!」
メアリの態度は些か真剣味を欠いているように見え、ロイは我慢できず怒鳴り散らした。彼がここまで怒りを表出するのは、非常に珍しいことだった。それだけ現状に対する焦りを募らせ、平静さを失っているということの証左である。
「このままでは〝狂王〟が処刑されてしまうのだぞ!」
議会では、〝狂王〟を裁判にかける流れが既に出来上がっている。今回、この席をロイが設けたのは、遅ればせながらその件を阻止する術について話し合うためだった。
「それを避けねばならぬから、恥を忍んで娘のお前にも知恵を借りようと言うのだ!」
「なぜ、避けようとするのですか?」
「ここで歯止めをかけねば今までの努力が水の泡だ。立憲君主王政という落としどころも霧散し、革命は暴走を続ける! それが分からぬお前ではないだろう!」
激しい熱を帯びるロイに冷や水を浴びせかけるように、メアリはしれっと答える。
「はい、分かっていますよ」
「だったら――」
「ですから、もう諦めたらいかがです?」
「は……」
ロイは言葉を失った。自分の娘が何を言っているのか、理解したくなかった。思考が停止し、ロイの脳内には一瞬の空白が訪れた。しかしメアリは、混乱するロイを些かも慮ることなく、ここぞとばかりに言葉を畳みかける。
「立憲王党派の面々はお父様以外大体亡命しましたよ。〝狂王〟の処刑どうこうの前に、ご自身の身の安全を心配なさったらどうですか」
「そ、そんなこと……できるかぁ……!」
ロイには理解していた。一度亡命をしてしまえば、もう二度と返り咲く機会はないことを。そして逆に、このまま国に留まっていてもロクな末路を迎えないということも。
理解していながら、彼は一縷の望みをメアリに求めた。
ロイの生まれ持った野心は、決して彼に亡命の選択を許さない。だが、それでは八方塞がりだ。
どうしたら良い?
馬鹿なのか。そんなこと、『唯一神』にだって分かるものか。
しかし、お前になら……答えが分かるのではないか。
ロイはそう考えた。とんだお笑い草だ。娘を『唯一神』の上位に置くなど、正気の沙汰とは思えない。
――分かっている。
そんなことはロイも重々承知している。しかし、だからこそとでも言うべきか。やはり、ロイは『保身』の提案に頷くことはできなかった。
「野心を持って死するなら本望よ。誰が保身なんぞを……!」
「――だから、貴方は器じゃないのです」
「な、なんだと……!?」
血反吐を吐くような思いで放った開き直りの言葉すら、メアリはざっくばらんに切って捨てる。
「物心ついて以来、私はただの一度も貴方の夢物語を信じたことはありません。貴方には未来がない。王になることだけが目的で、その先が何もない。剰え、下らない矜持を抱えてヤケになって死のうとしている。――器じゃない」
念押しをするようにメアリは再び断言した。ここまで執拗に言われると、怒るよりもその頑なな姿勢に対する困惑と疑問の方が先に来た。
「……なら、一体誰が『器』だと言うのだ? 『イスラエル・レカペノス』がそうだとでも?」
イスラエル・レカペノスのことはロイも知っていた。しかし、有象無象の議員の一人という印象しかなく、実際それほど目立った活躍をしていた訳でもない。だというのに、自他ともに聡明と認める長姉メアリはあっさりと首肯した。
「はい。私が見た中で『器』を備えるものは二人――そのうちの一人がイスラエル・レカペノスです」
「二人? もう一人は誰だ。お前か?」
「いいえ、私の学友――リンです」
ロイの口から乾いた笑いが漏れた。とうとう狂ってしまったのだ、我が娘は。唯一心の底から頼れる味方を失い、ロイは虚脱した表情で絶望の淵を彷徨い歩いた。
一方、メアリはそんな父の様子を見ても動揺することなく、話は終わったとばかりにさっさと席を立った。
「ともあれ、私が出来る助言は一つだけです。命が惜しくば、大人しく賛成票を投じることですね」
「亡命、ではなく……賛成票、か?」
「ええ、亡命は無理でしょう、お父様のような野心の塊には」
ロイは、自身を見下ろすメアリの冷淡すぎる眼に驚いた。彼の知るメアリの姿は、いつも従順で献身的に振る舞う出来た娘にして、高度な話まで相談出来る|僚友《
りょうゆう》だ。
それが、まるでどうだ。
メアリのこの眼は、分を弁えぬしつこい乞食を見下ろす時の眼ではないか。
蔑視――メアリの眼には、溢れんばかりの軽蔑が満ちていた。しかし、それだけでなく、中には別の光も宿っている。
それは――狂気。
狂気とは自己陶酔の世界。他者の介在する余地はない。ゆえに、狂気に満ちた世界においては蔑視など存在し得ない。
逆に蔑視は理性の存在なくして語れない。他者を蔑むは、一個と一個を区別する理性の働きあってのこと。
理性と狂気。相反する二つの存在が、メアリの眼中では反発することなく綺麗に混じり合っていた。
「――しかし、亡命をしたくないからといって、このまま行けば十中八九死にますから、お父様はぎりぎりで方向転換して生き残りを図るでしょう。私には、そんなお父様の心理の移り変わりが手に取るように予測できてしまうのです」
その時ロイは、メアリの眼に一瞬だけ『親愛』の情が混じるのを見た。
「せいぜい、ご自愛くださいよ。お父様」
そう言って、踵を返すメアリをロイは呼び止めずにはいられなかった。
「待て……」
メアリが、魔法学院という実家から距離を挟んだ場所にいるのを良いことに、裏でアーヴィン家と宰相ロイの名を使って好き勝手に暗躍していたことは知っていた。だが、それを見逃してきたのは単に血縁が理由ではない。
もともと、『革命』は王党急進派として、ロイが現在の国王を引きずり下ろすための方便だった。メアリには、志を同じくする家の魔女たちを纏める役割を与えていた。
それゆえに、一人の政治屋としてその実力を信用していたからこそ、派閥対立の激しい学院で生き残るために必要な行動だとロイは信じたからだ。
また、予想外の異物だった民宗派への対応に際しても、メアリは他の阿呆な王党派貴族以上の貢献を果たしてくれた。内通者の炙り出しや、その者を二重スパイとして送り込むなどは全てメアリの手腕だ。その一連の結実として、内海の湖底に拵えられた民宗派の本拠地を特定し見事潰してみせた。
だから、月を蝕むものを集めて『寄合』なる組織を作り上げていると知った時も、それは必ずやアーヴィン家のためになる行動と信じた。
だが――ここまで来たら現実を直視し、認めなければならないだろう。
このイリュリア王国には、ロイの手の及ばぬところまで『革命』を促進してきた才人が二人いた。
一人はイスラエル・レカペノス。
そして、もう一人は――メアリ・アーヴィンだ。
「お前は……どうするんだ。これから」
「そう言うお父様こそ、聞いてどうするのですか?」
「……どうも、しないさ」
今更、気付くような自分に何ができるというのかと、ロイは自嘲と諦観の笑みを浮かべる。すると、メアリは特に逡巡した様子もなく今度の予定を打ち明けた。
「私はこれから王党派の反乱を起こし――『イスラエル・レカペノス』を殺しに行きます」
眩しい……ロイは、メアリを直視していられず、ぎゅっと瞼を閉じた。
だが、これは人を惹き付ける類の光ではない。人の眼を焼き、身を焦がし、破滅に追いやる類の光だ。
誰にでも、その危うさを本能で理解できる。
だから付いて行けない。誰も。
その光は……眩しすぎる。
「……死ぬぞ、メアリ」
「もとより、『革命』のために命は捨てるつもりでいました。それと――」
ロイの心配を余所に、メアリは無愛想に付け足した。
「私は、ヘレナ・アーヴィンです」
ロイは、彼女が『ヘレナ』の名前に込めた意味を、終ぞ知ることなく人生を終えるであろうことを悟った。ずっと、近くに置いていた筈の娘が、今はとても遠く思える。
「では――『自由』のために、死んで参ります」
後日、国王を断罪する裁判が開帳され、ロイは躊躇うことなく賛成票を投じた。
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