5.敗北
光が弾け、高密度の魔力が吹き上がる。まるで台風の中に放り出されたかのような暴風に押され、私は目を閉じて尻餅をついた。風が収まった時、おそるおそる瞼を開いた私の眼の前にあったのは、かつてのルゥとは似ても似つかぬ――異形の後ろ姿だった。
ドサッと地に伏したその背中には、蠍のような背甲が制服を突き破って隆起しており、その終端では針のように鋭利な尾節がクルリと弧を描いている。
「ルゥ……なの?」
赤子の遺体を地面にそっと置き、私は何も答えてくれないルゥらしき異形へそっと手を伸ばす。だが、私の手が触れるか触れないかのところで、それは大きくビクンと跳ねた。
「――ッ!」
驚いて手を引っ込めると、更に何度もビクンビクンと大きく痙攣し始める。そして、ズルリ――と大蛇が地面を這いずるような音がしたかと思うと、異形の下腹部辺りから何かが突き出た。
(……う、馬の脚?)
栗色の毛に覆われた長い脚が一本、二本と次々に突き出し、三本になったところで打ち止めになる。三本の脚は、まるでそれぞれが別々の意志を持っているかのように、ざりざりと地面を擦りながら頻りに宙を掻く。
それはまるで生命の神秘たる出産の光景のようであり、また同時に寄生虫が宿主の腹を食い破って這い出てくる悍ましい光景のようでもあった。
私はそんなアンビバレントに強烈な不快感と吐き気を覚え、思わず口元を抑えた。
それから暫く痙攣を繰り返した後、最後に一つ大きく跳ねて異形はおとなしくなった。馬の脚も、死んだように沈黙している。
「……失敗、だ」
ヘノベバがそう呟いた瞬間――ブチ、と何かの切れる音が頭の中から聞こえた。
「ふざ、けるな……!」
さっきはルゥを止めた私だが、もうそんな理性は欠片も残っちゃいなかった。躊躇なく、握った拳でヘノベバの顔面を強かに殴りつける。ヘノベバは抵抗することもなく拳を受け入れ、脱力したように地面に転がった。
ヘノベバからは、もう魔力の気配を一切感じない。符の起動に残りの魔力を全て注ぎ込んだのだろう。
「一体、ルゥに何をした!? 答えろ!」
「……〘人魔合一〙の強制執行だ……」
「強制執行……!?」
「元来、〘人魔合一〙の術は魔法使いには使えなかった。【契約召喚】と干渉してしまうからだ。しかし、我らが偉大なる呪祷士は遂にその欠点を克服し、契約を上書きするにまで至った……」
私は絶句した。相手を強制的に月を蝕むものにしてしまう上に、契約を上書きまでするって? こいつは今、自分がどれほど恐ろしいことを口走っているのか理解しているのか。
にわかには信じがたく、無意識的に声のトーンが落ちる。
「けど、それは失敗したんでしょ?」
「――〘人魔合一〙の術自体は問題なく機能した。しかし、運と資質の問題だろうな。定着し切らなかった」
定着とはなんだともっと詳しく聞き出したかったが、そのような見せかけだけのハリボテの理性は、ヘノベバの次の言葉を聞いた瞬間に頭から吹っ飛んでしまった。
「彼女でなく、君のような魔力量の少ないものが望ましかったというのに……やはり、魔力は枯渇していたとはいえ、もともとの魂の質が――」
この時、私が感じた激情は筆舌に尽くし難い。
「――ァァァァアアアアアア!」
頭に血が上り、思考が真っ赤に染まる。私は喉が張り裂けそうになるほど全力で叫びながら、怒りに任せて彼女の顔面を殴打した。
何度も。何度も。
気が付けば、ヘノベバはぐったりとしたまま動かなくなっていた。私はその時点で、生き死にを含めた彼女に対する一切の関心を失った。
「おい、返事しろよ……ルゥ! 眼を覚ませよ……おいってば!」
声の方を振り向くと、カルバが異形の身を引き起こし、激しく揺すっていた。それにより、俯せになっていた異形の顔が引き上げられ、私は嫌でもそれがルゥであるということを決定的に知ってしまう。
カルバは何度も繰り返し揺するが、ルゥは一向に眼を覚まさない。私は、少し視線を逸らしながら彼女たちに近づき、カルバの肩に手を置いた。
「あんまり、揺すらない方が良いわ」
ヘノベバは〘人魔合一〙の術自体は機能したと言ったが、定着し切らなかったという言葉が気がかりだ。何か、重篤な症状による昏倒の可能性もある。その場合、あまり揺らすのは良くない。
「テメェ……どうして、ンな落ち着いてられんだよ! これは、テメェの……テメェの――!」
ブチ、と再びそんな音が頭の中から聞こえた。
「――どこをどう見たら私が落ち着いてるように見えんのよ!」
私はカルバの顔を靴底で蹴り倒し、死んでも聞きたくなかった言葉の続きを遮った。こんなことをしても何になる訳でもない。頭ではそう分かっているのだが、むしゃくしゃする気持ちを抑えきれず、カルバが倒れたところへもう一発蹴りを入れた。
「な、何をしているんだ……!?」
そこへ、細い路地から姿を現したナタリーさんが駆け寄ってくる。どうやら、無事だったようだ。彼女は私とカルバを引き剥がし、周囲の様子を確認する。
「間に合わなかった……のかい?」
「……いいえ、私は間に合いました。そして、見ての通りに勝ちました。でも、何一つ……守れませんでした……」
「……そう、か……」
ナタリーさんは憐憫の眼をヨセフさんら家族の亡骸へ向け、次いで侮蔑の眼をヘノベバとダニエル、そしてカルバの手から零れ落ちたことで再び俯せになっていた異形へ向ける。
「それで、ルゥは……ルゥはどこにいるんだい?」
そう尋ねるナタリーさんの曇りなき眼を、私は直視できなかった。
「……それが、ルゥです……」
今、ナタリーさんが何の疑問も抱かず月を蝕むものの一人と断じ、侮蔑の眼を向けた異形の一つが、ルゥだ。
事態を把握するのにナタリーさんは少しの時間を要したようだが、把握してからは早かった。鬼気迫る表情でルゥのもとまで駆け寄ると、背甲に手をかけた。
グッと力を込めて引っ張るも背甲はビクともしない。だが、尋常ならざるナタリーさんが火事場の馬鹿力でも発揮したのか、徐々にルゥの背中からぶちぶちと嫌な音が鳴り始める。
「……やめてください。血が出てる」
見るに見かねた私は、ナタリーさんの手を掴んでその凶行を止めようとした。しかし、ナタリーさんは乱暴に私の手を振り払い、血走った眼で私を睨み上げる。
「うるさいよっ!」
そして、更に力を加えた。ブチ、ブチ、組織の千切れる音と、頭の中の音が重なる。
「――だから、血が出てるって言ってんだろ!」
怒りのままにカラギウスの剣を振るう。魔力の枯渇したナタリーさんは、何の抵抗も感ることなく斬り伏せられた。ルゥの上へ覆い被さるように倒れたナタリーさんを蹴り飛ばし、ルゥの横へ寝かせる。
それで一旦、場は静かになった。敵も、守るべき市民も、味方も、全て沈黙した。
唯一、私以外に意識のあるカルバも、普段の強気な態度を引っ込めてさめざめと静かに啜り泣くばかりだ。
(あ~、クソが)
私は天を仰いだ。
こんな時、マネが居れば……もう少し上手く対応できたのだろうか。私は冷静でいられたのだろうか。
遠くから集団の足音が迫ってくる。だが、もう既にそれが味方のものなのか敵のものなのかにも、私はあまり興味を持てなかった。
ガタ、ガタ、と定期的に大きく揺れる馬車の中で、私はただ呆然と床を見ていた。身体も脳みそも完全なる虚脱状態にあり、何も考えることができなかった。
掃滅作戦及び回収作戦は成功裏に終わったらしい。鉱山のカナリアの如く非人道的な扱いをされた見習いたちへの被害も最小限に留まり、大方の月を蝕むものを潰し終え、今は後片付けに奔走しているところだという。
しかし、だからどうしたというのだろう。
成功したから、なんだ。私には関係のない話だ。
私は、隣に座るヘレナの言葉を聞き流し、振動で床を跳ねる砂粒をじっと見つめ続けた。
「――! ――ン! ――リン!」
煩い。そう何度も耳元で叫ばれては煩くて仕方がない。文句の一つも言ってやろうと顔を上げたところで、不意に私の視界は黒一色に包まれた。
(……これは、学院の制服?)
数拍遅れて、ぼんやりと霞がかった頭が顔に伝わる布地の感触から状況を理解する。私の頭部は今、ヘレナの胸元に抱き寄せられていた。困惑しつつ気恥ずかしさから押しのけようとするが、ヘレナは抵抗するようにぐっと力を強める。
単純な腕力では私は誰にも敵わない。早々に抜け出すことを諦めた私は、しぶしぶ身を任せた。
「リン、これだけは教えてくれ。キミは勝ったのだよな?」
「……ええ、勝ったわ。でも」
「――皆まで言うな」
ヘレナはより一層、力強く私を抱きしめた。
「キミは精一杯やってくれたよ。私の想像以上に……結果はオマケみたいなものさ、勝利の事実以外は……」
そんなものは何の解決にもなりやしない、ただ傷心を慰めるだけの軽い言葉だ。本当なら鼻で笑ってやりたかった。だが、鼻腔に溢れる液体の所為でそれすらもままならない。
「大丈夫だ。キミの才能の輝きは些かも衰えちゃいない」
私は涙を堪えきれなかった。
ヘレナの前で泣くのはこれで二度目になる。どうしてか、ヘレナには弱っている人の心を揺さぶる才能があるらしい。思えば、イツァク卿も弱っているところを突かれて奮起したのだったか。
(ヘレナのその才能の所為だ……私が、特別……泣き虫な訳では……)
悪態も、強がりも、思い付く側から涙と共に流れ落ちてゆく。もはや、私に抗う術は残されていなかった。
やがて馬車がゆっくりと停止する。窓の外に目的地である病院が見えた。ベレニケで一番大きなこの病院には、作戦で出た負傷者が運び込まれている。私も、その運び込まれた負傷者のうちの一人という訳だ。
軽傷ゆえ後回しにされ、かれこれ数時間経って今ようやくの到着になった。道中の間に陽も傾き始めており、もうすっかり夕刻である。
ヘレナが腕をほどいて、すっと私から離れてゆく。
「あ……」
「さて……悪いが、私にはまだやることがあるのでな」
私は反射的に手を伸ばしたが、まるでとらえどころのない風のようにヘレナはするりと馬車を降りていってしまう。
地面に降り立ったところで、ヘレナは私の方を振り返った。
「リンよ、泣け」
――駄目だ。
これ以上、彼女を見てはいけない。
「泣きたいとキミの心が言うなら、思う存分に泣き喚け。そして、気が済んだのなら私のところへ来い」
見れば、この両眼は潰れてしまう。
「私は何時だって、キミの思い描くそのままに――私であり続ける」
私は堪えきれず眼を細めた。黄昏に照らされながらそこに佇むヘレナは、誇張なしに輝いて見えた。その尊大な容姿に安心感を覚えると共に、私はちろりと胸奥を焦がす劣等感を自覚した。
(どうして、アンタはそうまで強い……?)
彼女のもっとも親しい友人であろうマチルダもまた、重傷を負っているというのに。それが気にならない筈がないのに。
私とヘレナは何が違う。育ってきた環境か、持って生まれた素質か。
気が付けば、ヘレナはいつの間にやらどこかへ消え去っており、代わりに現れた御者が私の腕を掴んで早く降りるように言う。まだ怪我人がつかえているのだと。
「――うるさい」
知ったことか、そんなこと。
炉に火が焚べられたかのように、私の身体がカッと熱く燃える。止まっていた私の思考はゆっくりと、だが確実に動き出していた。
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