密やかな喧騒が、さざ波のように王都の広場に広がる。辛気臭い顔をした民衆の目と鼻の先には、鮮血滴る死体が吊り下げられていた。
その死体は、ツォアル侯爵邸襲撃を先導した煽動家――ナホムのものだ。激しい損壊の跡が見られるその死体は、彼が襲撃直前に演説したこの広場の街灯に自らの腹部から引き出された腸によって首をくくられ、時たま吹く風にぷらぷらと揺れていた。
民衆の中にも、彼のことを知るものが何人かいたようで、あるものは驚きをあらわにし、あるものは納得したような顔をしていた。ただ、表情には様々な反応が見られるものの、その反応の結果として現れた行動は皆一様に同じ――押し黙るというものだった。
もはや、ただ街中に死体があるというだけで騒ぐものは王都にはいなかった。
唯一例外があるとすれば、それはその死体が身内のものである場合だ。この時ばかりは、死体に慣れた王都の民といえども声を上げて泣き叫ぶ。有り触れた不幸が、身内の身にも降り掛かってしまった不運を嘆いて。
「――ナホム! ああ、ナホム! どうして!?」
三十過ぎくらいに見えるくたびれた女が、泣きながら周囲に死体を降ろすよう求める。それに応じて、どこからか枝切り鋏を持ってきた男が、気怠そうに街灯へ登って腸を断ち切った。
ドサッと地面にナホムの死体が落ちる。すると、女はその死体へ擦り寄って、また殊更に声を上げて泣いた。
そんな彼女に、民衆は鼻白んだ視線を向けて徐々に解散してゆく。別に面白いこともない。お節介焼きの誰かが警察を呼ぶだろう。だが、それは自分の仕事ではない。
皆、そう思っている。
私は、広場で繰り広げられる人間模様を遠巻きに観察しながら、手中の酒瓶をぐいっと逆さになるまで傾けた。しかし、落ちてきたのは瓶にこびり付いたなけなしの一滴のみ。舌打ちと共に酒瓶を適当に投げ捨てると、民家の壁にぶつかってガシャンと破片が飛び散った。その破片を避けた数人の中に酒瓶を持ったものが居るのを見つけて、私はそいつに話しかける。
「ねえ」
「急に酒瓶を投げ付けてきやがって! 危ねえだろうが、こんのクソガキが!」
「その酒ちょうだいよ。まだ半分以上はあるでしょ」
すると、男は大事そうに酒瓶を抱き抱える。
「は? この酒ぁオレのだよ、やるかよ!」
「金なら払う」
「うおっ!」
硬貨の詰まった袋を強めに投げ渡すと、馬鹿な男は両手で受け止めようとして酒瓶を手放しかけたので、私は落ちないようにさっとその酒瓶をキャッチした。
「こ、こんな大金……!」
「気にすることないわよ。私のじゃないし」
「ええ!?」
いい加減、馬鹿の相手をするのにも飽きたので、私は男を放ってくことにした。そして、人々の流れに逆うように女の背後へ歩み寄ってゆく。
歩きながら酒瓶を傾け、中身を一口だけ含み、ごくりと呑み下す。
「はぁ……全然、酔えない」
今まで、酔おうと思って酒を呑んだことはないから知らなかったが、私は酒に強い方だったらしい。それとも、今呑んでいるのが汚らしい貧乏人が呑むような安酒だから酔えないのか?
なんて、どうでもいいか。そんなこと。
私は酒瓶を傾けながら、未だ泣き続ける女に話しかけた。
「ねーえ。アンタ、ナホムの奥さんか何か?」
「ぐすっ……ええ、そうよ!」
「へー、子供はいるの? 貯蓄は?」
「なによ、なんなのよ……子供はいないし……貧乏暮らしで蓄えなんてする余裕もなかったわよ……それがなにか!?」
怒ったような顔で女は振り向く。確かに不躾な質問だったかもしれない。私は女を宥めるように優しく、こうして話しかけた目的を酒を煽りながら告げた。
「殺して欲しい? それなら殺してあげるけど。生きてても辛いだけでしょう」
「っ――どうして、そんなことを言うの!?」
その言葉は、別に本当に理由を問うている訳ではない。「どうして、そんな酷いことを言うのか」と女は言いたいのだろう。その意を汲んだ上で、私は答える。
「私が殺した」
「……はぃ?」
「ナホムは私が殺した」
要するに、その後始末ぐらいは付けようという程度のこと。私の発言を女が咀嚼し終えるのを、私は酒を煽りながらゆっくりと待った。数秒ほどすると、女の顔は真っ赤に染め上げられた。
「よくも、ぬけぬけと――! なら、あなたを殺して私も死んでやる!」
「ああ、そう……死にたいってことね」
私は酒瓶を無造作に手放し、懐のカラギウスの剣を引っ張り出すと、実体化させた魔力刃で女の首を刎ねた。
「――キャアアアアアアアア!」
誰かの上げた悲鳴によって、白昼堂々、衆目環視下で行われた殺人とその下手人が一斉に知れ渡る。動揺の広がる民衆の中心で、私は血振りした剣を懐に収めつつ、ゆっくりとこちらに倒れてくる女の身体をひしと抱き止めた。
刎ね飛ばした女の首は、狙い通りナホムの腹の上に着地する。それを見届けた私は、ナホムの死体の隣に女を優しく寝かせてやった。
「――さて、これから何をしようか」
私がさっき落とした地面の酒瓶を拾って歩き出すと、民衆は蜘蛛の子を散らすように道を開けた。
取り敢えず、私の足は病院へ向いている。まだ身体は完全には治っていないので、治療を受けなければならない。だが、自分の病室へ戻ったところで特にやることもない。寝るか、酒を呑むかだ。
こんな時、家族の思い出にでも浸れたら良かったのだが、既に浸り尽くしてもうロクな思い出が残っていない。
一斉魔力検査で魔力反応有とされた六歳の頃より、私は親元を引き離されて王都のクレプスクルム魔法女学院で過ごしていた。その所為で、家族との思い出らしい思い出は存外に少なかった。
「なーんも、ない」
これでは、何のために頑張っていたのかも分からない。
私が『星団』に入りたかったのは幼少時の憧憬もあるが、一番は家族のためだ。学院に来て、上には上がいるという当たり前の現実に直面して、当時の幼い私は簡単には諦めるようなことはしなかった。
妹たちに、ママに、そして亡くなったパパに、胸を張れるような魔女にならなくてはならない。
そう思って、優秀な魔女の象徴とされていた『星団』に入ってやると私は決意したのだ。
けれど、そういう強烈な動機を失った今、『星団』に入るという夢にかつてほどの魅力を感じなくなっていた。
夢のために諸侯派と揉めて王党派に付き、かと思えば王党派とも揉めて中立派になり、味方が欲しいばかりに教師を不倫の弱みで脅したり……本当、何をやっているのだか。
そういったこれまでの頑張りで、何か一つでも得たものがあるか。
否、何もない。
私には何もない。
考えるのも億劫になって、私はまた酒を煽った。
「不味い酒だわ……」
「……そう、悲観的になるな。あと、まだ治療が済んでねえんだ。こんなところで管巻いてないで早く病院に戻れ。酒も止めろ、臓器に負担がかかる」
「説教くれるな。耳障りなだけだわ」
最近ずっとマネが鬱陶しいったらない。治療が終わってもこの調子なら〝魔界〟に送り返そうかと真剣に考えている。
(まあ、それもどうでもいいこと……)
それより――本当に何をしよう。
これから何をして生きようか。
病院に着くまで考えても、特に何か心動かされる事柄を思いつくことはなかった。
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