もう、限界だ。
俺は背後を振り返り、幽鬼のようにゆらゆらと後に続く人々の列を見た。彼らは、運悪く此度の戦火に巻かれ、棲家を焼け出された難民たち――二百五名――である。
誰の顔にも疲労の色は濃い。もう、とっくに限界だった。
しかし、今更どこへ方向転換できるというのだろう。
あの日――情に流された俺が失意に沈んだ難民たちを纏め上げ、『理想郷』を目指せやと軍を抜けてまで旗手を買って出た時から、俺と彼ら難民の運命は二つに一つとえらく狭まってしまっているのだ。
所在も不確かな『理想郷』へ辿り着くか、それとも道半ばで力尽きるか……その二つに一つ。
実質、選択肢はあってないようなものだった。
――進むしか、ない。
「皆、もう少しだ!」
これが、口だけの慰めに過ぎないと誰もが理解している。だが、それでも誰一人としてその歩みを止めることはしなかった。歯がゆさで胸がいっぱいになる。できれば、希望となるようなことを言ってやりたいが、実際、そんなものはないのだからこれ以上どうしようもなかった。
或いは、ここまで一人の脱落者も出さずにこれたことを『唯一神』に感謝すべきなのかもしれないとさえ思い始めた。それほどまでに過酷な道のりだった。
(ここらで、手仕舞いにするべきか?)
身の程知らずと言ってしまえば、その通りだった。彼ら難民を、俺なんかが救えるだなんて、そんな英雄の如き所業を思い描いてしまったことが、まずそもそもの過ちだったのだ。
(せめて、どこか安らかに眠れる場所まで……)
難民たちの安否を諦め、死後の安楽を考え始めたその時。
「――シャーンドル!」
前方から馬に乗って駆けてくるものが居た。彼女は、先遣隊として向かう先の様子を見に行かせていた、俺と同じ部隊に所属していた魔法士のブーケパロスだ。行く時は徒歩だったというのに、その跨っている馬は一体どこで手に入れたのか。
ブーケパロスは抑えきれない喜びで頬を緩ませながら、俺の前で手綱を引いて馬を急停止させる。
「聞いて、シャーンドル! 良い知らせがあるんだよ!」
「良い知らせ?」
「うん!」
ブーケパロスは、まだ幼さの残る声で高らかに難民たちへ叫んだ。
「この先にある街に難民を受け入れる用意があるそうだよ!」
おおと、どよめきが広がる。次いで、歓声が上がった。そんな難民の反応を見てから、俺はようやく己の胸に湧き上がる喜びの感情を自覚した。
湧き上がる生存の喜びのままに、俺は勢いよく拳を突き上げる。
「皆、今の言葉は聞いたな! あと少しの辛抱だ、頑張ってくれ!」
この時、思い思いに叫ぶ俺たちの眼前には確かな『希望』があった。ハッキリと形を伴って見えていたのだ。ならば、それを目指すことに何の躊躇いがあるだろう。俺たちはこの先の幸福を信じて疑わなかった。
誰も、予想なんて出来なかった。
まさか、闘争から逃げ落ちた先に待ち受けていたものが、『絶望』という言葉すら生ぬるい更なる闘争であるなんてことは……。
触手の魔女・外伝 5.英雄
戦火に巻かれ、這う這うの体で辿り着いた文無しの俺たちを、アレクサンドレッタの領主は暖かく迎え入れてくれた。
異教の地と聞いていたが、信仰は違えど人間の根源的な良心はここにもあるらしい。暖かい食事と水を貰い受けながら、文無しの俺たちは代わりに差し出せるようなものを何も持っておらず、ただただ感謝の言葉を述べることしかできない。
しかし、アレクサンドレッタの人々は俺たちに何も要求することはなかった。無償の親切に報いられないことが、これほどまでに歯がゆいこととは知らなかった。
聞くと、難民がやって来たのは俺たちが初めてのことではないらしい。此度の戦争はかなり長引いているから、俺たちの他に逃げ延びてきた難民が居ても別に不思議なことではない。
だが、俺たちほどの大人数で来たのは初めてなので、対応が決まるまで暫く時間が欲しいとのこと。
ここで、俺たちは二つに割れた。アレクサンドレッタとその周辺に留まることを選んだ多数派と、飽くまで『理想郷』を目指す少数派だ。
到着直後、その比率は半々ぐらいだったが、俺たちの目指す『理想郷』はもっと西、ここまで歩いた道程の四倍ほどの距離にあるらしいと聞き、別にここでも良いんじゃないかという空気が難民たちの間に生まれた。
彼らにしてみれば、戦争のないところで受け入れてもらえて、飯が食えそうならそれだけで万々歳なのだろう。
昼頃にアレクサンドレッタに付いた俺たちは、今後の話を領主とした後、簡易的に拵えられた寝床で泥のように眠り、それから夜に起き出してきて、振る舞われた料理を慎ましやかに堪能した。
だが、地酒が振る舞われ始めると場は宴の様相を呈してくる。現地の人々も混じって、夜が明けるまで飲めや歌えの大騒ぎ。信仰や文化、肌の色といった些細な違いはあれど、俺たちは確実に皆、同じ血の通った人間だった。
翌日、微睡みの中で俺はマネを喚び出した。
旅の汚れを落とすためだ。俺は全裸になって喚び出した彼の体組織に浸り、全身の汚れを瞬時に溶かし落としてもらうのが好きだった。湯浴みをするのとは、また違ったひんやりとした爽快感がある。髪までやるとぎしぎしするので、やってもらうのは頭から下だけだ。
ひと心地ついたところで、マネが「ケケケ」と笑い出す。
「な、オレ様の言った通り本当に街はあったろ?」
道中は魔力を節約するために〝魔界〟へ送り返していたが、もともと『理想郷』の話はマネがしたものだった。
「ああ……マネが昔、『神』の一柱だったってのは、強ちウソでもないのかもな」
「あー、信じてねぇな」
マネは人魔開闢以前の『無明時代』において、一地域の信仰対象として君臨していたという。
その話を聞いていたこともあり、俺は名乗りたがらない彼に「エマニュエル(意:神は我らとともに)」という外国語の名前を付けた。呼び名ないと不便で困るからだ。それが省略形の「マニュ」になり、更にそれを異国出身のブーケパロスが異国訛りで「マネ」と呼び、いつしか俺も周りも彼女に合わせて「マネ」と呼ぶようになった。
「見てろよ、もっと北の方へ行きゃあ、どっかにオレ様の神殿が一つや二つ残ってる筈だぜ。ケケケ」
「そりゃ楽しみだ。マネの本名もそこで分かるのかな?」
「……それだけがちょっと、なぁ」
マネは過去の自分を誇りに思っているようだが、その一方で過去の名だけは頑なに口にしようとしない。
「名が知れると、何か問題でもあるのか?」
「いや……そんな大層なことでもない。ただ、勇気が出ないだけさ」
「そうか……」
ならば、これ以上は聞くまい。俺は一番の友人であるマネの複雑な心情を汲み、向こうから話してくれるまで待とうと心に決めた。
それから、俺たち難民は周辺の都市に割り振られ、そこでの定住を許可された。俺はそんな難民たちの纏め役を任され、魔法士の魔法技術・知識を提供することで糊口を凌ぐことになった。
この地にも、魔法士のような魔力を扱う専門集団が存在した。彼らは、現地の人々から『呪祷士』と呼ばれていた。
彼ら呪祷士の扱う『術』は魔法とは様式が異なり、俺のような学術とは縁遠い武骨者からしても中々に興味深いものだった。
特に術を土地の改良にも使っていたのには驚いた。魔法士は、もっぱら戦い以外に魔法を使うことは少ない。俺の国では、魔法士は高貴なる戦士として敬われており、そういった仕事は下々の民がやるものという認識・文化だからだ。
だが、この地の呪祷士は人々を癒やしたり、土地を切り拓いたり、家屋を建てたりとあらゆるところで身分の垣根を感じさせることなく魔力を持たぬ人々と融和していた。
恐らく、この地に住むものたちの懐の深さは、呪祷士により改良された土地から供給される食糧が『理想郷』ほどでないにしろ豊富であるからという側面もあるのだろう。
気が付けば、むしろ俺の方が呪祷士の知識と術を吸収するのに夢中になっていた。
しかし、そんな風に楽しんでいられたのも一年かそこらの話である。
ある夜半、突如として割れんばかりの喧騒がアレクサンドレッタの街に襲来した。
驚いて起き出してきたアレクサンドレッタの民とブーケパロスと共に様子を見に行くと、街の外に数え切れないほどの人間が溢れ返っていた。
その先頭を行く女――エリザベートと名乗った――は、使い魔の霊鳥を従え、高らかに宣言した。
「難民を受け入れてくれる地があると聞いて我らは参った! 『理想郷』とは、この地のことで相違ないか!?」
それは誤謬だ。しかし、彼女の勘違いを正すのも忘れて、俺はただただ呆然としていた。
俺が連れてきたの時の難民、約二百名でもこの地のキャパシティを超えていたというのに、これは……一体、何人居るんだ? 千、二千……? 今すぐにはとても数え切れそうにない。
「ちょ、ちょっと待ってくれ……エリザベート、と言ったか? こっちへ来てくれ、少し話をしよう」
「キミは?」
「俺は、一年前に難民をこの地へ導いたシャーンドルという者だ。今は難民たちの纏め役を――!」
俺は突然のことに驚き、思わず眼を剥いた。近付いてきたエリザベートが前触れ無く俺の手を取ったかと思うと、いきなり傅いて俺の手の甲にそっと口付けをしたのだ。
「――アンタ、何してんの!?」
閉口してしまった俺の代わりに、ブーケパロスが驚きの声を上げる。だが、対するエリザベートの方はというと、実にあっけらかんとしたものである。
「表敬だ」
「表敬って……それは、騎士が貴婦人にするやり方じゃないの!?」
ここでようやく俺も現実に心が追い付いてきた。取り敢えず、ヤケにつっかかるブーケパロスを制する。このままでは話が進まない。
「……ブーケパロス、もう良いよ。下がっててくれ」
「でも――」
「良いから。それどころじゃない」
俺は難民たちへ眼を向けた。皆、窪んだ眼をしており、俺が連れていた難民よりも状態は遥かに悪く思えた。精神的にも肉体的にも極限まで追い込まれている。当然と言えば当然だ。二百名の時でも落伍者が出なかったことが奇跡と言える道中だった。それが……今回はその何倍にもなっている。
戦争の情報はこの地にも僅かながら入ってきている。戦線の位置は東方へ動いており、そこから新たな難民が出たとなればきっと俺たちがした以上の強行軍だったに違いない。
当然、死者も出ただろう。
「単刀直入に聞く。エリザベート……難民は一体何人居るんだ?」
「――ざっと、三千人だった」
「三千!?」
「そして、生き残ったのが二千人。できれば、全員生きて『理想郷』まで導くというシャーンドル殿の偉業を再現したかったが……残念だ」
目眩がした。
千……! 千を数える無辜の民が死んだ……。それも、俺の行動が引き起こした余波で……。
ふらつく俺を、すかさずマネの触手が支える。
「違う、違うぞ。シャーンドル。断じてお前の所為じゃねぇ! 前例があるとはいえ、選んだのは奴らだ!」
「その使い魔……! そうか、やはりキミこそが……!」
マネを見たエリザベートは、不意に娼婦のような媚態を浮かべて俺にしなだれかかってきた。だが、それを押しのける元気もなく、されるがままに俺は思考の海に沈溺する。
(こんな人数……どうすれば良いんだ?)
アレクサンドレッタの周囲を埋め尽くす難民の群れを前に、俺は呆然と立ち尽くすしかなかった。
だがこの時、俺はまだ知らなかった。
これが、未だ地獄の入り口に過ぎないということを。
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