果たして、奴隷として使われるようになったのはいつからだろうか。
ムウニスが物心ついた時、彼は既に奴隷だった。彼の主人は、ヒジャーズ王国――イリュリア王国の北に位置する隣国――のとあるサーカス団の団長だった。
ムウニスという名も、そこで与えられた。この名は今でこそ一般名にも使われるが、昔は奴隷や使用人の名称として使われた。意味は『楽しませる者』。恐らく名付け親である団長は、その全てを知っていながら敢えて名付けたに違いない。
その名を体現すべく、ムウニスは一通り芸を仕込まれた。ジャグリングやマジックといった比較的簡単で安全なものから、生来の身体能力の高さを生かした曲芸等の危険度の高いものまで。
そんなムウニスが、自分が他人とは違うと気付いたのは十歳の春だった。
幼少期より食らい続けた半分無意味な鞭が、意識を集中させると痛くも痒くもないことを発見したのだ。ひとたび違和感に気付くと、生来の身体能力の高さや傷の治りの早さなどから推理して、奴隷の得られる乏しい知識量でも一つの答えを導き出す。
もしかしたら、自分は所謂――『魔力持ち』という奴なのではないか。
やがて、それは確信に変わる。
『俺は魔力持ちだ……つまり、こいつらよりも上等な存在なんだ。格上なんだ』
気付いてしまえば、もうそれ以上は耐えられなかった。
十歳の夏。ムウニスは行動に出た。
皆が寝静まった頃、ムウニスは団長と猛獣調教師の寝床に忍び込み殴殺。そして、彼らから奪った鍵を使って自分の拘束具と猛獣たちの檻を解錠した。たちまちのうちに混乱が広がりサーカス団を支配する中、彼は悠々と逃げ出した。
この時、ムウニスは初めて『自由』というものを味わった。
好きに殺し、好きに盗み、好きに寝る。
誰にも邪魔されることのない生活は途轍もなく開放的で、これまでくすんで見えた世界も色鮮やかに輝いて見えた。
『俺は今まで死んでいたんだ。だが、生き返ったぞ!』
これこそが人間本来の生き方なのだと悟りを得たような気分だった。
そうした略奪道中の末に辿り着いたのが、南の隣国イリュリア王国だった。ムウニスはイリュリアでも無法を働こうとして、あらかじめ周辺地域からの訴えを受けていた現地の土地管理官によりあっけなく未然に鎮圧された。
その後は、『魔力持ち』であることが発覚して投獄を免れ、ディルクルム魔法学院へと移送されることになる。
魔道具により身体と魔力の自由を制限され、再び奴隷に近い扱いを受けるようになったムウニス。しかし、それをさほど不満に感じることはなかった。学院で施される体系的な魔法教育が、ムウニスの知的好奇心を甚く刺激したのだ。そのうち、魔道具での行動制限を受けずとも、進んで大人しく振る舞うようになった。
それから二年の月日が経ち、齢は十二歳、中等部に上がる頃、ムウニスには〝道化〟の二つ名で呼ばれるようになっていた。創作魔法の分野で頭角を現し、同じく素行の悪かった仲間たちとつるんでは、耳目を集めるような派手なイタズラを仕掛けて回ることから、そう呼ばれた。
また『悪童』と誹られる一方で、独断専行気味でなおかつ感覚的すぎる嫌いがあれど戦闘能力に長けていたため、将来は優秀な戦士になると期待されていた。
そんな折である。ムウニスが諸侯派の生徒とのトラブルを起こしたのは。
中等部一年、冬の折節実習は『籠城実習』と銘打たれ、固定陣地を固守する際の動きを実戦形式で訓練するものだった。そこで、ムウニスは他クラスのとある生徒を倒した。そこまでは良かった。
問題は、ムウニスは相手生徒が既に戦闘不能状態だったことに気付かず、うっかり更なる魔法攻撃を加えてしまったことだ。往々にして起こり得る事故の一つではあるが、それにより打ちどころ悪く相手生徒は大怪我を負ってしまった。
その相手生徒が、介抱されながらに放った負け惜しみの一言が事を拗らせた。
『野卑な奴隷が! 殺すこと以外は何も満足に出来ないか!』
その言葉の裏には、途中入学でありながら活躍していたことに対するやっかみもあったのだろう。またムウニスが、経歴の割には大人しく振る舞っていたこともあったのだろう。
しかし、何者にも縛られぬムウニスの『自由』は、単に顔を出す機会がなかったというだけで、常に彼の心の奥底に在り続けていた。
――激昂。
瞬く間に辺りは血で染まった。
幸いにして相手生徒は一命を取り留めたが、ムウニスはこの一件を経て『自由』の代償を知ることとなる。
相手生徒は諸侯派貴族であり、なおかつ諸侯派の中心人物であった。そして、執念深い性格の持ち主だった。彼はその影響力ある立場を駆使し、ムウニスへの報復を試みた。
だが、対するムウニスは暴力沙汰を引き起こした咎により、再び魔道具による行動制限を科せられていたため、これに抗う術を持っていなかった。
ただ只管に耐え、増える生傷を数える日々。だが奇しくも、この日々が彼を人間にした。周りに合わせるメリット、妥協の優位、そして思いやりの心……愛。全て、この苦境から学んだ。
夜、寝床に入っても傷が疼いて寝付けずにいると、薄暗がりの中に茫洋とした相貌が浮かんできた。女っぽいもの、男っぽいもの、子供っぽいもの。次々に浮かんでは消えてゆく。それが、これまでに殺してきた人間たちの相貌だと気づくのに、そう時間はかからなかった。
ふと、涙が目尻から溢れた。彼らと今の自分が重なって見えた。
死んで当然と思える者も居た。だが、殺すまでもない者も大勢居た。
『自由とは、己にのみ与えられた特権に非ず』
そんな当たり前のことに、ムウニスは事ここに至ってようやく気付くことができたのだった。
暫くして、ムウニスに救いの手が差し伸べられる。
王党派がこの状況に目を付け、ムウニスへ接触し庇護を申し出たのだ。もともと王党派と諸侯派は苛烈に敵対しているのだから、庇い立てをして恨まれたところでそれほど損はない。それより、ムウニスの戦闘能力を高く買っていた。身内が居ないのも好材料。実に都合の良い駒となりうる存在だと。
ムウニスは、薄々そんな王党派の下心には気付いていたものの、申し出を快く受け入れ、然るべき時に必ず恩は返すと心に誓った。
昨日は話を聞くだけで夜も更けてしまい、ムウニスは話したいだけ話して帰っていった。
適切な自己開示が肝要と彼は言っていたが、「適切」の域を越えて話さずとも良い恥部も含めた自らの全てをさらけ出していたように思う。まあ、そのおかげか彼の人となりは掴めた。
(非常に危うい……きっかけされあれば、簡単にもとの人殺しに戻り得る……)
ムウニスの本質はやはり野生児のままだ。いかに取り繕おうと、魂に染み付いた血なまぐさい匂いは隠せない。だが、逆に言えば取り繕うこと自体には成功している。仮に死ぬまでそれを貫き通せるとしたら、傍から見ればムウニスはただの善良な人間と相違ない。
朝起きて部屋を出ると、台所から良い匂いがしてきて実家に帰ってきたことを再認識した。頼まずとも、用意せずともメシが出てくる贅沢さよ。
私は顔も洗わず、意識を半分眠気の中に置きながらテーブルに座った。
「学院はどう? 楽しい?」
昨日と同様、背を向けたままママがそう聞いてきた。
「うん、楽しいよ」
「あまり無理しちゃダメよ?」
「無理なんて、してない」
「うそおっしゃい」
ママは朝ご飯を私の前に運びながら、軽く叱り付ける。
「エドムの貴族様と揉め事を起こしたって話はもう聞いてるんですからね!」
あの野郎――チクりやがった。余計なことしくさりおって、もう私の親気取りか? そういう要らぬお節介は、例え実親だろうと子供には嫌がられると、親の居なかった野生児には分からぬらしい。
若干憤慨しつつもこの場では飲み込み、適当な言い訳をする。
「ああ……大したことないよ。もう解決した話だから。不幸な擦れ違い。別に心配することも――」
「――じゃあ、どうしてこんな時期にムウニスさんが来たのよ。まだ前の人の任期中だった筈だけど? まさか、知り合いだからって無理言ったんじゃないでしょうね?」
無駄に鋭い……ムウニスが王党派とか諸侯派とかの事情まで話しているとは思えないので、これは単に勘だろう。
この場はどうとでも言い逃れできる。なんなら、全ての経緯を説明してやっても良いかもしれない。だが、説明したらしたで余計に面倒くさいことになりそうだし、言い逃れをするにしてもムウニスと話を擦り合わせてからでないと齟齬が生じてしまう恐れがある。それも面倒だ。
なので、ここは誤魔化しの一手だろう。
「そんなこと私に出来るわけないじゃん。偶然偶然。――それより、そのムウニスさんとは随分と仲良くしてるみたいだけど。どういう風の吹き回し? 土地管理官の魔法使いと仲良くなるなんて」
「え? だって……リンが王都でお世話になった人なんでしょ? 良くしないとダメじゃない」
「なら、ただの友人?」
「そうよ」
ママは嘘をつく時、頬を触る。まだママは話す気はないらしい。或いは、ムウニスほど本気じゃないか。
「……ママ、昔『男女間の友情なんて嘘よ』とか言ってなかった?」
「言ったかしら?」
「言った」
言ってないけど。
とにかく、狙い通りに話は逸らせたようで、ママはまだ起きてこない妹たちの朝ご飯に取りかかりながら、別の話題を口にする。
「ヨナちゃんがリンに会いたがってたわよ、ほらお隣の」
「あぁ、ヨナちゃんには後で会いに行く予定だよ」
「そう……あ、そう言えば、ズラーラ君とは会った?」
……ズラーラ?
「……誰それ」
「誰って、お隣のお隣の子じゃない。数少ない同年代の子だから、昔はよく遊んでいたでしょう?」
そこまで言われても私は特に何も思い出せなかった。名前からすると、男の子だろうか? それぐらいだ。
全くピンと来ていない私を見て、ママは説明を継ぎ足す。
「ズラーラ君ね、一年前に『王都へ行く』って家を飛び出したのよ。手紙にも書いたじゃない」
「あー……去年は忙しかったから」
言われてみれば、そんなことも書いてあったような気がする。段々と思い出してきた。この小さな村には、同年代の子どもなんて数えるほどしかいなかったから、ズラーラとも何度か遊んだような気もする。だが、いまいち彼とは性格が合わなかったし、ママが思っている以上に私と彼の間には距離があった。
「皆、ズラーラ君のことを心配してたんだから」
「ふーん。で、そのズラーラ君は何しに王都へ行ったの?」
「この村に居たんじゃ、一生を農作物を作ることに人生を費やして終わる。それが嫌だから、傭兵さんになるんですって。ほら、敵国の魔法使いの首でも取れれば一発で大金持ちなんでしょ?」
「ただの阿呆じゃん」
現実の戦争がどういうものか、ズラーラは知らなかったのだろう。傭兵なんて所詮は魔法使いの随伴歩兵的な役割でしかない。一見して頭数だけ多く見せられれば上等、死んだら報酬が少なくなって良し。傭兵の方もそれを分かっているから無理はしないし、稼ぎは専ら死体漁りか盗賊まがいの乱暴狼藉。
火器や魔道具が発達しても、まだまだ戦場の主役は魔法使いだった。正規兵でもない傭兵なんて、歩く人間に踏み潰される蟻の如き取るに足らない存在でしかない。
中には魔法使いを殺したと吹聴する傭兵もいる。もちろん、それも魔力切れを起こしたところや寝込みを襲えば不可能ではない。だが、大概は箔を付けようと吹かしてるだけだ。そういうのに浪漫を感じる馬鹿ほど戦場では早く死ぬ。
「親戚から王都には傭兵団員の募集がいっぱいあるって聞いて飛び出していったわ。剣となけなしの貯金だけを持って……。村から出たこともそんなにないのにねぇ……ホント、大丈夫かしら……」
どうにか生きてると良いんだけど、とママは弱々しく呟いた。
「ごちそうさま」
なんだか、妙に湿っぽい雰囲気になってしまった。朝ご飯を食べ終わった私はその雰囲気を嫌い、逃げるように自室へ戻った。
実家の裏庭でムウニスと妹たちが遊んでいるのを、私は木陰で本を読みながら眺めた。今日は解剖学と考古学の本だ。解剖学の本は王都から持ってきたもので、考古学の本はパパの書斎から持ってきた。
パパは学者で何かの研究をしていたが、私たち家族にはあまり詳しくは教えてくれなかった。死ぬ前に研究資料なども火事で一緒に燃え尽きてしまったので、今となってはもう分かりようもない。
しかし、パパが学者だったから、てっきりママは頭の良い人が好きなのかと思いきや、そうでもないらしい。
「マズイわね」
ポツリと漏れた独り言に応じて、どこからともなく触手が伸びてくる。
「何がだ?」
「――反対する理由が見当たらない!」
ヤエルもロニエルも、ムウニスにすごく懐いている。ムウニスの杖に従い宙空を踊る炎の群れを見上げ、妹たちは目を爛々と輝かせている。
(なるほど、〝道化〟ね。昔とった杵柄かしら?)
私が帰郷する度、妹たちはいつも魔法を見たがった。だが知っての通り私は魔法
が得意ではない。醜態を晒すことを恐れた私は強請られる度に適当な理由をつけて断っていた。
ところが、ムウニスはそんな事情なぞ知らず、気前よく披露してやっているようなので、普段なら私のところに来る筈の関心が全てムウニスの方へ行っていた。
それは相手をしなくて楽ではあるが、寂しくもある。
「結局、再婚するか否かはママとムウニスの勝手、個人の自由だし」
「じゃあ、良いんじゃねーの。ほっといても」
「そうもいかないわ。だって、それが気に食わないってのも私の勝手でしょ。勝手と勝手同士、トントンよ」
「そうか? 数的に言えば二対一……いや、あの小さい二人も入れると四対一の構図だけどな」
マネの戯言を聞き流す。
とその時、ムウニスが手を振りながら離れてゆくのが見えた。
「それじゃあ、俺は仕事に行くよ!」
「じゃあねー」「バイバーイ」
土地管理官としての仕事に向かったのだろう。それを見た私は立ち上がり、次は何をして遊ぼうかと話す二人の妹を呼び寄せた。
「ねえ……ヤエル、ロニエル」
「なあに?」「なになに~?」
「ムウニスさんのこと、好き?」
二人は一度顔を見合わせ、同時に元気よく答えた。
「「好き~~!」」
「そう……」
やっと分かった。ママとムウニスがくっつくのが、いまいち気に食わない理由。ヤエルとロニエルの懐きようを見て分かった。
私のパパは――パパだけなのだ。
ヤエルとロニエルは、きっとパパのことなんてそんなに覚えていないから抵抗もないのだろう。しかし、私にはあのぽっと出の男を『パパ』と呼ぶことは到底出来そうになかった。
ともあれ、二人の気持ちが聞けて良かった。私は努めて笑顔を作り、二人に私から離れるよう促す。
「じゃあ、向こうで遊んできなさい。私は……やることがあるから。夕飯までには帰ってくるってママに言っておいて」
「「わかったー!」」
あぜ道に向かって走り去ってゆく二人を見送り、私は静かに踵を返した。そして、ムウニスが去っていった後を辿るように歩き出す。
「……決めたわ」
「何をだよ」
「ここはシンシアのやり方に倣うとしましょう」
そう言うと、マネも私の考えを察したようだった。
「決闘か」
「決闘よ」
果たして、ムウニスが信用にたる人物か否か、私の家族を預けるにたるか否か、その答えは我が剣で以て推し量るとしよう。
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