とある王党派貴族のお屋敷で、一人の女の子が産声を上げました。
有力貴族の家に生まれた待望の第一子ということで、女の子は物心のついた時から英才教育を施されました。それはまだ幼い女の子にとって過酷なものでありましたが、聡明な女の子はそれが己にかかる期待の証明と理解し、曲がることなくまっすぐに育ちました。
やがて、社交界にも女の子の噂が広がり始めます。
眉目秀麗、才色兼備、将来有望な才子が居ると。その評価は、貴族としても親としても贔屓目と誇張が過分に入っておりましたが、概ね客観的な事実でもありました。
「わたし、この街がだーいすき!」
女の子は、生家の屋上から眺める王都の街並みが大好きでした。どこまでも広がる街並みは、果てなき世界の広がりを思わせ、まだ行ったことのないその向こうを想像するだけで心が洗われるようでした。
彼女の想像する世界は楽しいものや美しいもので満たされた、まさに希望そのものでした。
女の子は、当然その外へ行きたがります。家を囲う高い塀の外へ、まだ知らぬ希望の世界へ。
それは、他のことには文句一つ言わない女の子の唯一といっていい我儘でした。
「ねえ、なんでお外に行っちゃいけないのー?」
「駄目なものは駄目なんだ。まだ早い」
しかし、両親や使用人は頑なに女の子をお屋敷の外へは出してくれません。誰かを家へ招いたり、パーティーを開いたりすることはあっても、決して外へ出ることは許しませんでした。
女の子はそれが不満で不満でなりませんでしたが、その理由が世界のあらゆる不幸から我が子を守ろうとする親の愛情だということも分かっていたので、強く拒絶されては引き下がるしかありませんでした。
けれども、いつまでも籠の鳥という訳にもいきません。なぜなら、女の子には普通の人とは違う〝力〟があったからです。
女の子が五歳になった時、盛大な誕生日パーティーをした翌日に女の子の父親は言いました。
「お前には他人とは違う〝力〟がある。それは、神の祝福なんだよ」
「はい、薄々分かっておりました。私は『魔力持ち』なのですね」
「そうか、なら話が早い」
段々としっかりし始めた女の子の成長に応じて、父親もまた子供に言い聞かせるような舐めた口調を少しずつ堅いものへ改めてます。
「お前はその〝力〟に囚われてはいけない。今は魔法士といえども干戈を交えて血汗を流すような時代じゃないんだ」
「はい」
「魔法なぞは程々でいい。特進クラスにさえ入れば後は私がお前に相応しい席を用意してやる。だから政治だ、政治を学べ。パーティーに招いた連中との繋がりをキチンと良好に保て。その先に――傍流に過ぎない我が家がこの国を采る未来があるのだ」
「はい、心得ております。お父様」
女の子は、父親の妄執にも似た野望に対し、極めて協力的な従順ぶりを見せました。しかし、それは見せかけのものでした。
(お父様、貴方は器ではありません)
この国を采る等という大言壮語は、宰相の座を指すものではありません。それよりも、もっと上の場所を見ての発言でした。
この男にそれは無理――その実、女の子は内心冷ややかな眼を父親に向けていたのでした。
それでも、表向き協力的な風を装うは、偏に親子の情に他なりません。世の中を知らぬ女の子にとっては、この大きな屋敷と父親の身の丈に合わぬ野望だけが世界の全てでした。それらと己を重ね合わせることに何のためらいがあるでしょう。
それは自我の確立もあやふやに覚束ない幼児期特有の錯覚かもしれませんが、この時の女の子にとってはそれで良かったのでした。
そう、この時の女の子にとっては。
心変わりの転機は、もう間もなく訪れようとしています。
「……よし」
父親が、重々しく唸るような声を喉奥から響かせます。
「これから、お前を外へ連れてゆく。そろそろ家の外のことも知るべきだ」
「本当ですか!?」
五年の歳月で培った落ち着いた話し方も忘れて、素の幼い部分が出てしまうほどに女の子は興奮してしまいました。
遂に外へ行ける。そう思うと、むくむくと欲が出てきます。
(外へ行くと行っても、どうせ監視付きの犬の散歩の如きことであろう)
そんなことで満足できるのか、と女の子は自問します。
(否)
打てば響く自答に、女の子は心を決めます。
(抜け出してしまおう)
齢五つを数え、女の子は少し早めの反抗期を迎えたのでした。
「――居ない!? お嬢様が居ません!」
「何だと!? なぜ目を離したんだ!」
「も、申し訳ありません! お付きの者は皆、お嬢様によって伸されてしまったようでして……!」
「ぐっ――ええい、すぐに探し出せ!」
後方で上がる喧騒を尻目に、女の子はどんどんと迷いなく森の中を進んでいきます。逃走ルートは、ここへ来る途中の馬車から見て把握済みでした。
両親からしてみれば、まさか夢中になって外の景色を眺める微笑ましい娘が、逃走ルートの構築に勤しんでいたなんて分かるはずもありません。結果、まんまと女の子に出し抜かれてしまいました。
「さぁて、どこへ行こうかな」
女の子はそわそわと落ち着かない様子です。脚の爪先から脳天まですっかり好奇心で満ち、初めての非行の緊張で心臓は早鐘を打ち始めています。
とはいえ、そう遠出をする気もありませんでしたし、できるとも考えていませんでした。
「やっぱり、あの花畑へ向かおう」
ここへ来る途中に見かけた広い花畑では、女の子と同じぐらいの年頃の子供が一人で元気に走り回っていました。
あの子に会ってみたい、屋敷の外の人間に。
女の子は純粋な好奇心に衝き動かされ、歩調を早めました。
やがて森が開け、眼を見張るほど可憐な野花の絨毯が女の子を出迎えました。しかし、目的の花畑には着きましたが、そこには誰の姿もありません。
遊んでいたあの子は、もうどこか別の場所へ行ってしまったのか。そう女の子が落胆した、その時でした。
「あーた、どこの子?」
舌っ足らずな声に驚いて振り返ると、そこには土で汚れた服に身を包むあの子が居ました。締まりのない笑顔を浮かべる子供を近くで見て、さっき見たあの子もまた女の子だったことに気付きます。
「あてし、ヘレナ。あーたは?」
名前からすると、彼女も女の子と同じく植民者系のようでした。泥の汚れと日焼けでよく分かりませんでしたが、たしかに彼女の肌の色には植民者系っぽい色合いが混じっているように思えます。しかし、ハッキリとしたものではないので、もしかしたら混血なのかもしれません。
そのような分析をしながら、女の子もまた自己紹介をします。
「私は……メアリ。メアリ・アーヴィン」
「ぇあり!」
ヘレナは強引にメアリの手を取り、お花畑の中へ誘いました。
「あそぼ!」
「あっ、ちょっと!」
メアリとしては、平民の生活についてつぶさに質問することを想定していたのですが、少しでも手を引っ張ったりして抵抗するような素振りを見せると、ヘレナは途端に瞳を潤ませて不安そうに振り返るのですから、付いてゆかぬ訳にもいきません。泣く子と地頭には勝てないのです。
それに、鳥籠の中で育ったメアリは、平民のする遊びというものにも興味を惹かれていました。
ヘレナは躊躇いなく花畑の一角にどっしりと腰を下ろし、花を摘みながらメアリに喋りかけます。
「あーた、どこの子?」
「うーん……遠くの子だよ。親に連れられて社会見学に来たんだ。キミは?」
「あてしは、エリコってとこにすんでんの!」
エリコは、この近くにある街の名前です。できれば、そこへも行ってみたかったのですが、ここで時間を取られたからにはそれも無理そうです。メアリは少し残念に思いました。
「ヘレナは、何時もここで遊んでいるの?」
「きょーは、おとーさんのしごとがヒマだから、あてしもヒマなの!」
ヘレナは、メアリとあまり変わらない年齢にも関わらず、もう親の仕事を手伝っているようでした。
それは羨ましくもあり、また憐れでもありました。
「ぇあり、ん!」
「これは……」
差し出されたのは花かんむりでした。先程から摘んだ花を持って何をごそごそやっているのかと思えば、ヘレナは花かんむりを編んでいたのです。
それは言ってみればごっこ遊びの延長にある行為でした。「社会見学」という言葉に聞き馴染みはなくとも、余所からやってきた子だというのなら、客商売を営む父母の姿を見て育ったヘレナとしては歓迎せぬ訳にはいきません。
猿真似の歓待。児戯にて紡がれた花かんむりです。
しかし、そのような事情など知り得ないメアリに取っては、それが無償の愛による施しに映りました。
メアリは、これまで愛とはギブ・アンド・テイクの上に成立するものだと認識していました。なぜなら、彼女の父親はメアリに何かを与える度にいつもこう言うからです。
『大きくなったら返してくれれば良い』
使用人たちも、普段からメアリによくしてくれますが、それがお給金のためであることや他に選択肢がないからであることを、メアリは英才教育によって既に知っています。
「ぇあり……? どうして泣いてるの?」
花かんむりを頭に載せられたメアリは、頬につたう冷たい感触と共に人生で初めての感動を噛み締めます。
「……なんでもない。眼に、ゴミが入っただけ」
「たいへん! キレイなみずであらわなくちゃ! あてしのおうちにいこ!」
ヘレナは、再びメアリの手を引いて藪の中の獣道を走り出します。きっと、この獣道の先にヘレナの生家があるのでしょう。メアリは早々に抵抗を諦め、先導者に身を任せました。
その時です。
横合いの茂みから大きな影が勢いよく飛び出してきました。
獣か、野盗か。
「――メアリ!」
その正体は、なんとメアリの父親でした。
唐突な登場に驚いたのは勿論ですが、それ以上に枝葉を突っ切った時に付いたらしい顔の切り傷と、血の滴るサーベルに目を奪われました。
この時のメアリには知る由もないことでしたが、あの後、父親たちは政敵の送り込んだ刺客による襲撃を受けていたのです。
死線を潜り抜けてきたばかりの父親は、文字通り血気に逸りサーベルを振り上げます。
「うおおおおおおおおおおお!」
そして、「あっ」という間もなく、一刀のうちに父親はヘレナを斬り伏せてしまいました。頭に血が登った状態では、例え幼子とて我が子を拐かす刺客の手先に思えて仕方なかったのです。
しかし、我が子を思うその愛を誰が否定できるでしょう。
「大丈夫か! 大事ないか!?」
父親が、年季を感じさせる石塊のような手で力強くメアリの肩を掴み、その顔を覗き込みます。
聡明なメアリは、血と泥と汗に塗れた父親の顔を見るだけでその全ての事情を察し、抗議の声を上げることも悲鳴を上げることもしませんでした。ただじっと、地面に向かって垂れ下がる自分の腕の先を見つめるばかりでした。
あれほどまでに楽しかった時間は、こうして唐突に終わりを告げました。白昼夢でも見ていたのではないか。メアリは、現実感のないふわふわとした感覚の中にいました。
「行こう、こっちは安全だ」
「……はい、お父様」
メアリは、最後に地面へ一瞥をくれてから、静かにその場を去りました。
この時の襲撃でメアリの母親と使用人が十人死にました。
しかし、それ以上にヘレナという取るに足らない幼子の死が、メアリの心に多大な衝撃を与えました。
なぜ、ヘレナが死ななければならなかったのか。
寝ても覚めても、考えるのはそのことばかりです。周囲のものは、母親を失った悲しみに暮れているのだろうと思い、そっとしておきました。図らずしも一人の時間を得て、メアリの思索はますます深まってゆきます。
やがて、メアリは父親の蔵書庫の隅に乱雑に捨て置かれた査読済原稿の中から、その糸口を得ます。
題:『特権論』
著者:ラビブ・マイヤー
それが、メアリと啓蒙思想の出会いでした。
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