隠形を使って魔力の気配を殺し、死屍累々の戦場を必要最低限の戦闘で斬り抜けてゆく。コーネリアほどじゃないが、私の隠形もなかなかだ。何を隠そう、もとから馬鹿みたいに魔力量が少ないのだから。
そのうちに気付く。
これは、まるで「道」のようではないかと。
(この道を行けというのか?)
戦場を飛び交う銃弾と魔法と血飛沫の中に、極めて不自然な空間があることを私は発見した。そこは、そこだけは、さながら台風の目のように全くの無風だった。血の跡もなく、弾の痕もなく、死体すら譲るように場所を開けている。
その「道」は、目的の砦まで一直線に続いていた。
逡巡は一瞬。私は、大いなる意志に導かれるように、その「道」を行く。
(感じる――ヘレナはすぐそこに居る!)
あの砦の中にヘレナが居るのだと思うと、無性に会いたいという気持ちが心の中で主張を強め始めた。戦場を闊歩する足は徐々に早足に、そして早足から駆け足に変わり、気付けば疾走り出していた。
かつて忌み嫌った『運命』とやらが私の背中を押しているとでもいうのか。私は、言い知れぬ強烈な誘引力に導かれるまま、崩れた壁から砦の中へ飛び込んだ。
「――ヘレナ!」
「その声……リン、か?」
私の感覚は正しかった。ヘレナは、確かにそこに居た。
しかし、最初に私が見たのはヘレナの顔ではなく、必死に治癒魔法を行使するマチルダの丸まった小さな背中だった。もう、この時には何がどうなっているのか大方を察していたが、私は諦めきれなかった。マチルダの隣へ回り込んで、そこに横たわる現実を直視する。
期待……していたのに。
「――どうして、負けてるのよ」
そう言うと、ヘレナの以前より少し大人びた顔がくしゃっと歪んだ。
「キミが居れば、勝てたろうになぁ……」
ヘレナは下半身をそっくり失っていた。残された上半身からは腸が飛び出しており、今まだ息をしているのが奇跡のような重傷だ。
だが、よく見ると傷の重さに対して床の出血量が不自然に少ない。これは、マチルダの治癒魔法が効いているおかげだろう。彼女の必死の治療によって、ヘレナはギリギリで生にしがみついていた。
「マチルダ……さっきは無駄だからやめろと言ったが……あれは取り消す……。できるだけ、長く……私を……」
「ヘレナ、様……! もう、喋らないでください……! 傷に障ります……!」
涙声のマチルダに、ヘレナはゆっくりと首を横に振った。
「私は、もう助からないさ……だから、死ぬ前に少し……もう少しだけ……」
ヘレナは、私に眼を向けた。そこに狂気の気配はなく、まるで憑き物が落ちたかのように澄み渡っていた。
ストン、と私はヘレナの隣に座り込んだ。
ヘレナの望みは恐らく私と対話すること。それをわざわざ無碍にしなければならないほど、私は別に忙しくもなかった。
このような有様では、見たかったものはもう見れそうにない。
しかし、或いは。
そんな希望が私の口を動かした。
「ねえ、ヘレナ」
「なんだ……?」
「アンタは結局、何がしたかった訳?」
「……それは、正しい形で『革命』を成就させ……人々に自由を齎し……そのために、イスラエル・レカペノスを殺して……」
「そうじゃなくて、成就させた後の話よ」
そんなことは分かっている。十分過ぎるほどに分かりきっている。
私が知りたかったのはそこへ至る動機のようなもの。なぜ、そうしようと思ったのか。ヘレナという人物は今日という日を迎えるために生きてきたようなものである。その骨子、その全てを私は知りたかった。
すると、ヘレナは天井を見上げてぼうっと思案した。
「……私は……」
そして、ぽつりと呟く。
「リンと友達になりたかった」
まるで、胸のうちからそのまま零れ落ちてきたような、朴訥な飾り気の言葉が私の胸を打った。押し寄せてくる後悔と慚愧の念を堪えきれず、遂に私の眼から涙が溢れた。
どうしてだろう。あんなに殺してやりたいと思っていた筈なのに、私も同じ気持ちを抱いていたことに今、気付いた。
思わずヘレナの手を取ると、まるで死人のように冷たかった。
「ごめん……ヘレナ、ごめん。手伝ってあげたら良かった。一人で頑張らせて、ごめん……殺意を押し殺してでも、アンタの側に居てあげたら良かった。今になって、こんなことを思うなんて……遅すぎるよね……アンタのこと、そんなに嫌いじゃなかった……!」
「私の方こそ、ごめん……」
ヘレナは、私の手をぎゅっと握り返す。今にも消えてしまいそうな、曖昧な力で。
「歴史の教科書には載せてもらえそうにない……仮に載ったとしても、無知蒙昧の童たちの笑い草となるのがオチだ。徒に兵を死なせた世紀の愚将として……」
「そんなこと、ないよ……ヘレナは私が認めた唯一の人だから……」
「ありがとう……。でも……リンが認めてくれたこの才を後世に残せず……私は死にゆくのだと思うと……」
ヘレナの眦から、一筋の涙がこぼれ落ちる。
「それが、少しだけ……寂しい……」
徐々に、ヘレナの手から僅かに残った熱と力が失われてゆく。
どうして……どうして、良い奴ほど先に逝くのか!?
この国には、この世界には、まだ彼女の才能が必要だというのに……!
「ねえ、ヘレナ! これだけは教えて、『ソーテイラー』は……イスラエル・レカペノスは、それほどの相手だったの?」
「リン……時季だ。時季を外せば……民衆の意志を操ることは……できない。……この国で、それが分かっていたのは私ともう一人……。私は……心の弱さから時季を捻じ曲げた……。その分だけ、奴が勝った……」
ヘレナは輝かしい光を宿した眼で私を見詰める。これは消える直前の蝋燭が一際大きく輝くような類の光だ。しかし、それは決して破滅的な色合いではない。
これは――希望の光だ。
「しかし、リン……! キミになら……!」
キミになら。
その続きを言う前に、ヘレナの手はだらりと垂れ下がった。
「――死んだ」
私になら……ヘレナは最期に何と言おうとしたのだろう。時季とやらが分かるとでも? だとしたら、買いかぶり過ぎだ。そんなこと、私はこれまでの人生で一度も考えたことがない。
だが、期待をされてしまった。
どうしてかな。いつかラビブ神父に期待された時は鬱陶しく感じたというのに、今はむしろ心地よくすら感じる。
(どうしようか)
すぐに何らかの具体的な結論を出すことはできない。私はまだ、イスラエル・レカペノスの顔も見ていないのだから。
私は、眠っているかのようなヘレナの頭をそっと撫でた。この小さな頭で、ずっとそんなことばかり考えていたのかと思うと、慰撫せずには居られなかった。
(今まで……よく頑張ったわね……)
涙はもう止まっていた。まるで、最初から頬を濡らしてなどいなかったかのように、私の頬は乾き切っていた。
「うっ……あぁ……どうして……」
「マチルダ、泣くのは後にしましょう」
未だ心を切り替えられずに泣き濡れるマチルダの肩を、私はそっと抱いた。
「ヘレナの死体を埋葬してあげられるのは貴方しか居ないわ。今は脱出が先決よ」
「アナタがっ……! アナタが、ヘレナ様のもとにさえ居てくれれば……! どうして、アナタなのよ……!」
「……ごめんね。でも、やっぱり今考えてもそれは無理よ。ヘレナのことは好きだけど……一緒に居たら、遅かれ早かれいつか殺してたと思うし……」
それほどまでに、私は度し難い人間なのだ。その点に関して、私は一切の言い訳をしない。というか、言い訳のしようがない。
とその時、私の耳が足音を捉えた。振り向くと、滝汗をかいてこちらに駆け寄ってくる異形が見えた。
敵か、と一瞬身構えてそうではないと気付く。私は彼女の顔に見覚えがあった。
「……アディエラ?」
驚いた。本拠地強襲作戦の時、ロクサーヌが情けをかけて救出した実験体だ。なぜ、こんなところに?
あの時から背も伸びて、だいぶ大人びた外見になっていた。しかし、相変わらず定着しなかった異形の部位は制御できないのか、時折、腹から突き出た三本の蜘蛛の脚が地面を求めて宙を掻く。
「……もしかして、リンさん?」
少しの間を置いて、アディエラの方も私を思い出したらしく、その顔に喜色を覗かせる。だが、それも地面に横たわるヘレナの遺体を見付けるまでの話。
アディエラは、猛然とヘレナに駆け寄ってその安否を確かめる。そして、確かに死んでいることを確認すると、呆然と地に膝を落とした。
「そ、そんな……ヘレナさんが……!」
「アディエラ、再会を喜ぶ暇もヘレナの死を悲しんでいる暇もないわ。マチルダと一緒にここから逃げて」
「で、でも……」
アディエラは、未練がましく今来た道を見遣った。その方向から、かすかに戦闘音が聞こえる。
――次は、あっちなの?
魂を引き寄せられるような感覚を察知し、私はすっくと立ち上がる。
「分かったわ。二人とも、ちょっとだけここで待っていて。助けを呼んでくるから。脱出は彼女たちと一緒にすると良いわ」
「待って、リン……! アナタは……どうするの……?」
ようやく涙が落ち着き始めたらしいマチルダが、縋るような眼で私を見上げてくる。不安なのは分かるが、その期待には応えてやることはできない。
「ごめん、私は二人とは一緒に行ってやれない。やることができたから」
そう言って、私は二人をその場に残し、アディエラが今来た道を辿って先程聞こえた戦闘音の元を目指した。
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