「未練? そんなもの……」
ムキになって言い返そうとする私をロクサーヌは優しく押しとどめる。
「先程、貴方は『この国には良いところがない』と仰りましたが、探せば二つ三つぐらいはある筈ですわ」
「でも、アンタは出ていくんでしょ?」
「はい」
恥ずかしげもなく、ロクサーヌは平然と答えた。こうも潔く言い切られては意地悪く論うこともできない。
「そもそも、わたくしにはこの国の礎になる気などさらさらありませんでしたわ。終の棲家とすべく環境を整える程度の努力は致しましたが、それも所詮は弥縫策に過ぎず、この国は動乱の時代へ突入しようとしています。家族のことを思うと、やはりガリアへ行く以外の選択は考えられませんわ」
しかし――と、ロクサーヌは続ける。
「貴方の心の中では、もう答えが決まっているようですわね」
「……そうかな」
「そうですわ。無理矢理に連れ出すことも考えていましたが、そういうことなら話は別です」
ロクサーヌは吹っ切れたような顔をして立ち上がった。もう、行くのか。行ってしまうのか。しかし、引き留めようにも言葉が出てこなかった。
「お節介かもしれませんが……ご自分を見つめ返したいのなら、マネさんを召喚してお話することですわ」
「……考えとく」
マネの説教を厭うて、身体が治ってからはもうずっと召喚していない。人前ではともかく、二人きりの時は結構うるさかったのが急に居なくなったものだから、ふとした時に身体を包むマネの感触がないことを寂しく感じなくもない。だが、わざわざ手間暇かけて再召喚したいかというと、そうでもなかった。
いつの間にか眼の前まで歩み寄ってきていたロクサーヌが軽く私を抱擁する。華のような香水の匂いがふわっと私を包んだかと思うと、その直後にはロクサーヌはもう私から離れていた。
「それでは、ご達者で」
「……ロクサーヌも、どうか元気でね」
別れを惜しむこともなく、言葉少なにロクサーヌは部屋の扉へ向かって歩み出す。
これが、今生の別れとなるかもしれない。ロクサーヌがあの扉を閉めたが最後、私たちは二度と会うことはないのかもしれない。
そう思うと、その背中に縋り付きたくなった。恥も外聞もかなぐり捨てて泣き喚き、「やっぱり一緒に行きたい」と懇願すれば今からでも仲良く一緒に亡命できるだろう。
しかし、今まさに扉を開けてその向こうへ消えて行こうとするロクサーヌの背中には、かつて見た山を思わせるほどの雄大さは欠片もなく、ただ等身大の「ロクサーヌ」があるだけだった。
それを見ていると、情けない衝動もたちまち霧散した。
「ねえ、待って」
私は枕元の硬貨が詰まった麻袋を引っ掴み、こちらへ振り返ったロクサーヌに投げ渡した。
「これは?」
「餞別よ、少ないけど路銀の足しにはなるでしょ」
ロクサーヌは無言で私を見詰め、「良いのか」と視線で問いかけてくるので、私は間髪入れずに頷いた。これぐらいしか、今の私がロクサーヌのためにしてやれることはない。どうせ、私が持っていても酒に費やすだけだ。
「くれるというのなら、遠慮なく貰っていきますわ。……それでは」
「うん、じゃあ……」
バタン――と閉め切られた静かな部屋の中で、私は一人遠ざかるロクサーヌの足音に耳を傾け、それがすっかり聞こえなくなると枕を抱えてベッドに突っ伏した。
一人でいる時は、考えなくても良いことを考えてしまう。
暗澹たる予測しか立たない将来のこと、一向に改善する気配のない混沌とした現在のこと、そして今さら取り返しのつかない過去の失態のこと。考えてどうなるというものでもない。なるようにしかならない。
しかし、酒が切れると私の脳内はもうそればかりだった。
暫くそうしていると、ドタドタと足音がやってくる。
「はぁ、はぁ……買ってきたよ!」
阿呆が帰ってきたことで私の思考は一時寸断された。
本当に買ってきたのか。よくこの時間に店が開いていたなと思ったが、外を見るともうだいぶ陽が上がっていた。気付かぬうちに結構な時間考え込んでいたようだ。
起き上がって手を差し出すとズシリと中身の詰まった酒瓶が手渡された。ラベルを破り、枕元に常備している栓抜きでコルク栓を抜く。すると中からふわっと香る酒の匂いが鼻先をかすめた。安酒だ。
私はぐびぐびと酒を煽りながら、差し出されたままの男の手を見て、「あっ」と気づく。さっきロクサーヌに金を渡してしまったから、今の私は無一文だった。
(まあ、どうでもいいか……そんなこと)
これは良い機会ではないかと、そう思った私は男の手を強めに叩いた。
「ねえ、もう会いに来ないでくれる?」
「えっ……ど、どういうことだよ?」
「うーん」
こういう場面は何度も経験しているが、毎回毎回どうにも上手い言葉が出てこない。まあ、別に上手くやる必要もないのだけれど。
「何ていうか……邪魔? アンタのことが邪魔になった。だから~……もう終わりにしましょうってこと」
「い、いきなり過ぎるよ!」
面倒くさ。
「せめて、訳を話してよ。俺とリンの仲じゃあ――」
「――馴れ馴れしい!」
これまでの経験から、強引にでも追い出してしまえばどうせ私の許可なく学生寮にまで侵入することはできないと知っている。なので、私は杖とカラギウスの剣を振りかざして、分かりやすく男を威嚇する。
「アンタのその汚いツラもいい加減に見飽きたって言ってんのよ! 無残な死体になりたくなかったら、さっさとその扉の向こうへ消えて二度と顔を見せないで!」
「……クソッ! 呪われろ、売女め!」
その瞬間――私は眼を見開いた。
『腕のホルマリン漬けなんて部屋に飾りやがって、ずっと気色悪いと思ってたよ! 勃つものも勃《た》たない! それでもお前が魔女見習いだから、ステータスと思って抱いてやったんだ! そうでもなきゃお前みたいな傷女、誰が――!』
「――そういう眼をしたッ!」
期せずして、振りかざした剣は威嚇ではなくなった。ちょうど斬りやすいところにあった男の右手指を何本か斬り落とす。
「ぎゃあああああああああ!」
「ホルマリン漬けの何が悪い。あれはヘレナの腕なんだけど」
「ま、まって……! な、なにを言っているんだ……!」
続いて身を守るように突き出された左手指も斬り落とし、両手を抱えて蹲る男の尻を蹴って扉の方へ向かわせる。すると、男はドタバタと床に頭を擦りつけながら、泡を食って部屋を飛び出ていった。
ちょっと滑稽に思ったが、笑いは少しも出なかった。
「酒代、浮いちゃった。ちょっと得した気分」
もともとアイツは酒場で適当に引っ掛けただけの男。よく考えたら名前も知らないし、未練もなにもない。
(……未練、か)
ロクサーヌの言葉がふと蘇ってきた。
未練……私はこの国に未練を感じているのだろうか? 自覚はないし、考えてもそれらしい感情は全く見当たらない。マネに聞けば、いくらか客観的な意見が聞けるかもしれないが、どうにも召喚する気が起きない。
「……全然、酔えない……」
男が買ってきた酒を呑みながら、私は陽が暮れるまで未練について考え続けたが、納得のゆく結論は出なかった。
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