1.スライム
「――〝人界〟から、隣り合う〝魔界〟へ告ぐ」
意を決して詠唱を始めると、召喚室の床に敷かれた召喚魔法陣が淡く発光する。問題なく魔力が注がれ、術式が起動した証だ。たったそれだけのことで喜び緩みかけた気を、まだ何も成し遂げていないと引き締める。
「我が名はリン。偉大なる星辰の輝きに共振し、〝人界〟に降誕せし魔道の求道者」
周囲の観衆からクスクスと嘲るような忍び笑いが漏れた。彼女たちは私の同級生のグループだ。きっと大仰な詠唱が、私には分不相応で笑えたのだろう。
(……笑いたければ笑え)
しかし、そんな風に心の中で強がってみても、身体の方は恥ずかしさのあまり独りでに喉がキュッと締まり、息が詰まり出す。
彼女たちが偶然居合わせた時から、ある程度の嘲りを受けることは覚悟していたつもりだった。しかし、いざ本当に笑われると私の精神は容易く揺らいだ。魔力操作にも動揺が伝わったらしく、召喚魔法陣の光が途端に乱れ出した。
(くっ……集中しなさい! 周りなんて気にしてる余裕があるの!?)
いくらなんでも事前に三十分も魔力を練り上げたのだから、魔力不足による失敗はありえない。この【契約召喚】は、魔力を注いで術式を起動するだけの複雑な操作は何も要らない魔法。心を落ち着けて、魔力の供給を再び安定させれば何も問題は起こらない筈だ。
私は周囲の雑音をシャットアウトし、召喚魔法陣だけに意識を集中した。すると、目に見えて召喚魔法陣の光が安定し始めた為、それに伴い私の精神も安定してゆく。
私は、怒りと恐れで震え浮つく奥歯を必死に噛み殺し、叫ぶように詠唱を続ける。
「〝魔界〟に蔓延る異形の民よ! 魂の共鳴に従い、我が呼びかけに応えよ!」
強まる魔法陣の光に魅入られるように集中が高まってゆく。いつしか雑念という雑念が消え去り、私の脳裏ではただ祈りの言葉だけが何度も繰り返されていた。
(――お願い)
この次に、私が『心から真に求めるもの』を述べれば、そのあとにはきっと……。
「代価は――赤褐色の宝玉!」
手中の指輪を天高く掲げる。赤褐色の小さな宝玉を戴くこの指輪は、田舎を出る時に母より託された亡き父の形見だ。
それを今日ここで……捧げる。
(だから……お願い)
私ができるのはここまで。後は、願い祈るしかない。
「我が願いは――〝力〟!」
まだ見ぬ我が魔道の同伴者――使い魔よ。
「醜き穴だらけの世界を、立ちはだかる壁だらけの世界を、遍く平定する絶対の〝力〟を求め、終生の契約を希う!」
どうか、私の願いを聞き届けて……!
「召喚門――開け! 神聖なる契約のもと〝人界〟に現出せよ!」
詠唱を終えたその瞬間、クレプスクルム魔法女学院の召喚室内に光が溢れた。
この魔法――【契約召喚】は、魔法使いが一人前になるまでの間に必ず行われる通過儀礼の一つ。隣り合う別世界――〝魔界〟と交信し、魂の共鳴に適う異形の存在と契約を結ぶ魔法。通常の【召喚魔法】と違い、この時に結ばれた契約は一生涯にわたって継続される。
つまり、過去の魔法使いの数だけ前例があるのだ。にも関わらず、召喚魔法陣がこんな風に部屋を覆い尽くすほど強い光を発するだなんて、今まで見たことも聞いたこともなかった。それは周囲で見ていた観衆も同じようで、各所から悲鳴と驚きの声が漏れる。
だから、期待をしなかったといえば嘘になる。
伝承に残るような高位の魔族が、未確認の強大なる魔物が、光の中から現れてくれるなんてことを。私のどこかに眠っていた才能を証明するような、『救い』が訪れることを。
この光はその前兆なのだ、と。
無意識のうちに私は目もくらむ光の根源――召喚魔法陣の中央部へと手を伸ばしていた。
「――来て!」
世間では、魔法使いの実力を測るにはまず使い魔を見よとも言われる。高位の魔族や傍目に強そうな魔物を連れていれば、素人目にも一目瞭然だからだろう。
だが、実際には〝人界〟での使い魔の体を形成するのは契約者の魔力であり、ゆえに〝魔界〟での格は関係なく使い魔の出力も契約者の魔力に依存するからである。
では、私はどうか。
魔力量は極少。その操作技術も下の下、放つ魔法の出来は人に見せられたものではない。実のところ、無事に契約できたとしても、喚び出した使い魔をどれだけ〝人界〟で維持していられるか分からなかった。
けれども、そんな出来損ないの私でも希望を託すだけの価値が使い魔にはあった。
出力が足りずとも使い魔に特別な性質や能力が備わっていれば……長く維持できずとも知識と訓練を組み合わせれば……工夫や状況次第で活躍の場があるかもしれない。
なんて、都合の良いことを言っているのは分かっている。だが、もう私にはこれに期待するしか逆転の芽は残されていなかった。
(憧れの『星団』に入る道は、もうこれぐらいしか……!)
淡い希望を抱いて、縋り付くように私は手を伸ばし続ける。
――しかし、その先で手にした現実は、どこまでも非情なものだった。
不意に「ビチャ――」と、水っぽい落下音がした。ついで、伸ばした指先に冷たい感触が伝わる。
「ああ、嘘っ……! こんなの嘘よ……!」
徐々に発光が収まってゆく中、いち早く誰よりも使い魔の存在を目にした私は激しい絶望に襲われていた。それは到底、受け入れ難い現実で、しかし心のどこかでは分かっていたことでもあった。
これが、私の器なのだ。
分かってはいた。分かってはいたが……それでも、改めてまざまざと見せつけられるとやはり堪えた。
光が完全に収まった時、召喚魔法陣の中央部には半透明の水が広がっていた。さながら、雨後の地面に広がる水たまりのように。
遅れて事態を把握した観衆が、ドッとけたたましい嘲笑を響かせる。
「それ、まさか『スライム』!? 魔物の中でも最下級の!? アッハハハ!」
「流石はクレプスクルム開校以来の落ちこぼれのリン! まさか、研究素材にしかならない『スライム』と契約するなんてね! できすぎよ!」
「リン、魔法も満足に使えない貴方にはお似合いの使い魔じゃない!」
どうやらご期待に添えたようで恐縮だ。
(お似合い、か)
反発は驚くほどなく、ただ妙に納得している自分が居た。そうだ、私なんて所詮はこんなもの。お似合いだ。
クレプスクルム魔法女学院の誇る優等生たちの称賛を全身に浴びながら、私は代価として捧げた筈なのになぜか〝人界〟に残されたままの父の形見の指輪を強く握りしめた。
とその時、突如として足元から声が響く。
「あー、あー」
驚いて床に目を向けると、零したジュースのように広がっていた水が、うにうにと寄り集まって一つの塊を形成し、ゼラチンのようにぷるぷると震えていた。
「――おい、お前がオレ様の契約者か?」
「え……まさか、アンタ喋ったの? 『スライム』が?」
魔法の心得がない者でも知っていることだ、『スライム』を始めとする下級の魔物は、知能が低く喋るための器官を有さない。だのにこいつは人間の言葉を解し、喋ってみせた。前代未聞のことだ。
私はひどく驚いて、その事実に対する率直な感想を述べた。
「おい、お前がオレ様の――」
「だったら、なに?」
契約者だったら、なに。喋ったから、なに。
そんな二つの意味を込めた返答は観衆たちに大いにウケた。気持ちいいぐらいの大ウケ。あまりの悲惨な出来に自嘲の笑みまでこぼれる。
【契約召喚】は、通常の【召喚魔法】と違って一生に一度きり、取り消しは効かない。私はこいつと共に一生を生きてゆくしかないのだ。その『スライム』が喋ったから、何だというのか。慰めにもならない。
「あァん? どういうこったよ……」
狂ったような笑声が四方から響き渡る中、『スライム』の困惑したような呟きが誰にも拾われず消えていった。
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