2.祖国は危機にあり
ロクサーヌと別れてから、早くも一年が経とうとしていた。
未練の正体を考えることは止めた。考えても分からないことを考え続けてもストレスになるだけだから。
しかし、そうは言いつつも心のどこかでは、形容し難い引っかかりを感じ続けていた。ガリア帝国からの手紙が届く度に、その引っかかりはささくれのように存在を主張する。
ロクサーヌは向こうで元気にやっているそうだ。
もう何十通にもなる手紙の返事は、まだ書いていない。
茹だるような夏のある日。
世間では、国教会の総本山である神聖エルトリア帝国の教皇が『人間宣言』を批判したり、国教会を国家の管理下に置く法律が制定されて国教会と議会の対立が深まったり、また国教会の内部においても立憲派聖職者とそれ以外の聖職者とで対立が深刻化したりと大騒ぎしていた。
そんな中にあって、私は相変わらず酒浸りの日々を過ごしていた。
今日は酒の買い出しのために一週間ぶりに学院の外へ出かけたのだが、行きつけの酒屋の周辺にとんでもない人だかりができていた。
(チッ……ここでも暴動か。面倒くさい)
暴動の余波を受けて酒屋が早めの店じまいをしていた。私はくるりと踵を返し、この辺りに他の酒屋はあったかどうかを考える。そして、中産階級ども御用達の少し割高な店があることを思い出し、そこへ向かうことにした。
不思議なことに、淫蕩に塗れた生活をしている今の方が金には困っていなかった。出処に頓着しないのであれば、金はあるところにはあるものだ。
喧騒を厭うように散乱するゴミ類で汚れた街道を進んでゆくと、途中で中産階級層の済む閑静な住宅街の側を通りがかる。
見ると、そこには国が荒れていることをまるで感じさせない、まるっきり平静の営みがあった。子供は騒ぎ、女は着飾り、男は商談に花を咲かせており――要するに、活気付いていた。
以前なら微笑ましくも感じた筈のその光景が、今はなぜだか薄ら寒いものに思えて仕方がない。
彼らを横目に酒屋を目指していると、雑貨屋の外壁にフレスコ画のようなものを描いている老人が眼に止まった。
――瞬間、心が一気にざわつく。
見覚えのある偏屈そうなあの背中は、ベレニケで会った画房の主チャチャムさんのものに違いない。そう認識すると、胸中の形容し難い引っかかりが急速に膨らんでゆくのを感じた。
(見るべきじゃない……関わり合いになるべきじゃない……)
だが、そんな弱気な心に反して、私の足は自然と彼の方へ向いていた。
「……修復、ですか?」
これはフレスコ画だ。まず漆喰を塗り、乾く前にその上から顔料を塗って描く。単純に失敗したから描き直しているにしては、他の部分の風化具合に年季が入りすぎていた。なので、私は修復作業中ではないかと推察したのだ。
チャチャムさんは作業中にいきなり声をかけられたにも関わらず、泰然自若としてゆっくりとこちらを振り向き、そして僅かに眼尻と眉根を動かした。
「そうだ。芸術を知らぬ不心得者によって昔の絵が汚されたと聞いてな」
「そのために、わざわざ王都まで?」
「いや、王都へは別の仕事で来ていた。これはもののついでだ。ここの主人は古い友人で付き合いがあるからな」
もののついでという言葉通りに、フレスコ画は瞬く間に修復されてゆく。あと十五分もすれば、すっかり元通りになるのだろう。
しかし、革命の濁流とは無縁に思えたこの地区も、やはり多少の火の粉は免れなかったらしい。それでも、世情とは裏腹に牧歌的であることには変わりないが。
「ここにいると……この国が動乱の最中にあるということが嘘のようです」
子供は騒ぎ、女は着飾り、男は商談に花を咲かせ、そしてチャチャムさんは呑気に絵なんか描いている。私は何だかやってられない気分になって、携行していた最後の酒の封を開け中身を一口含んだ。
「ねえ、チャチャムさん。仮に絵を直したところでまた汚されてしまうんじゃないですか? 徒労に終わるかも」
チャチャムさんは、感情の起伏なく機械のように正確な筆さばきで修復作業を続ける。嫌なことを言ったのは私なのに、むしろ私の心の方が激しく揺れた。
「ねえ、ねえ、私を責めないでくださいよ。これでも精一杯やったんです。謝りに行けなかったのは申し訳ないと思ってます。あの後はすぐに王都へ帰らなくてはならなかったし、それからも忙しくてベレニケなんて遠方まで足を運ぶ時間はなかったんです」
言い訳していて自分が情けなくなってきた。時間がなかったのは事実だ。もっとも、酒浸りになる前までの話だが。
情けない。情けないが。しかし、こうしてきちんと言っておかないと。今の私は、酷いことを言われたら多分一切の我慢ができない。衝動的に殺してしまうだろうから。
(だから、責めないで)
手先が震えてきた。恐怖や怯えからくる震えではなく、単に酒が切れてきたからだ。その証拠に追加で酒を呑むとすぐに収まった。
ふと、チャチャムさんが筆を置く。
「……最近は、めっきり新聞で名前を見かけなくなったな」
「え?」
「確か『ルクマーン・アル=ハキム』を仕留めたという記事が最後だった」
それは間違いなく私の活躍だ。〝狂王〟からお褒めの言葉も頂いた。書面でだが。しかし、新聞にも掲載されていたとは知らなかった。
「……我々魔法使いの活躍なんてものは所詮、機会ありきですから。それも荒事。便りがないのが良い便りとは良く言ったものですよ」
「ほう、そうかい。機会がないか」
ここで初めてチャチャムさんは感情を露わにし、その横顔に皮肉げな笑みを浮かべた。今の問答のどこに満足したかは知らないが、それからチャチャムさんは再び筆を取り、驚くような職人技で瞬く間にフレスコ画の修復を終わらせた。
「見習いさんよ。さっき、この仕事を徒労と言ったな」
「……ええ」
「まったくもって、その通りだ」
道具を手際よく片づけながら、チャチャムさんはそんな風に開き直った。
「いま苦労して直した絵も、いつかはまた汚されるだろう」
「だったら……!」
「だが、汚されたんなら、その度にまた描き直しゃあいい」
潔すぎて、私は閉口してしまった。例え三回死んで生まれ直しても、私はそんな風に割り切ることは出来ないだろう。キレ散らかして、見境なく暴れる様が目に見えるようだ。
「……嫌になったりしませんか」
「なる」
そらみたことかと言いたくなる気持ちをグッと堪える。道具の片付けを終えて荷物を肩に担ぎ、こちらを振り向いたチャチャムさんの眼は死んでいなかったからだ。私のようにドブ川を思わせる淀みなど存在せず、今を生きる瑞々しい人間の活力に満ち溢れていた。
「だが――生憎と絵を描くことしか能のない人間だ。お前と同じでな」
これなら、思いっきり罵られた方がまだマシだった。
彼が絵を描くことしか能のない人間だとしたら、私は……。その先は考えたくなかった。
完膚なきまでに打ちのめされ、その場に呆然と立ちすくむばかりの私を置いて、チャチャムさんはゆっくりと歩き出す。
そして、擦れ違う時に私の耳元でこう呟いた。
「新聞、まだ取ってるぜ」
その言葉は、百の罵倒よりも深く私の心に突き刺さった。
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