数日後、父は宣言通りに学院へやってきた。兄弟や本妻は連れてこなかった。
会う前までは緊張もしたものだが、いざ対面してみると拍子抜けした。かつての面影は既になく、威圧的な雰囲気など微塵も感じなかった。そこにいたのは、老いさらばえた一人の男。貴族どころか、下男と言われても納得するほど痩せこけていた。
時の流れは、誰の身にも平等だ。
父は皺の刻まれた頬を動かし、嗄れた声を喉の奥底で響かせる。
「久しぶりだな……元気で、やってるか?」
「……ふつう」
「そうか、普通か。それが一番だ」
父は皺だらけの顔の上に、更に笑い皺を浮かばせながら何度も頷く。まるで、子を想う親みたいなその表情と仕草が癪に障った。
「何の用なの。急に」
「……デュノワ家を継いでくれないか」
――は?
「今、なんて……私が、デュノワ家を……?」
降って湧いたような話に気持ちが追いつかない。何故、私が? そもそも長男のフランクはどうなったのだ。この話に納得しているのか。無数の疑問が渦を巻き、手っ取り早い解決を求めて口をついた。
「どういう、風の吹き回し?」
「先週、私の妻――つまり、お前の義母が亡くなった」
「……それはご愁傷さま」
「去年は長女のアデライドが病に斃れ、今年は長男のフランクが病に臥せっている。恐らくフランクも長くはもたないだろう。次女のモニークはとっくの昔に嫁に出してしまった。もう、デュノワ家を継げる健康なものはお前しか残っていないんだ」
そう言う父の眼には、一抹の寂しさが滲んでいた。異様な老いの原因が分かった。家族に先立たれた孤独が容赦なく彼の体を蝕んだのだ。そして、唯一残された私に縋った。
「それにお前はこの学院で士官教育も施される。帯剣貴族として恥ずかしくない振る舞いができる筈だ」
「事情は分かった……でも、いきなりそんなこと言われても……」
戸惑うに決まっている。そんな私の反応を予期していたのか、父は落ち着き払ってこう続ける。
「もう、妻は居ないんだ。お前を嫌うものなんて、誰一人いない。学院を卒業したら、一緒に暮らそう」
どの口が――!
激しい怒りが込み上げてきた。今まで、手紙の一通だって送ってこなかった癖に。寂しくなったら急に父親面をするのか。ずっと、何もせずに見ていただけのお前が。今更、愛だの、家族だの。
「返事は、いつでも良い。だが、なるべく早く……父さんを安心させてくれないか」
父は、足早に部屋から出ていった。その様子を見てはたと気付く、どうやら緊張していたのはお互い様だったらしい。
少し心を落ち着かせてから、私も部屋を出た。すると、ドアの横に見覚えのある顔が、腕を組んで壁にもたれかかりながら待ち構えていた。
「なーんか、想像とは違う感じだったわね、アンタのお父さん」
「……リン。家族団欒の一時を盗み聞きするなんて、趣味悪いよ」
「ふっ、家族団欒……ねえ」
なぜ、リンがここにいるのだろう。王党派に付くよう言いに来たのだろうかとも思ったが、リンはその考えを先読みし即座に否定した。
「王党派に付くかどうかはアンタの好きにしなさい」
「じゃあ、なにしに来たの」
そう聞くと、リンは「はあ」と溜め息をついた。
「アンタねえ、なぁんか一匹狼を気取ってるつもりのようだけど、自分が思ってる以上に寂しそうなの、みんな分かってるんだからね」
「……なにが、言いたいの」
「だから、好きにしなさいってことよ」
リンはぶっきらぼうに、吐き捨てるようにそう言う。そして、私がその言葉の含意を探っている間に、リンは「ただ……」と言葉を継ぐ。
「アンタがデュノワ家を継がないなら、他に継ぐやつもいないしデュノワ家は廃絶するでしょうね。他の王党派からしてみれば、そんな先のない家と懇意にする理由がないもの。旨味もないし。つまり、アンタのお父さんは正式な廃絶を待たずして食うに困る可能性が高いって訳。病気の息子さんを一人抱えてね」
「……結局、泣き落とし?」
「そうじゃない」
顔の傷跡を歪ませ、リンはグロテスクな笑みを浮かべた。
「私自身、アンタのお父さんが泣こうが喚こうが生きようが死のうがどうでもいいわ。けど、アンタの選択によってどういう結末が齎されるのか、そこのところをキチンと認識した上で、自由意志に従って好きに選びなさい。良いも悪いも全部、アンタのもの。アンタの人生よ」
私は、リンの言っている意味を理解して心底震えた。断じて、これは王党派への勧誘などではない。
これは殺人教唆だ。
――押せ。
断崖絶壁に立たされている父の背を、もし望むのであれば、心から押したいと望むのであれば、押せ。殺したければ、殺せ。
決して、その事実から目を背けることなく。
リンはそう言っているのだ。
復讐。過去の精算。それにより得られる暗い愉悦と、解放の快感。
仄かに漂う甘美なる罪の薫りにあてられ言葉を失う私の前で、ふとリンは背を壁から離した。そして、私の背後へ向かって歩き出す。
「ま、相談ならいつでも乗ってあげるわ。私も……ロクサーヌも、ね」
擦れ違いざまにポンと肩を叩かれたのを合図に私は再起動する。聞き捨てならない言葉だった。
「――待って! まさか、ロクサーヌが急に話しかけてくるようになったのって、貴方が……!」
リンは何も言わず後ろ手に手を振って、そのまま廊下の角の向こうへ去っていった。
それから自室へ戻った私はベッドに横たわりながら夜通し考えた。
結局のところ、私はどうすべきなのだろうか。
――いや、どうしたいのだろうか。
正当な手続きを踏まなければ爵位は継承されない。仮に父が勝手に手続きをしたところで、手続きから一年以内であれば爵位を放棄できる。面倒を避けるなら、今のうちにデュノワ家を継がないことを対外的に宣言すればそれで済む話だ。
しかし、そうするとリンの言う通りデュノワ家の立場はないだろう。もともと、大移動の戦乱が収束しかけた頃に便乗してやってきて、ちょっとした武者働きで爵位を貰っただけの木っ端貴族だ。
帯剣貴族だなんだと格好つけて言っているが、下級官僚にしかなれない子爵位に任される仕事といえば重要度の低い下らない事務処理がせいぜいで、国政にさほど深く関わっている訳でもない。明日、居なくなろうが、すぐにでも代わりが据えられることだろう。なんなら、その代わりは別に平民でも構わない。
容易く想像できた。誰にも看取られることなく、朽ちた廃屋のようになって死んでゆく父の姿が。
「……よいしょ、っと」
私はベッドから起き上がり、便箋を用意した。父へ宛てた手紙を書くためである。
心は決まった。しかし、相変わらずさっきから煩雑な思いが脳裏を駆け巡っている。だから、少しは文面に迷うかと思いきや、万年筆を握る手は自分でも驚くほどに淀みなく紙面を撫で始めた。
前置きは必要ない。ただ、用件だけを簡潔に綴ればいい。
『私、ミーシャはデュノワ家を継ぎます』
その便箋を私は安物の封筒に入れて翌日の朝に投函した。
それから暫くして、了承したという返事と共にフランクが亡くなった旨の書かれた手紙が届いた。
「じゃあ、やっぱり……」
「おっしゃる通りですわ。わたくし、実は最初からミーシャさんの事情を知っていましたの」
そう言って、ロクサーヌは優雅に頭を下げた。所作が優雅すぎて、私が謝られている事実に一瞬気付かなかったぐらいだ。
「王党派の友人も、一組の友人もいますから、そこからミーシャさんの話を聞いて、これは助けてあげなければと余計なお節介を……」
王党派の友人……リンか、そうでなければコーネリアかヨアナ。一組の友人とは、サマンサかオフィーリアだろう。瞬時に候補が何人もあがるところで、ロクサーヌの交友関係の広さを再認識した。
これまた優雅に顔を上げたロクサーヌだったが、その視線だけは変わらず伏せられ、地面を彷徨ったままだ。
「ごめんなさい。貴方は、想像していたよりずっと逞しい人でしたわ。わたくしの手助けなんて要らないぐらいに……」
――違う。それは違う。
私が父と顔を合わせられたのも、迷いなくデュノワ家を継ぐと決意できたのも、偏にロクサーヌから勇気を貰っていたからだ。あの時、私の頭上から降ってきた大きな影を思うと、不思議と心の中に安心感が広がり精神は均衡を取り戻した。
だから……。
しかし、その想いが言葉になる前に、ロクサーヌは懐から細長い長方形の薄い紙を取り出し私に突き付けた。
「これは……」
「『栞』、ですわ」
クルリと裏返された栞の片面を見て、私はドキリとした。そこには、かつて私が八つ当たりで踏み穢してしまった、名も知らぬ花の姿があった。
「見覚えがありますか? あの時の花は、茎と葉こそ破損してしまっていたものの、花弁には吐瀉物と土がまみれるばかりで傷は一つもありませんでしたの。ですから、押し花にして、栞を作ってみましたわ。貴方、よく本を読んでいらっしゃったから」
栞を手渡された私は、その押し花から目が離せなかった。
「本当は、これで勇気づけようと思っていましたの。残念ながら、その役目は果たせなくなってしまいましたが……せっかくですから、受け取って欲しいのですわ」
これは、この花は私だ。私なんだ。
何の価値もなく、不本意に命を与えられ、育てられ、やがては力あるものに踏み潰される。そんな運命に抗えぬ奴隷。
――だが、まだ生きている。
この栞の中でまだ、その美しさを保っている。
「ご迷惑をおかけしました。もう、話しかけたりしませんわ。それでは、ごきげんよう……」
ロクサーヌは踵を返し、遠くで成り行きを見守っていた彼女の友人たちの方へ向かって歩き出す。
「あっ……」
待って――と、そう言いたかったのだが、まるでしゃっくりを堪えている時のように横隔膜が震えて声にならない。
(待って……待って、ください。まだ、お礼も……)
どうして、足が動かないんだ。この栞の対価に、貰った勇気を返上してしまったとでもいうのか。
まるで、魔法が解けたかのようだった。
再び臆病な自分に戻った私にできたのは、ほんの少し、このか細い手を伸ばすことぐらい。
(ああ……背が、彼女の背が、どんどん遠のいてゆく……)
いくら手を伸ばしても、届くことはない。
何を惜しんでいる。悲しんでいる。もとに、戻っただけのことじゃないか。私の望み通り、これからは平穏な学院生活を謳歌できる。王党派のごたごたはあるかもしれないが、それは覚悟の上。
それで、良いじゃないか。それで……本当に……。
「それで、良い……の?」
「――だったら、何で泣いてるのよ」
「え……?」
振り向くと、そこにはいつの間にか呆れ顔のリンが立っていた。
「言ったでしょ、好きにしなさいって。ここで泣くのが貴方のしたいことなの?」
「そ、それは……私……私は……」
「あ~もう、焦れったいわね。答えは決まってるんでしょ。だったら、迷わずそうしなさいよ」
ずんずんと威圧的に詰め寄ってきたリンは素早く私の背後へ回る。何をするつもりかと思っていると、耳元でリンが大声で叫んだ。
「ロクサーヌ! ミーシャがまだ話したいことがあるんだって!」
そして、ドンッと私の背中を押した。蹌踉めき、呆気にとられる私にイタズラっ子のような笑みを向けて、リンはどこかへ走り去ってゆく。
前に視線を戻すと、ロクサーヌが再びこちらへ戻ってくるのが見えた。それも駆け足で。
なんだ、こんな簡単なことなんじゃないか。
届かないなら、届くようにすれば良いだけの話だったのだ。
(ありがとう……リン……そのことに気付かせてくれて……)
言わなきゃ。
乾いた喉を引き裂いて、今度はちゃんと声が飛び出る。
「わ、私は、ミーシャ」
ミーシャ・ド・デュノワ。
かつては名乗ることすら許されなかったこの姓を、この度、準生により正式にデュノワ家の一員となった証として名乗ることになりました。
王党派の末席にしてデュノワ家の次期当主。孤独の中に生を受け、そしてそんな過去とは関係なく、誰に強いられた訳でもなく、私は貴方と……。
ロクサーヌ、貴方と友達になりたい。
そして、できればリン……貴方とも。
「どうか、私と友達になってくれませんか――!」
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