パン、パン、パン。
「いやぁ、お見事お見事……グィネヴィアも推す剣さばき、とくと堪能させてもらったよ」
拍手の出どころを探って見上げると、そこにはベランダに寄りかかってこちらを見下ろすフェイナーン伯がいた。騒ぎを聞きつけて出てきたらしいが、逃げるでもなく余裕の面持ちでワイングラスを傾けている。
「フェイナーン伯……指輪を返してもらいにきました」
「なるほど、全て知っているか。ふふ、それは……できないな」
「既に証拠はあがっています。じきに警察が押しかけてくるでしょう。観念してください」
「証拠? 証拠だと? クク……フハハ!」
フェイナーン伯がニヤリと嫌な笑みを浮かべた瞬間、鋭い警告が生存本能を煽る。
「――リン! 後ろだッ!」
マネ主導の動きで振り向き、視界の端にチラついた光を見て反射的に魔力刃を実体化させる。この判断が功を奏し、頭上から振り下ろされた大剣を既のところで防ぐことに成功する。
(重――!)
圧され、体が折れ、足が滑る。腕は痺れ、震え、重さに屈した。
(潰、されるッ――!)
一瞬のうちに受け止めきれないと理解らせられた私は、身を軋ませる大剣の重量を気合で右へ流し、襲撃者と立ち位置を入れ替わるようにして速やかにその場を離脱した。
バックステップで十分な距離を取ったところで、折しも雲間から漏れ出た月明かりが襲撃者の外見を仔細に暴き出す。
一見すると、それは成人男性の背丈ほどの毛の塊に見えた。
だが、すぐにそんなファンシーな存在では断じてないと思い知らされる。
「Grrrrrrrrrrrrrr……!」
夜の暗闇の中、ギラリと光る野性的な視線が私を刺し貫く。前方に突き出た鼻面には威嚇するように剥き出しにされた鋭い牙が生え揃い、人間のものとは思えない獣じみた低い唸り声をその中で反響させている。
二足歩行する狼――私はそんな存在に心当たりがあった。
「人狼……!? でも……!」
「ああ、【召喚魔法】じゃねえな。存在の軸が〝人界〟にある! オレ様たち使い魔のように借り物の体じゃないぞ……」
魔法使いの助けを借りずして、〝魔界〟の住民たちが〝人界〟に存在することは不可能な筈。それは両世界の空気中に漂う魔力濃度の違いによる絶対の制約だ。
さっきのジャミルといい、この人狼といい、何かおかしい。私は、理解を越えた諸侯派の深淵に足を踏み入れてしまったことを悟った。
だが、後悔するには遅すぎる。冷や汗が、ダラダラと背中を流れ落ちてゆく。
「よく、避けた! 残念ながら、君の動向なぞ我々は全て把握しているのだよ。さて、お友達はその証拠とやらを無事に警察まで届けることができるかな?」
「なん、ですって……!?」
ロクサーヌとサマンサのところにも、こんなやつが向かっているというのか……!? すぐに知らせなくては……!
「落ち着け、リン! ロクサーヌなら大丈夫だ。アイツは早々くたばるやつじゃない! ……だろ?」
乱れた心をマネの声が鎮めてくれる。
(……それもそうだ、ロクサーヌは強い。私よりも、遥かに)
その上、コーネリアたちもすぐに合流すると言っていたし、騒ぎを大きくすれば困るのはむしろフェイナーン伯の方だ。証拠さえ隠滅できれば良いのだから、ド派手な正面戦闘にまでは発展させない筈。
つまり、ロクサーヌたちに危害が加えられる可能性は低い。
「……今のは、私を動揺させるためのフカシね?」
「はははっ! いやはや、バレてしまったか!」
フェイナーン伯はどこまでも余裕ぶって私の推理の正しさを認めた。ムカつく。
「そうだ、特殊技能を持つ者に証拠を隠滅してくるよう命じただけだ。しかし、その頭の回転の早さといい、さっきの不意打ちまで防いだ剣の腕といい、本当に惜しいな。今ならまだ間に合う、諸侯派に来ないか? もちろんその場合、指輪は諦めてもらうことになるが……」
「――はっ、冗談!」
皮肉にも、フェイナーン伯が寄越したフカシと降伏勧告によって、私は幾ばくの冷静さを取り戻していた。
(……関係ない。相手がなんだろうと関係ない!)
存在の軸が〝人界〟にあるだって? それがどうした。
存在するなら、斬れる。
斬れるなら勝てる。
(――私は勝てる!)
諸侯派の思惑など知ったことか。人狼をぶっ倒してフェイナーン伯から指輪を取り返したら、ついでにその思惑も洗いざらい吐かせてやればいい!
「いきなり斬りかかられたってのに、誰がほいほいと従うもんですか。子供の恋心を利用して盗みをさせるような奴らなんかに! というか、そんなにあの指輪が欲しかった訳? 噂の貴族様も案外大したことないのね。あんなの、ただの高いアンティークでしょ!」
「ふんっ、これだから物の価値を知らぬ愚か者は……もういい、上手く生け捕りにできたらアジトにでも運んでおけ、記憶処理を施す。手こずるようなら――殺せ」
「御意」
月光のもと、光り輝く白刃が上段に据えられる。幅広で肉厚の大剣は、カラギウスの剣の薄く細い魔力刃と比べると、見た目からくる迫力が段違いだった。
そんな大剣を、人狼はまるで棒きれかのように軽々と扱う。掠っただけでも、私の細い身体はバラバラに吹き飛ばされてしまうだろう。しかも、その体さばきからすると、さっきの警備員の奴らとは違って剣術の心得があるらしい。ロクサーヌのような剛力に剣術の心得まで……侮れぬ相手だ。
「Awooooooooo!」
人狼はグッと体を沈み込ませた。人間離れした大腿筋の膨らみが、これから来るであろう突撃の苛烈さを予想させる。呼応して、私もまたカラギウスの剣を構え直し戦闘態勢を整えた。
私は慎重に己のうちで魔力を練り上げ始める。だが、いつも以上に上手く操作できない。それがマネにも伝わったか、触手で挑発的に頬を突かれる。
「臆したか? 逃げても良いんだぜ、その方が生存率は高い」
「まさかでしょ。これは武者震いみたいなものよ」
恐れはない。あるのは眼前に立ち塞がる敵を打ち倒さんとする純粋な闘争心のみ。その証拠に段々と魔力も纏まってきた。
「興奮するのも仕方のないことだわ。だって……未知なる敵を打ち倒すだなんて、英雄譚の主人公みたいで格好いいじゃない?」
「へっ、その意気だ! ――来るぞ!」
地面を深く抉り込むほどの強烈な踏み込みによって、まるで砲丸の如く突貫してきた人狼は、その鋭い牙をこれでもかと見せつけつつ、それ以上に脅威的な大剣をまっすぐに振り下ろしてくる。
その一挙一投足を見ただけで、私には彼の剣術の完成度が分かってしまった。ロクサーヌの力任せの剛剣とは格が違う。彼の一振りの中には野性味と理性とが同居し、ただ相手の生命を寸断するという目的のもと互いを高めあっているのだ。
思わずチビってしまいそうなぐらいの大迫力だが、ここで退く訳にはいかない。相手は前進しているのだから、左右背後のいずれを選択しようが今からではどうやっても逃げ切れず、哀れにも真っ二つにされた死体が出来上がるだけだ。
(――逆ッ! 逆なのよ!)
死中に活路あり!
死中に活路あり!
死中に活路あり!
己を鼓舞するまでもなく、覚悟はとっくに済んでいる。かつて、ロクサーヌの剛剣に対してそうしたように――私は後ろ髪を引く死神の誘いを袖にし、毅然としてその場に留まり振り下ろされる大剣に立ち向かった。
見える――剣の軌道が見える!
天を衝く上段の大剣は斜めに傾けられ、そこから彼我の空間を滑り落ちるようにして私の左半身へと猛然と襲いかかってくる。もはや、多少の力を加えたぐらいじゃ大剣の軌道修正はできない。受け流すことは不可能だろう。
(――ならば、受け流さない)
剣を左に――落ちてくる大剣と左半身との間にカラギウスの剣を挟み込む。そして、魔力刃の側面に両掌と左足の腿を当ててしっかりと支えた。
これは――盾。
「血溝受け」
ギィンと耳障りな干渉音が鳴り響いたかと思うと、その直後、私の身体を恐ろしい衝撃が襲い気付けば宙を彷徨っていた。
やはり人狼の膂力は凄まじく、私のような小娘ごときを防御ごと弾き飛ばすぐらい訳ないらしい。まさしく、ロクサーヌとの試合を思い出すようなシチュエーションだ。相手の剛力をいなすことも受け止めることもできず、風前の塵さながら敢えなく吹っ飛ばされる。
違いは、前回がルールに守られていた試合だったのに対し、今度は実戦であるということ。
(つまり――容赦なく追撃が来るッ!)
危惧した通り、人狼は攻撃の余勢を利用して抜け目なく花壇を叩いていた。煉瓦と土が爆発したかのように舞い飛び、散弾となって私を猛追してくる。
「――ハッ! 他愛ないわね!」
前回との違いならまだある。それは私自身の成長! 訳も分からずロクサーヌに吹き飛ばされた時と違って、今回は覚悟の上で自分から飛んだのだ。周辺地形だってあらかじめ把握済みである。
私は落下地点を目視することなく宙空で体勢を整え、襲い来る煉瓦をマネの触手と連携して捌き切った。
そして、落下しながらアメ玉を一コだけ取り出し、指の間に挟んで人狼に向かって見せつける。
「見えるかしら? アンタなんてアメ玉一コで十分よ」
「――ほざけっ!」
私の着地時の隙を狙って、人狼本体が怒号と共に突っ込んでくる。
(解放は必要ない……)
私は腰の杖を抜き、掌で目を覆いつつ、戦闘開始前からずっとちまちま構築し続けていた魔法を解き放った。
「闇夜に弾けろ――【導きの光】」
「なっ、魔法だと!?」
初歩的な魔法の一つ、【導きの光】。その名の通りに暗所で役立つ程度の光を放つ魔法だ。
失礼なことに人狼は驚いたようだが、私だって見習いだけど魔女なのだから魔法ぐらい使う。もっとも、私が中等部に上がってから、戦いの中でマトモに魔法の使用を試みたこと自体、これが初めてだが。
【導きの光】は初等部で習うような簡易的な魔法だが、そんな簡単なものの構築にすらここまで時間がかかるようでは流動的な実戦での使用は難しい。だから私は今まで魔法を使ってこなかった。
いや、使おうともしなかった。
相手の攻撃を防ぐのに手一杯で、避けることに専心して、それでも圧し潰されていたから。
だが、それも過去の話。――今は違う。
(マネの助力で楽ができるようになった分、浮いたリソースで簡単な魔法を構築するぐらいはできる……!)
練り上げた魔力を全て注ぎ込んだ【導きの光】は、しかし不完全な完成度ゆえにカメラのフラッシュほどの光量を一瞬放つだけだったが、暗順応により拡大した人狼の瞳孔を眩ますにはそれで十分だった。
「G……Grrrrrrraaaaaaaaaaaaa!」
苦悶の声を上げる人狼。対する私は、外壁や地面に突き刺さるマネの太い触手に支えられ、予定通りに軟着陸を果たしていた。
これで形勢逆転――かと思いきや。
「へえ、流石ね」
掌を退かした私の視界には、【導きの光】を放つ前と遜色ない確固たる足取りで迫る人狼の姿があった。不意討ちの閃光をもろに食らったにも関わらず、人狼はその足を少しも緩めていない。
称賛するしかないだろう。戦場で無防備を晒すことが如何に致命的な行為か、理性でなく本能の領域で知っている。
だから、彼は止まらない。
決死の覚悟で、眩んだ視界の向こうに思い描いた私を斬りにくる。実際、こうして私の着地の隙には間に合わせているのだから、正解に近い判断だ。
でも、残念ながら……その行動は私が予測していたうちの一つに過ぎない。
大振り、だが鋭い横薙ぎ――人狼の放った攻撃の初動を目視した瞬間、私は自分の勝利を確信した。
「マネ」「おう」
姿勢を低く――だが、ただ単に低くするのではない。両足の裏を完全に地面から離し、キスでもするぐらい顔面を地面に近づける。うつぶせに寝転がる時のような、剣術という枠組みではまず想定されることのない姿勢。
それもその筈、足裏を地面に付けていないこの姿勢ではどうやっても踏ん張ることはできず、剣など振るいようもない。倒された後の対応を学ぶことはあっても、わざわざこの姿勢を取ってから攻めようとは夢にも思わないだろう。
だが、他人と異なることとして私にはマネがいる。
地面を離れた私の両足は、地面の代わりに新たな別の地面――マネの体組織を足場としてガッチリと掴んでいた。
これぞ、私が編み出した新たな剣術の形。その雛形!
(――今、この瞬間! 私は重力からすらも自由になった!)
直後、遥か頭上を勢いよく空過してゆく大剣の存在を髪を巻き上げる暴風に感じながら、私はマネの支えを借りて体を鋭く回転させ、思い切りカラギウスの剣を振り抜いた。
「伏龍・逆風」
伏した龍が風に逆らい天昇するが如く、カラギウスの剣は天を衝いた。
交錯――地面の私を跨ぐように通り抜けていった人狼は、そのまま足を止めず私の背後へ走り抜けてゆく。
振り返って確認する必要はなかった。実体化を解いた魔力刃は、股から脳天にかけて逆真っ向に人狼の魂を一刀両断した。もはや、足の統制を取ることすら満足にできないだろう。
(そっちは殺す気だったでしょうけど、私はそうしない)
これは余裕でも慢心でもない、私の『自我』。そうしたいから、そうしたのである。
ドン――と、まるで大馬車が衝突したのではないかと思うような大きな音をさせてお屋敷の外壁に突っ込んだ後、人狼はピクリとも動かなくなった。
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