嫌な音がした。到底人体からは鳴らないような破砕音が。
けれども、待てども待てども私の体のどこにも衝撃を感じなかった。顔にも、腹部にも、カラギウスの剣にも。
一体、何が起こったのか知るために私は恐る恐る目を開き――そして、視界に広がる異様な光景を脳内で処理しきれず固まった。
(う、腕……?)
私の頭上の壁から腕が生えていた。私が背にしていたテナントの壁を突き破り、あまりにも堂々と見覚えのある白腕が突き立っていた。
その白腕が、ジャミルの右手首を掴んで力強く捻り上げていたために私は無事に済んだようだった。さっきの嫌な音は、この白腕が壁を突き破った時の音だったのだろう。
ベキッ、バリバリバリ、と壁に張られていた木材のひしゃげる悲鳴を引き連れ、非常に聞き覚えのある頼もしい声が頭上から振ってきた。
「リンさん、少し猪突猛進が過ぎるのではなくて?」
「ロ、ロクサーヌ……!」
色々と想定外のことが立て続けに起こった所為で、私はもう呆然とするしかなかった。私の服裾から這い出てきたマネの触手も信じられないという風にぷるぷると震える。
「んな、めちゃくちゃな……」
口には出さなかったものの、私も内心ではマネと同じことを思っていた。
ロクサーヌは、まるで始めからそこに壁なんて存在しないかのように、例えるなら普通に往来を闊歩する時のような、不自然すぎるほどに自然な所作で石材・木材を蹴散らしつつ壁を突き破って登場した。
そして、尻もちをついた私にチラと流し目を送る。
「後は任せて下さいませんか? わたくし、久しぶりにムカッ腹が立っていますの」
ロクサーヌは更にズイッと無造作に歩み出て、捻り上げた手首ごとジャミルをテナントの中央へ押し戻してゆく。
(凄い……ジャミルの力も弱くない筈なのに、ビクともしないなんて……)
とその時に気付く、ロクサーヌが杖も剣も持たず、徒手空拳のその身一つでこの場に臨んでいることに。
「げっ……そ、そうね。そこまで言うならアンタに任せるわ。けど、危なくなったら助勢するわよ!」
「ええ、それで構いませんわ」
一応の確認を取ってから、私はそそくさとロクサーヌから離れた。こんな狭いところで巻き込まれたら堪ったものじゃない。
「おい、リン。アイツだけに任せて大丈夫なのか?」
「まあ、見てなさい。ロクサーヌが〝素手〟ってことは遊びも手加減も抜きってことなのよ。剣術クラブに所属してるのもただの格好付けだしね。それより、巻き込まれないように気を付けましょ」
「は? 〝素手〟だから本気? 確かに剣を使ってた時より力の使い方が上手いみてえだが……」
マネは理解できていないようだが、もしジャミルの攻撃が単純な物理攻撃だけなのだとしたらロクサーヌの敵ではない。
ずんずんと押しに押して、サマンサからも私からも安全な距離を取ったところで、ロクサーヌはようやく前進を止めた。
それまで掴まれた手を引き剥がそうと必死にもがき、蹈鞴を踏むばかりだったジャミルも、ここらでその無駄な試みに見切りをつけて自由な左拳でロクサーヌへ殴りかかる。
しかし、そんな苦し紛れの攻撃は、ロクサーヌにしてみれば何の脅威でもない。危なげなくもう片方の手でジャミルの拳を受け止めたロクサーヌは、スムーズに手四つの姿勢へと移行した。
「ロクサーヌ! そいつ、何かおかしいから油断はしないで!」
「心配ご無用! ネルさんの使い魔を通して大方の流れは把握済みですわ!」
コーネリアの使い魔? それがどんなだったか思い出す間もなく、ロクサーヌが動き出す。
手四つの姿勢からわざと均衡を崩してグイッとジャミルを引き込み、バランスを崩したジャミルを抱きかかえるように左腕一本で拘束する。そして、空いた右腕でジャミルの背後にある『何か』を掴んだ。
「こそこそと隠れてないで――出ていらっしゃい!」
その時、窓から差し込む街灯の光にキラリと反射して、ロクサーヌが掴んだ『何か』の正体が見えた。
それは――糸。本当に目を凝らさねば見えぬほどに細い細い糸。同時に、途中から薄っすらと感じていた魔力の気配もこの糸からだと分かった。
ロクサーヌはその糸を思いっきり引っ張った。すると、向かいの壁を突き破って、また別の男が引っ張り出されてきた。ガラガラと木片が舞い飛ぶ中、よろめきながら立ち上がった男からは、やはり魔法使いとは別種の魔力を感じた。
「貴方が本物のジャミルさん……ということで宜しくて?」
「く、くく……合ってるよ。しかし、これが魔女かぁ。やはり借り物と自前。出力が違うな」
声はほぼ同じだが、さっきまでのジャミルとは顔立ちも体格も雰囲気もまるで違っていた。温厚で包容力のあった笑みが野性的なものに、色白だったのが色黒に、細身だったのがガッシリとした体型に、浅い彫りの顔が深い彫りに、思慮深く感じた眼には軽率な色合いすら交じる。
その時、ロクサーヌの懐に抱かれている偽ジャミルが、糸の切れた人形のようにプツリと脱力する。それと前後して、本物のジャミルが床に倒れているサマンサに指を差し向けた。
「アイツ、糸をサマンサに伸ばしたぞ」
「大丈夫、見えてるわ」
とは言いつつも注意していなければ危うく見逃すところだった。ジャミルの指先から、微かにさっきのものと同じ糸が伸びてサマンサの体に取り付いた。魂を両断されたサマンサはまだ暫く動けない筈だが、その糸に引っ張られるようにして無理矢理立ち上がらされる。
(……ああやって、ずっとどこからか偽ジャミルを操ってたのね)
よく見ると、突き破られた壁の向こうには何体ものバリエーション豊かなジャミルが安置されていた。小さいもの大きいもの、ハンサムなもの、もっと色白・もっと色黒の肌のもの、中央には女性型のものもある。また、作りかけのものもあり、その関節部分は球体だった。
(間違いない……あそこは工房なんだ。私たちがずっと相手をしていた偽ジャミルは、あそこで作られた異様にリアルな質感の『人形』だ)
肌の質感や声の調子、表情なども本物と見紛う出来であり、私もまんまと騙されてしまっていた。糸で立ち上がらされたサマンサはギクシャクとした動きでナイフを拾い上げると、ジャミルのもとまで歩かされる。
「さあて、お決まりのセリフだ。――動くな! こいつがどうなってもいいのか!」
「ジャ、ジャミル……貴方、が、ジャミル……なの?」
戸惑うサマンサの喉元に自らの手でナイフが突きつけられる。一瞬、マネが反射的に飛び出しかけたが、私はロクサーヌがまだ余裕を保っているのを見てもう少し静観してみることにした。
「なんとも、面妖な術を使いますのね」
「……随分と余裕だな、御学友を人質に取られているというのに」
「サミーさん」
ジャミルの脅しも意に介さず、ロクサーヌは余裕すら感じる声でサマンサに呼びかける。
「そろそろ貴方も理解したのではありませんか? 貴方の愛する殿方は、決していきなり刃物を振り上げて襲ったり脅したりするような方ではなかった筈ですわ」
「う、うああ……嘘、嘘よ……」
サマンサは、ナイフをピタリと自分の喉元に突き立てたまま、微動だにすることなく嗚咽する。
「これは、悪い夢だわ……! ジャミルは私とお店をやるって……そう誓い合って、一緒に……ここまでやってきたのに……!」
「それはこのテナントのことを仰っていますの?」
その言葉を待っていたとばかりに、ロクサーヌは懐からぺらりと一枚の紙を取り出した。
「ここに書かれた登記情報をご覧あそばせ。このテナントの契約は一ヶ月だけ。しかも名義人は全くの別人ですわ。工事も見てくれだけで、どこにも発注していません。ここに運び込まれている机や椅子も残らず一ヶ月だけのレンタル。つまり、彼には最初からお店を開く気などなかったのです。全ては貴方を騙すためだけに用意されたお芝居の小道具でしかなかったのですわ」
「そ、そんな……! 嘘よ……そんなこと……!」
目を逸らしようもない現実を突きつけられ、サマンサはしとどに頬を濡らす。
しかし、そんなところまで調べてあげているなんて……これはますます私が逸ったかもしれない。猪突猛進の批判は甘んじて受け入れよう。解決を急ぎすぎて、ちょっと考えなしだった。
感心しきりの私とは違って、悪事を暴かれた側であるジャミルは露骨に不快感をあらわにした。
「おいおい、呑気に話しこんでないで道を開けてもらえるか? そこまでバレちまってんなら、もうこんなところにいる意味もないんでな」
「あら、まだ逃げられるとお思いで?」
「アァ? 当たり前だろ、こいつの命が惜しくないのか?」
プツ、とサマンサの首にナイフの刃先が少しだけ食い込み、一筋の血が垂れる。
「あ、あああぁぁぁ……! こんなの嘘、嘘よ……分からない……何も分からない!」
分からない、というより分かりたくないのだろう。泣き崩れるサマンサの眼は、もはや夢も現も何も映してはいない。
ジャミルは本当にやる気だ。サマンサに対し、一切の情を感じていないあの眼を見れば分かる。彼はサマンサのことを、彼女の想いも、命も、なんとも思っていない。
で、ここからどうする気なんだ? ロクサーヌは。
「ふぅ……サミーさん。お聞きになって?」
しかし、ロクサーヌはどこまでもサマンサしか見ていない。再び脅しを無視されたジャミルの額に青筋が浮かぶ。そして、脂汗も。明確な焦りの色だ。
「わたくしが友人としてお節介を焼けるのはここまでですわ。結局、ジャミルさんと別れるか否かは貴方自身が決めること」
「え……?」
思いがけぬ言葉に、涙を流すのも止めて顔を上げるサマンサ。一体、ロクサーヌは何を言っているのか、傍から見ていた私もサマンサと一緒になって困惑せざるを得なかった。
別れるだの別れないだの以前にジャミルは偽物だったのだから、答えは決まっているじゃないか。一度はそう思ったが、すぐにロクサーヌの意図を理解した。ロクサーヌは、ここでサマンサの恋心にスッキリとした決着を付けてあげようとしているのだ。尾を引くようなことなく、新たな恋に向かうために。
「他人の恋路を邪魔して馬に蹴られたくはありませんもの。悪どい恋人と関係を断ちたいのであれば、一言『助けて』とそう仰って下さいませんか? そうすれば、わたくしは快く円満なお別れのために尽力いたしますわ」
「いつまでも……ふざけたこと言ってんじゃねえぞ、クソガキがぁ!」
とうとう堪忍袋の緒が切れたか、ロクサーヌにずっと居ない者のように扱われていたジャミルが必死の形相で自らの存在を主張する。しかしその怒りは、誰がどう見ても得体のしれないものを目の前にした内心の焦りを掻き消すためのものだった。
「どうしても退かないというのなら、お前を殺してでも行くまでだ……!」
ジャミルが背後の工房へ片手を差し向けると、サマンサに取り付いていた糸の半分が外れ、工房の中へと伸びてゆく。そして、ピンと別の何かに繋がると、ジャミルは大きく腕を振ってそれを引っ張り出した。
床に散らばる木片を踏み砕きながら現れたのは、全身に数々の武具を取り付けられた大型の武装人形だった。人質に効果なしと見て、別手段を講じたのだろう。あの大型の武装人形がさっきの偽ジャミルと同じ速度と力で襲いかかってきたりしたら……私はその威力を想像してゾッとした。
「――死ねィ!」
武装人形が、その鋭い鉄爪を振り上げてロクサーヌに襲いかかる。だが、対するロクサーヌはその場に仁王立ちをしたままピクリとも動かない。腕すら上げず、ただ前を見据えているだけだった。
「どうして、何も……ロクサーヌ!」
ロクサーヌなら大丈夫と思っていた所為で判断が遅れた。私がマズイと思った時には、既に武装人形は介入の余地がないほどロクサーヌに肉薄していた。
だが、武装人形の鋭い鉄爪がロクサーヌの顔面に突き立てられる――その間際、私は戦闘の喧騒に混じって二つの声を聞いた。
「たす……けて……」
「分かりましたわ」
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