二度目の大東亜戦争

―平成32年の開戦―
高宮零司
高宮零司

第86話 ハーバート・クラーク・フーヴァー

公開日時: 2020年11月30日(月) 20:10
文字数:6,751

「宣戦布告をするのは老人である。 しかし、闘って死ななければならないのは若者だ」

-ハーバート・クラーク・フーヴァー


1943年6月4日 オレゴン州ニューバーグ


オレゴン州ニューバーグの郊外にあるその邸宅は敷地こそ広いものの、市の中心部からは少しばかり離れており、少々不便な立地であった。

それでもこの屋敷の主人は周囲に緑の多いこの土地を気に入っていた。

自ら庭木にホースで水をやる初老の男を、誰も元大統領とは思わないだろう。

今日は6月にしてはことのほか日差しが強く、いつもより青く感じられるオレゴンの空には白い入道雲が浮かんでいた。

その邸宅の前の広い車道をくたびれたエンジン音を響かせてやってきたのはシトロエンだった。いかにもフランス車という優美なシルエットは、丸みを帯びていて尖った部分を感じさせない。

停車したシトロエンから降りてきたのは、30過ぎくらいに見える白人の男だった。

ネイビーブルーのスーツを着て、その下にはオクスフォードシャツを着ている。モナコハンチングをかぶり、左手で杖をついている。

「先日電話させていただいた、ニューヨーク・ヘラルドのギブソン・スタンレーです。お会いできて光栄です、フーヴァー閣下。時間はよろしいですかな?」

ギブソンと名乗った男はハンチング帽を取って頭を下げると、フーヴァーと呼ばれた主人に名刺を差し出す。

「もはや政界も引退した身なのでね、閣下はよしたまえ。時間だけはたっぷりとある。中に入りたまえ。車はそこのガレージに入れておくといい」

そう言ってハーバート・フーヴァー前大統領は好々爺然とした笑みを浮かべて見せた。


「それで、政界から遠ざかっている私に何の用かな?今さら取材するようなことなど何もないと思うが」

コーヒーカップを片手に一人がけのソファに座っているフーヴァーは、ギブソンに値踏みするような視線を向ける。

「閣下、この戦争についてどう思いますか」

ギブソンは革製の表紙のついた手帳を膝の上に広げ、キャップを外した万年筆を構えながら質問する。

「それはまたずいぶん雑駁な質問だな、君」

フーヴァーは苦笑しながら、コーヒーに口をつける。

「では質問を変えましょう。この戦争はアメリカの国益にかなっていると思いますか?」

「難しい質問だな、それは。|真珠湾《パールハーバー》|攻撃《アタック》から始まった対日戦争は、まったくの防衛戦争と言える。国益も何もない。反面、ヨーロッパの戦争に介入すべきだったかについては甚だ疑問だ。今となっては同盟国である英国を支援する必要があることは理解できる。ただ…」

「ドイツは対ソ戦にかかりきりで英軍と戦う余裕はない、共倒れになるのを待てば良いと。あなたがこの本で主張されておられた通りですな。」

ギブソンはそういうと、足元に置いていた黒い革鞄から一冊の本を取り出した。

「『裏切られた自由(Freedom Betrayed) 』、あなたが将来出版することになる本です。ただ、残念ながらこの本が出版されたのは2011年のことですが」

「2011年?笑えない冗談だ。君は何を言っているのだ」

フーヴァーはギブソンを正気を疑う目で見つめた。

「私にとってはこの狂った世界の方が笑えない冗談なのですがね。その名刺に乗っているニューヨーク・ヘラルド社は、『我々の歴史』では1924年に売却された会社なのですが、『こちらの歴史』ではマンハッタン島にきちんとした社屋を構えている」

ギブソンの放つ空気が変わったことに気付いたフーヴァーは、無意識に壁に飾られている猟銃に目をやる。

目の前の新聞記者を名乗る男は寸鉄も帯びている様子はなかったが、政治の世界で生きてきた勘がこの男を危険だと告げていた。

「それではその未来の本とやらを見せてもらおう。そのうえで、君が日本人が未来人だと世迷言を言う類の人間だとわかったら、すぐにでも叩きだしてくれよう」

「ええ、いいでしょう」

ギブソンは余裕の笑みで、分厚いハードカバーの本をフーヴァーに差し出す。

フーヴァーは受け取った本の表紙をめくると、すぐに飛ばし読みを始める。

次第にフーヴァーの読み方は熟読へと変わる。

「認めよう。この本の中には私の脳の中にしか存在しない考えや、君のような人間が簡単には知りえない情報が含まれている。信じがたいことだが、これが未来に出版された本だと考えたほうがまだしも納得がいく」

フーヴァーはそう言うと静かに本を閉じ、ギブソンに突っ返す。

「新聞記者というのは偽装だな、日本のスパイ君」

フーヴァーの手にはいつの間にかリボルバー拳銃が握られていた。ソファの背もたれの隙間に隠していたのだろう。

「確かに私は日本のエージェントです。ですが、連邦捜査局に突き出す前に話を聞いていただきたい。なにより、アメリカの国益のために」

ギブソンは眉一つ動かさずに両手を挙げる。

「話だけは聞こう。妙な真似をすれば、容赦なしに撃つ」

「本をもう一冊、あなたに見せたい。先程の本と同じく、未来に出版された本です」

「いいだろう。だが、そのまま手を上げていろ。私が取り出す」

「ええ、もちろん。その鞄の中にあります。ご心配なく、何の仕掛けもないただの鞄ですよ」

フーヴァーはその言葉をそのまま信用せず、銃口を向けたまま慎重に鞄を持ちあげると逆さまにする。

開いていた鞄からペンやハンカチなどの細々としたものが落ちるなか、落ちてきたのはこれまた分厚い一冊の本だった。赤い表紙にスターリンの描かれているその本の表紙には、「Venona ‐Decoding Soviet Espionage in America」と題名が書かれていた。

「何だ、この本は」

言いようのない禍々しさを感じて、フーヴァーは思わずその本を手にとるのを躊躇った。

「それもこの時代にとっては未来の本ですよ。内容は…読んでいただく方が早いかと」

フーヴァーはその本を手に取ると、今度は何かに憑かれたかのように貪り読み始めた。

無意識のうちに拳銃の銃口は下ろされていた。

「馬鹿な、そんなことが。…あるわけがない。なんたることだ」

時間をかけて読み進めるうちに、フーヴァーの顔はどんどん蒼白になっていった。

ギブソンは静かに手を下すと、神妙な面持ちで言う。

「信じられないでしょうが、事実です。そのヴェノナ・ファイルは、今年から数十年間アメリカ陸軍情報部とイギリス|情報局秘密情報部《SIS》が共同で行った暗号解読作戦に関する機密文書が元になっています。具体的には、アメリカ国内でのソ連のスパイと本国との暗号通信を解読したものです」

「同盟国にスパイを潜入させること自体は、道義的には非難されるだろうが、珍しいことではない」

まあ、日本でもCIAは好き放題やっていたものなあ、と『ギブソン』は心の中で皮肉を言いたくなった。

「それは程度によりますな。ルーズベルト政権で商務長官を務めるハリー・デクスター・ホワイトはソ連の協力者です。彼はソ連の指示による『雪作戦』で、当初対日交渉で融和的だったコーデル・ハルを翻意させ、後世悪名高き『ハル・ノート』を作成してハルの名で日本側に突き付けた。その内容を確認してみてください」

足元に落ちていた紙資料を拾うと、テーブルの上に広げて見せる。

「ハル・ノートだと?」

「1941年11月26日にコーデル・ハルの名前で出された外交覚書のことです。日本はこれを最後通牒とみなし、真珠湾攻撃に踏み切りました。機密文書ですから、その内容が公開されるのは戦後のことですが」

疑いを隠せないフーヴァーはその資料を丹念に見ていく。

タイプライターで書かれたものをコピーしているせいか判読しづらいところもあるが、その内容は明白だった。

「日本はすべての海外権益を放棄せよというに等しい。およそ交渉をするという意図が読めない。これでは最後通牒と取られるのも致し方ないだろう。これが本物だとすれば、だがね」

「一方、我々日本の側もソ連のスパイが政権中枢に潜り込んでいました。朝日新聞記者の尾崎秀美など、政権の対外政策の決定過程に影響を与えうる立場でね」

「つまり、君が言いたいのはこういうことか。日本もアメリカもソ連のスパイ工作によって操られ、開戦に至ったということか。陰謀論そのものではないか」

「ソ連の工作が万能だと言いたいのではありません。日本政府も、そして合衆国政府も同様に隙があり、そこを付け込まれたと言いたいのです」

「同じことだ。私はソ連の工作については判断しない。なぜなら君の言うことが真実であると判断するに足る戦略情報に触れる立ち場にないからだ」

フーヴァーは自分自身を落ち着かせようとするかのように、深呼吸をしてからようやく口を開く。

「私はこの戦争は二人の狂人が引き起こしたと考えている。一人目はウッドロー・ウィルソン。民族自決といった甘い夢をばら撒き、今日の紛争の火種を作った。そして、現職の大統領だ。国民に戦地に兵士を送らないと約束しながらあからさまな挑発を仕掛けて世界大戦にアメリカを引きずり込んだ。そこにソ連の工作があったかどうかは些末なことだ」

フーヴァーの鋭い眼光に、ギブソンは射すくめられるような思いがした。

おそらくは、並みの神経の持ち主ならばそれだけで逃げ出すような圧迫感があった。

「それで、日本は君を何のために派遣したのだ」

「一刻も早くこの無意味な戦争を終わらせるためです、閣下。しかし、それは戦争の継続を望んでいるルーズベルト政権では無理です。来年の大統領選挙で史実通りルーズベルトが再選されれば、日米の講和交渉の機会は失われる。」

「それはその通りだろう。しかし、戦争中の現職大統領は選挙では強いぞ。およそ挑戦者が勝てる選挙ではない」

「それは承知しています。『我々』の歴史では大統領の任期は三度目までという慣習を破って大統領に立候補したルーズベルトが共和党候補のトーマス・デューイに圧勝し、対日戦争を継続する」

「ならば、それがアメリカの国益だろう」

「以前の歴史のままならば、ね。我々日本は2020年の技術を保有している。その軍事技術の威力については、あなたも硫黄島海戦の結果でご存じのはずだ」

「イオウジマフィルムなら私も見た。あれが真実だというのかね」

フーヴァーが『イオウジマフィルム』と通称されるフィルムを見たのは一ヶ月ほど前のことだ。

古い友人がホームパーティーの余興に、したたかに酔った古い友人がご自慢の映写機で見せてくれたのだ。

その友人が言うことには日本が飛ばした気球がぶら下げていた荷物の中に、フィルムケースが入っていたのだという。

ちなみにその友人はその過ぎた悪ふざけがたたり、今でも細君に口を聞いてもらえないらしいが。

幸いなのは先日施行されたばかりの悪名高き、スパイ摘発強化法こと通称『愛国者法』で通報する者がいなかった事だろう。愛国者法の中には「日本軍の『|気球爆弾《バルーン・ボム》』を勝手に触ることを禁止する」という条文が含まれていた。

もっとも、この愛国者法は自由を愛する合衆国市民の間ではすこぶる評判が悪い上に、広大なアメリカ大陸に散らばる『バルーン・ボム』の落下地点をすべて監視するなど、どだい無理な話であった。戦争中の窮屈さを紛らわす宝箱として気球を扱う市民も多いのが現実だった。

「あなたも西海岸に築かれつつあるカリフォルニア|要塞線《ライン》の話はご存じのはず。あんなものが築かれようとしている背景は容易に想像できるはずだ。

フーヴァーは新聞記事で、コンクリートに使う砂や、鉄材の高騰と、西海岸に要塞地帯が築かれつつあることを思い出していた。フランスのマジノ線を思わせるハリネズミのように火砲を装備した要塞が、カリフォルニア州をはじめとした海岸線に築かれつつあるという。

フランスではドイツ軍相手にまるで役に立たなかった要塞群を、アメリカが建設しつつあるというのは皮肉というほかない。硫黄島の敗北が公式発表はされていないにせよ、公然の秘密となりつつある今、国民の不安を鎮めるという意味合いも大きいのだろうとフーヴァーは思っていた。

「現在、合衆国政府は都市そのものを灰燼に帰す新型兵器を開発中です。『我々』の歴史ではこの戦争の終盤に日本の広島と長崎という都市に投下され、20万人を越える死者が出ました」

フーヴァーは言葉の、「言葉の意味は分かるが理解はできない」といった顔で絶句する。

「ソ連の対日参戦をもって、日米戦争は終わりました。しかし、ソ連も新型兵器を開発、量産。自由主義国と共産主義国家の対立はお互いの国家そのものを地上から消滅させる規模の新型兵器を突きつけあうことになります。

米ソが直接の戦争を避けた結果、世界各地では代理戦争が続きます。大戦終結後わずか3年後の1948年には朝鮮戦争、1955年にはベトナム戦争。アメリカ軍が兵力を派遣した戦争だけでも、多くの若者が共産主義との戦いで命を落とすことになります」

「それが君の知る未来ということか。しかし、『未来の日本』というプレイヤーが現れたせいで、そのシナリオもだいぶ変わるのではないか?」

「閣下、我々が危惧するのはそこです。将来米ソの間で新型兵器による戦争が勃発した場合、地球上から人類が消滅しかねない。これから展開する歴史は我々にとっても予測がつかない。だからこそ、大統領選挙では日本との講和を掲げる共和党の候補に勝っていただかなければ困る」

「無茶を言う。さっきも言ったが、戦争中の現職大統領に勝つというのはこの合衆国において至難の業だ。そのうえ、他国の干渉を受けての選挙など、法的にも道義的にも論外だ」

フーヴァーはそう言ったあと、膝の上で人差し指を上下させつつ苛立ちを隠せない表情になる。

「我々はあくまで情報を提供し、きっかけを作るだけです。そして、けして痕跡は残しません」

「勝てる方策はお前らでなんとかしろ、ということか。なんとも手前勝手だな」

「ええ、ですがこれは無用な戦争を終わらせる唯一の解です」

「わかっている。だからこそ忌々しい」

フーヴァーは目の前の男の持つ『未来の情報』を一度頭の中から消去し、合衆国の状況を考えた。対日戦争の状況が芳しくないことは明白で、ヨーロッパの戦争も予断を許さない。合衆国の国力は二正面作戦を可能とするが、戦う相手が少ないのに越したことはない。

なんとなれば、講和交渉で日本の対独参戦を条件として持ち掛けてもよい。ドイツとの戦いを日本に肩代わりさせれば、アメリカは無駄な消耗を避けられる。

そこまで考えて、それが妄想に近いと気づき思わずフーヴァーは笑いだしたくなった。もはや大統領でもなければ議員でもない自分に出来ることがあるとも思えない。

「それで、この私に具体的に何をさせようと言うのだ。世界恐慌に対する経済対策に失敗して失脚した無能な政治家というレッテルを貼られたこの私に」

「来年の大統領選挙に共和党候補が勝利を収めるように運動していただきたい。そのための情報は提供する」

「随分君たちに都合の良い話だな。私がそんなことをすると思うのか?」

「いや、あなたはこのルーズベルトの|戦争《ゲーム》を終わらせるために動く選択肢しかない。貴方は祖国の未来を知ってしまった。知った者には行動の義務が生じる」

机の上の二冊の本を回収すると、ギブソンは立ち上がった。

「賢明な行動を期待します、閣下。そのための協力は惜しみません」

「無駄な期待だな。他国の思惑に乗る私だと思うな。FBIに通報しないのは、面倒ごとを抱え込みたくないからに過ぎない」

ギブソンは何も言わず立ち上がると、鞄を小脇に抱えたまま一礼すると、部屋を出て行く。

フーヴァーはとうに冷め切ってしまったコーヒーカップに口をつけた。吐き出したくなるような苦い味に顔をしかめながら、シトロエンのエンジン音が遠ざかるのを聞いていた。

いつの間にか、窓から見える空には黒い雲が広がっていた。

最初ぽつりぽつりと振り出した雨は、次第にけたたましい雨音を響かせる驟雨となっていた。


「バンシーよりグレイハウンド。ディケンズとの接触には成功したか」

「予定通りに終了した。これより『支店』へ帰投する」

「『営業先』の感触はどうだった。こちらに協力的だったか」

「少なくとも、表面的には協力は拒否された。だが、少なくともこちらの提案書に興味は示している」

「上出来だ。差し当たってはな。どのみち、『売り上げ目標』の達成は非常に困難だ。結局は『顧客』が判断することだからな。」

「困難とわかっていても『本店』からの『ノルマ』は絶対ですからな。宮仕えの辛いところだ。」

「連絡は以上だ。こちらの情報では周囲に他社の人間はいない。しかし、くれぐれも『企業秘密』の漏洩には留意せよ」

「了解」


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