ここはボリビア、アンデス山脈東麓。生い茂る密林の中、草の根をかき分けて歩く二人の人影。場違いな白衣を纏った男が、案内役の女の後を必死に追いかけている。男の名前は笹川徹。都内の総合病院で内科医をしている30歳。大量の汗をかいてぜぇぜぇ息を切らしながら進む笹川に対し、悪路を涼しい顔で歩いている女の名は三沢沙織。親の仕事の都合で、ここから一番近い街に幼い頃から住んでいるため、この辺りは彼女にとって庭のようなものである。ふいに笹川が蔓に足を取られ転倒してしまう。
「うわっ！！」
「大丈夫ですか！？」
「くそっ、なんで僕がこんな目に…」
地面に突っ伏したまま、指先で土を握りしめるように掘った。

「はあ…はあ…やっと…着いた…」
目的地の村に到着し、仰向けに倒れこむ笹川。原住民族の幼い少女が、笹川の顔を覗き込む。
「ん？」
起き上がり居住まいを正すと、少女は顔中ヒゲだらけで目がどこにあるか分からない老人の陰に隠れた。
「族長のウオンラさんと、ひ孫のクパンタちゃんです」
三沢に紹介され、控えめにお辞儀をする笹川。
「どうも…」
三沢とウオンラが現地の言葉で話し始めた。どうやら込み入った内容のようだが、笹川は言葉が分からないので暇を持て余し、周囲を見渡してみる。住人は訝しむように遠巻きでこちらを見ていて、少し嫌な空気を感じてしまう。ふと、服の裾を引っ張られそちらを向くと、クパンタが屈託のない笑顔で少し離れたところにいる三沢とウオンラを指差した。
「笹川さん、こっちです」
三沢に呼ばれ、ウオンラに案内されて村の奥へ歩いていく。
道中も多くの村人が遠巻きにこちらを見ている。
「あまり歓迎されてないみたいなので、気をつけてくださいね…」
「ええ…」
村人に日本語が分かるわけはないのだが、三沢は小声で注意した。

ウオンラに案内された先の藁の家には、十数名の村人が横たわっていて、みんな苦しそうにうなされていた。
「なんの病気かも分かっていないのですが、感染することを恐れてここに隔離されているようです。症状は間欠熱・悪寒・頭痛など様々なのですが、全員の後頚部に腫れが見られます」
三沢の説明に合わせて、ウオンラが患者の一人に後ろ髪を掻き揚げさせ、腫脹している部分を笹川に見せる。
「そして全員体のどこかしらに噛まれた跡がありました。どうもこれにやられたようです」
三沢が荷物の中から小瓶を取り出し、笹川に渡す。中には生きたヒルが入っていた。
順に診察を始める笹川。全員の診察を終えるのに、そう時間はかからなかった。
「なにか分かりましたか？」
「おそらくアフリカ睡眠病とみて間違いないでしょう」
「アフリカ睡眠病…ここは南アメリカですよ？ありえるんですか？」
「通常はツェツェバエが媒介するトリパノソーマという原虫によって引き起こされる感染症です」
「でもツェツェバエはアフリカ大陸にしか生息しないはずでは…」
「ええ、しかしトリパノソーマはこいつを中間宿主とする場合もあるんです」
笹川はヒルの入った小瓶を見せる。
「そんな…みんな助かるんでしょうか！？」
「ほっとけば死に至る病気ですが、どんなに症状が進行していても、二週間も注射していれば治ります」
「よかった…」
三沢はほっと胸をなでおろした。
「なるべく早く終わらせて、とっととこんなとこ出ましょう」
笹川は鞄の中から注射器を取り出し、一人目の患者に刺そうとする。
突然、おびえた患者が悲鳴を上げ、笹川の腕から注射器を払った。
「な、なんだ？」
「あ、きっと注射を知らないから…」
すぐさま村人たちが集まってきて、怒りの形相で何かを叫びながら二人に詰めよってくる。
おろおろしたクパンタがウオンラに助けを求めるが、ウオンラは鼻提灯を出して寝ている。
「ひとまず出直しましょう！！」
三沢は呆気に取られている笹川の手を引っ張って、その場から急いで逃げた。

すっかり夜は更け、村の少し離れた所に張ったテントの中で過ごす二人。
「はあ…帰りたい…」
「とんだ災難でしたね」
「どうします？これから」
「明日もう一度ウオンラさんと話し合ってみます」
「どうにかなるんですかね…」
「大丈夫ですよ！任せてください！」
努めて明るく振る舞う三沢に、笹川はまったく気を遣うことなくため息をつく。
「あの、そんなに嫌そうなのに、どうしてこんな辺境の地まで来てくれたんですか？」
「僕には患者の痛みが分からないから…らしいです」
笹川は三沢の方を見ず、下を向いたまま答えた。
「え？」
「父が言うんです。患者の痛みが分からないうちは本当の意味で医者じゃないって。だから分かるようになるまで帰ってくるなって無理やりここに…」
「お父様もお医者様なんですね」
「ええ。お互い辛いですね、こんなところまで寄越されて」
「いえ、私は好きでやってる仕事ですから」
「ふーん、物好きなんですね」
三沢は苦笑いしたが、笹川はそんなことは気にも留めず手を擦り合わせて、息を吐いて手を温めた。
「この地って夜は冷えるんですね」
「普段はそうでもないんですが、今日は珍しく。もう寝袋を用意しますか？」
「そうですね…ん？」
テントの入り口が靡いている。
三沢が開けると、木製の器を持ったクパンタが立っていた。現地の言葉で会話し始めた三沢とクパンタを、笹川は動かず見ているだけ。
「たしか、族長の孫…いや、ひ孫だっけ？？」
クパンタは笹川の視線に気づき、微笑みを投げかけ帰って行った。
「今日は寒いからって、内緒で持ってきてくれたみたいです。有難くいただきましょう」
三沢はスープが入った器を笹川に渡した。
「これは？」
「キヌアのスープです」
「キヌア？」
「アンデス地域発祥の雑穀ですね」
「だいじょうぶなんですか？」
笹川は訝しむようにスープを眺めた。
「栄養価も高くて美味しいんですよ」
警戒している笹川に対し、三沢は先に飲んでみせた。
笹川もおそるおそる口にしてみた。
「…んまい」

翌日、二人はウオンラと共に村の中を歩いていた。二人を見る村人たちの目は厳しい。
「今日はあの子いないんですね」
「クパンタちゃんですか？」
「ええ、昨晩の礼を言いたかったんですが…え？」
患者が隔離されている家に入ると、そこには発熱に苦しんでいるクパンタの姿があった。
「そんな…」
クパンタが寝返りをうつと、後頚部に腫脹が見えた。三沢はショックのあまり崩れ落ちてしまう。
「もしかして、昨日私たちのテントに来た時に噛まれて…」
「いえ、アフリカ睡眠病には一週間から三週間の潜伏期間があるので、その可能性はないかと。とにかく治療しましょう」
笹川が鞄から注射器を取り出した瞬間、村人たちがクパンタの前に立ちはだかり、笹川に向かって石を投げ始めた。
「えっ、やだっ、やめてください！」
三沢は困惑して叫ぶが、村人たちは気にも留めない。笹川は舌打ちをして立ち上がった。
「そんなに仲間を見殺しにしたいなら勝手にしろよ」
笹川は踵を返し出ていこうとした。しかし、村人の罵声の中に混じっても、クパンタの小さなうめき声が気になって仕方がなかった。
「くそっ！」
再び村人たちに向き直り、土下座をした。
「お願いします！その子の治療をさせてください！！お願いします！！！！」
「やめてください笹川さん！そんなことしても通じませんよ！！」
土下座した状態で石をぶつけられながら、笹川は考えた。
「どうすればいいんだ…どうすれば…」
石を投げている村人たちの間から、苦しんでいるクパンタの顔が見えた。その瞬間、笹川の脳裏に昨晩の出来事が思い起こされた。自分が警戒していたスープを、三沢が先に飲んでみせたことを。
「患者の痛み、か。わかったよ父さん」
笹川はとっさに起き上がり、鞄の中からヒルの入った小瓶を取り出した。
「笹川さん、何を…」
心配そうに見つめる三沢を尻目に、笹川は小瓶をの蓋を開けてヒルを取り出し、自分の腕を噛ませた。
「きゃああああっっっ！！！！」
三沢は悲鳴を上げ、村人たちは笹川の奇行に驚き、石を投げる手を止めた。
「大丈夫、こうすれば大丈夫だから…」
笹川は村人たちに見せつけるように、自分の腕に注射を打ってみせた。
静寂の中、クパンタが声を振り絞った。
「え？なんて？」
「治療…お願いします、と…」
泣きそうになった三沢の通訳は震えた声だった。村人たちはクパンタの前を開け、笹川を通す。クパンタに注射を打つ笹川を周囲は黙って見ている。打ち終わって、クパンタは笑って何かを言った。それが礼だということは、三沢の通訳がなくても笹川にはわかった。
「礼を言いたいのはこちらの方なんだけどな…スープうまかったよ」
笹川はクパンタの頭をそっと撫でた。他の患者たちからも声が上がった。
「な、なんだ？」
「みんな、こっちも頼むって言ってます」
三沢につられて、笹川は一瞬だけ笑顔をみせてしまい、恥ずかしそうに咳払いでごまかした。
「しょうがないですね。早く終わらせて帰りましょう」