新六甲島の地下深くに、マリオン・ユーレイ一行は来ていた。
同じ地下でも、ヒョウ型が逃げ込んだ旧理科学研究所の地下施設などとは深度が全く違う。なにしろその空間があるのは、新六甲島の基盤自体よりも更に下なのだ。つまり、この人工島がまだ造成されておらず、ここが海だった頃の海底――その地下にあたる位置である。
毒の作用により自我が低下したユーレイに案内させることでそこにたどり着いた侵入者は、厚い防弾ガラスの向こうに広がる光景に圧倒され、思わず息を呑んだ。
そこには、人間ほどの大きさがある漆黒の直方体群が数知れず林立していた。各直方体の側面には『普賢』の文字が記され、それらの文字は薄闇の中で緑色の光を放っている。
そう、この連結された計算機群こそが、旧理科学研究所が作り上げたスーパーコンピューター〝普賢〟なのだ。
だが真に驚くべきは、林立する数多の直方体のうちただ一つを除く全てが、本体から目を逸らすためのダミーであることを第一義としてそこに存在しているという点にある。
それらのダミーとて、ただの空っぽの直方体というわけではない。それらは全て旧理科学研究所が持てる技術の粋を集めて作り上げた現生人類最高峰のコンピューターであり、本体の演算を補助する役割を担っている。だが本体が持つ演算能力と比べれば、そうした補助はせいぜいが枯れ木も山の賑わいというレベルに過ぎない。
普賢の本体たる〝アフリカのモノリス〟を生み出した者達と現生人類の間には、未だにそれだけの技術力格差があるのだ。故に、現生人類の技術力の及ぶ範囲では最高峰と呼べる計算機群すらも、その主目的は万が一ここに侵入者があった場合において本体が物理的に奪取される可能性を少しでも下げることとなるのである。
そして今、まさにその侵入者がここにいる。だがこの侵入者は、〝アフリカのモノリス〟を物理的に奪うつもりなどさらさら無かった。そんなことをしたところで、管理権限の無い自分にはそれを使うことなどできないからだ。
逆に言うと、管理権限さえ手に入れれば、林立する計算機群の中から〝アフリカのモノリス〟が格納されたものを苦労して見つけ出す必要など無いし、もちろん物理的にそれを奪う必要も無い。そのために、ユーレイを伴ってここへ来たのだ。
「それじゃあユーレイ、管理権限を私に移すよう普賢に命令して」
「しかし……」
しかし? こちらの命令に抵抗した? 今のこいつに意識と呼べるものはほとんど無いはずなのに。
侵入者は、困惑する。
まさかもう、毒の効果が薄れてきたのだろうか。想定では、まだしばらく時間の余裕があるはずなのだが。
カエル型にもう一度咬ませた方が良いだろうか。しかし毒が強く効きすぎた場合、ユーレイが完全に意識を喪失したり、最悪の場合死に至ってしまう可能性すらある。そうなってしまっては、普賢の管理権限を移譲させることができなくなる。これまでの計画が水の泡だ。それだけのリスクを冒せるか。
侵入者は、ユーレイの肩に乗せたカエル型の方に目を向けた。毒の持ち主であるカエル型であれば、ユーレイの状態についてなにがしかの予想がつくのではないかと期待したのだ。しかしカエル型は、不思議そうな顔で首をかしげるだけだった。
ホモ・フトゥロスの他のタイプと比較して著しく体が小さいカエル型はその分だけ脳も小さく、複雑な思考は不得手なのだ。
ここは、自分が判断するしかない。
侵入者は、そう腹をくくる。
もしかすると、毒の効果が切れかかっているわけではなく、普賢の管理権限を手渡すことについて無意識下での抵抗が強いのかもしれない。カエル型の毒を注入された者は、催眠術をかけられたのと似たような状態になる。催眠術でも、かけられた当人が無意識下で強い抵抗感を抱いている行為を実行させることは難しい。
侵入者は、ユーレイへの命じ方を変えることにした。
「あなたは何も考えなくていい。意味を考えず、ただ私がこれから言うのと同じように声を出して。『普賢に命じる。私、マリオン・ユーレイが持つ普賢の管理権限』」
「普賢に命じる。私、マリオン・ユーレイが普賢の管理権限」
ユーレイは、言われた通りに繰り返す。
「『その全てを、この次に発声する者に移譲する』」
「その全てを、この次に発声する者に移譲する」
直方体群に記された、緑色に輝く『普賢』の文字が点滅を始めた。ユーレイの声紋を認識したのだ。
侵入者の口元に笑みが浮かぶ。
勝った。歴史をねじ曲げるほどの力を奴らに与えてきた、前回の歴史の遺産〝アフリカのモノリス〟――それさえこちらの手に入れば、奴らはもう、滅びを待つだけの身となる。そして、私達は未来を手に入れるのだ。
束の間、勝利感に酔いしれた侵入者だったが、すぐに気を引き締め直した。
いけない、いけない。気を抜くのは、実際に普賢の管理権限を手に入れてからだ。ユーレイに出させた命令は、次に発声した者への管理権限の移譲。普賢は……〝アフリカのモノリス〟は、新たな主の声を待っている。
「はじめまして、普賢」
侵入者は、普賢に向けて呼びかける。
「これからは、私があなたのマスターだよ。この私、ミキ・ベルンシュタインが!」
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