「がはっ、ごほっ」
岸へと引き上げられたミキは掌をぬかるんだ地面について身を起こすと、やっとの思いで水を吐き出した。
傍には、ミキを海から引き上げた兄の姿がある。その兄の体がふいにぐらりと傾いたかと思うと、そのまま横向きに倒れた。
「お兄ちゃん、しっかりして!」
狼狽えるミキに、兄は場違いに思えるほど落ち着いた様子で声をかけた。
「ミキ、お別れだ。ここからは一人でいきなさい」
一人で行きなさいなのか。それとも、一人で生きなさいなのか。いずれにせよ、ミキにとって受け入れられる言葉ではなかった。
「なんで!? そんな……そんなの、嫌だよ……。いっしょに逃げようよ!」
兄は静かに首を左右に振った。
「今の私では、ミキを守れないよ。それどころか、逃げる力すらもう残っていない。それに、私の体にはタグが埋め込まれている。ミキ一人なら逃げ切れるかもしれないが、私がいっしょだとすぐに見つかってしまう」
「私……私、今までずっと一人で、十年も頑張ってきたんだよ……? それで、今日やっとみんなとまた会えたのに、それなのにまた一人になれって言うの? そんなの、あんまりだよ……」
ミキは必死で訴えかける。
だが頭では、兄の言っていることが正しいと分かっていた。
体にタグが埋め込まれていないミキは敵にとって見つけにくい存在だし、たとえ見つけられたとしてもフトゥロス掃討作戦に参加している人間の大半はミキの顔を知らない。何も知らない無関係なネアンデルターレンシスの子供のふりをして誤魔化すことだってできるだろう。
しかしタグが埋め込まれたヒョウ型である兄と行動をともにしていては、そうはいかない。
「一人からでも、やり直せるさ。私達は、そういう生き物として生まれたのだから」
静かに涙を零すミキの頭を、兄は優しく撫でた。
「大丈夫だよ、ミキ。きっと、大丈夫」
「大丈夫……。私はきっと、大丈夫……」
ミキは自分自身に言い聞かせるように小さく呟きながら、ふらふらと歩いていた。
水を吸って肌に貼り付く衣服が重く、気持ち悪い。一歩進むごとに、髪や服からぽたぽたと水が滴り落ちた。夢中で泳いでいる時にどこかで切ったのか、水滴にはうっすらと血も混ざっていたが、その程度の怪我など今はどうでも良かった。
今来た方角から、遠い銃声が聞こえてきた。
「お兄ちゃん……」
これで、本当に一人になってしまった。
ミキは涙を拭う。
兄の死を無駄にしないためにも、私は逃げ切らなくては駄目だ。
血混じりの水を滴らせながら歩く。
一瞬、血の跡をたどってこられる可能性を考えたが、海に落ちてずぶ濡れになっているのが幸いして、海水で薄まった血は地面に染み込むとほとんど見えない。これなら心配する必要は無いだろう。
本当なら走り出したいところだったが、海面で強く体を打ち、その後岸まで泳いできたこともあって、もうそんな体力は残っていない。
それでも、とにかく足を進ませる。
大丈夫。きっと、大丈夫。
私は逃げ切って、生き延びて、そして未来を作るのだ。私達、ホモ・フトゥロスの未来を。
背後から近づいてくる足音にハッとする。
慌てて振り返った時にはもう、そこに若いネアンデルターレンシスの女が立っていた。
「お前は……!」
驚きの声をあげたその女の顔に見覚えがあることに気づき、ミキは絶望のあまりぺたんとその場に座り込んでしまった。
私は、この女を知っている。以前に地下空間で会ったことがあり、しかも私の正体を知っているあのサピエンスの仲間でもある。
それはつまり、この女の方も私のことを知っているということだ。
その証拠に、女は手にしていた拳銃をすぐにミキに向かって構えた。
「どうして……」
ミキは誰に聞かせるでもなく、小さく呟いた。
フトゥロスの捜索と掃討を行っている人間の大半は、ミキの顔を知らない。それに彼ら実戦部隊の多くはサピエンスだから、フトゥロスがヒトであることも、NInGen社が裏で行っていたことも知らない。
ただのネアンデルターレンシスの子供を装ったり、逆に全ての真実をぶちまけてNInGen社への敵意を煽りこちらの味方につけたりと、いくらでも切り抜ける方策はあった。
自分を見つけたのが、ミキの顔を知っているネアンデルターレンシスでなければ。
それなのにどうして、よりにもよってこの女に見つかってしまったのだ。あまりにも不運だ。
不運。
その言葉を意識した時、ミキはハッとした。
今日の私達は、あまりにも不運すぎはしなかったか。
例えば、〝小さなお友達〟がこの女に殺されてしまった時だ。
この女が普賢のところにやって来たのが運悪く私が地上に出ているタイミングでなければ。あるいはちょうどあのタイミングで近くで戦闘が起こり、その銃声に私が気を取られなければ。
そうした不運が無ければ、私は小さな友達を失わずに済み、ユーレイも人質として確保し続けていられたかもしれない。そうしていれば、こちらの邪魔をしてきたあのサピエンスの男がこの世界の真実を知ることもなかったわけで、状況も大きく違っていただろう。
そしてなにより、ライナーを破壊したあの怪物だ。
サイトBだけでなく全ての古生物飼育区画を開放したのは相手側の混乱を招き、更に戦力分散を図るためだった。危険な古生物が脱走し暴れ出せば、島の秩序を守ろうとしている側としてはそちらにも対処せざるを得ない。今から考えても、そこに間違いがあるとは思えなかった。
島の治安や秩序など気にせずただ脱出すれば良い自分達の側が、不運にも出くわした古生物によって妨害を受けることなど予想しようがない。
そんな不運は、極めて低い確率でしか起こり得ない。
起こり得ないわけではないが起こる確率は極めて低い不運の結果として、自分達は今まさに滅びようとしている。
これはまさか。
私達が挑み、戦ってきた真の相手は――。
ミキは唇を噛んだ。
だとしたら、尚更負けるわけにはいかない。こんなところで、終わってやるわけにはいかない。絶望なんてしてやらない。
私達フトゥロスは、一人からでも仲間を産み、増やすことができる。
あの小さな友達ほどではないにしろ小柄な私の体格では、クマ型やセンザンコウ型のような大型タイプの子供を産むのは難しいかもしれない。それでも、私が少し大型のタイプを産み、その子供が更にもう少し大型のタイプを産むといった風に段階を踏んでいけば、いつかは今日と同等の……いや、それ以上の戦力を揃えられるはずだ。
そしてその時こそ仲間を殺した憎き旧人どもを駆逐し、私達ホモ・フトゥロスがホモ属唯一の種となるのだ。
まだ未来は完全に閉ざされてはいない。私が生きている限りは、まだ。
私は、死んでいったみんなに未来を託された。私一人でも生き延びられたら、私達の種族は、きっと未来を掴める。
だから、けっして諦めるな。
だが、いったいどうやってこの場を切り抜ける? 私には鋭い爪も牙も無い。武器として使えるものは何も無い。ネアンデルターレンシスに擬態し、その社会に紛れ込む――それに特化したタイプだから、正体がバレてしまった今となっては、もう何の取り柄も無いのだ。戦うための力なんて、何も無い。
相手の女は、既にこちらへ銃口を向けていた。もういつでもミキを殺すことができる。
……だが、その手は震えていた。
そのことに、ミキは気づいた。
そうだ。私にだって武器は……戦うための力は、ちゃんとあるのだ。
鋭い牙や爪ばかりが武器じゃない。相手の同情を誘い、攻撃を躊躇わせるこの姿と声――彼らの社会に紛れ込むために与えられたそれこそが、生き残るための私の武器だ!
ミキは女の顔を、目を逸らさず真正面から見据え、問いかけた。
「私を殺すの? 私の本当のお父さんやお母さんや、兄弟達を殺したみたいに? 自分達の都合で私達を作ったくせに、邪魔になったらモノみたいに処分するんだ?」
相手がたじろぐのが分かった。
やはり。この女には、迷いがある。同族の子供にしか見えない私を撃つ覚悟ができていない。
ミキは、そんな相手を嫌悪した。
この女は、私の小さな友達を殺した。それだけじゃない。こいつらがヒョウ型やセンザンコウ型と呼んでいる私の仲間達だって、これまでに何人も殺してきたはずだ。
だが、彼らと私は同じ生物種なのだ。それにも関わらず、見た目が違うだけで、こんなにも態度を変える。なんと醜悪な精神の持ち主なのか。私の仲間達は、互いに全く外見や能力が違おうとも仲間は仲間として扱い、差などつけなかった。
だが今は、相手のその醜悪さこそがつけいる隙であり、頼みの綱だ。
「私は……ううん、私だけじゃない、私以外の皆も、ただ生き延びたかっただけなのに。 未来が欲しかっただけなのに! それなのに何で、こんなっ……ひどい。ひどいよ……私達の何が悪いって言うの!?」
それは、相手を揺さぶるための演技だった。
しかし同時に、その言葉はミキの本心と違わぬものでもあり、それ故にその演技は真に迫っていた。
銃口はまだこちらに向けられている。しかしそれを持つ手の震えは、さっきよりも酷くなっていた。
もう後一押しだ。相手は、感情ではこちらを殺したくないと思う一方で、理性ではいずれ脅威になるから殺さなくてはならないと考えている。その二つの思考の狭間で揺れているのだ。だから、そのどちらかに決めさせてくれる言葉を無意識のうちに求めているはずだ。
「私達の計画はもう失敗した……。私一人だけ逃げても、この体格じゃ、あなた達がクマ型とかセンザンコウ型って呼んでる強いタイプは産めないし、もう戦いようがない。そう分かってるのに、お兄ちゃん達は私を逃がしてくれた。それなのに、こんなところで死ぬなんて嫌だよ……。これからまだあなた達と争おうとか、もうそんなつもりなんて無い。死んでいった仲間達のために祈りながら静かに生きていきたい、本当にそれだけ。だから、ここで私に会わなかったことにして。見逃して。お願い……」
相手は困惑した表情で、座り込んだまま泣きじゃくるミキを見下ろしている。こちらを見るその目が、決まり悪げに逸らされた。
「本当に……もう争うつもりは無いんだな?」
「信じてって言っても無理かもしれない。でも、信じて欲しい。それに、今さら戦おうとしたって、どうせ私一人じゃもう無理なんだよ」
大嘘だったが、騙し通す自信はあった。この女よりも冷徹な観察眼を持つ養父を十年間騙し続けてきた演技力がミキには有り、そして相手はこちらを撃たずに済む理由を欲している。これで騙せないはずがなかった。
そしてその読み通り、こちらに銃口を向けていた女の腕がだらりと下がった。
勝った――ミキは、そう確信した。
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