期待していた通りと言うべきか、地下にまでは火の手がまわらなかったらしく、内壁に焦げた跡が無い。そればかりか、放棄されてもうずいぶんと経つはずなのに、非常灯がぼんやりとした光を放っていた。そのおかげで、薄暗いとはいえ周囲がまったく見えないというわけでもない。
電気がどこから来ているのかは謎だが、恐らくは太陽光か地熱か風力か、そのあたりを利用した非常用自家発電装置が今も生きており、非常灯の弱い明かりくらいならそれでまかなえるのだろう。
旧理科学研究所であれば、メンテナンス無しで数十年稼働し続けられる自家発電装置を作るくらいの技術力はあってもおかしくない。なにせ、今ではNInGen社のものになっているあのスーパーコンピューター〝普賢〟を当時の理科学研究所は有していたのだから。
もっとも、今も昔も〝普賢〟の真の所有者は〝輪読会〟なのだが。それが奴らの、この世界における絶対的な権力の源になっている。
地下の通路は、明らかに上にある建物の敷地外にまで伸びていた。単にこの建物の地下施設を巡るためだけの通路ではなく、旧理科学研究所の他の建物とを繋ぐ地下連絡路になっているのかもしれない。
その推測を裏付けるように、敷地外へと伸びる通路には動く歩道が設置されている。もっとも、さすがに今は稼働していない。非常灯とは異なり、非常用自家発電装置による電力供給の対象からは外れているのだろう。
しかしもしこの地下通路が島のあちこちに点在する施設を繋いでいるのだとすると、逃げたグスタフソニアを探し出すのはずいぶんと面倒なことになる。
さて、どうしたものか。この建物の地下の部屋を見て回るか、それとも通路の奥へと進むか。
ミキが考え込んでいると、通路の奥からカツッ、カツッ、コツーン、コツーンと硬質で、そしてどことなくリズミカルな音が響いてきた。
だんだんと、こちらに近づいてくるようだ。
足音だろうか。だとすれば、誰の? あるいは、何の?
少なくとも、グスタフソニアやケラトガウルスのような小動物であれば、このような足音は立たない。
ならば、人間か。
嫌な予感がした。
自分達のことを棚に上げて言うならば、こんな廃墟の地下にわざわざ入り込んでくるような人間が真っ当だとは思えない。
真っ当な人間でないなら、何なのか。
新六甲島の治安は、基本的に良い。生活に困っている人間がいないというのが、その一番の要因だろう。なにしろNInGen社は、ヒトウドンコ病エピデミックにより孤児となった島民達に仕事を与え、島を復興させるという建前でここの管理を任されている。もちろん、それはあくまでも建前に過ぎないのだが、しかし島民達が困窮するようなことがあればその建前が成り立たなくなる。だからNInGen社は、島民であれば何びとであっても健康で文化的な最低限度の生活が送れるよう取り計らっているのだ。
とはいえ、犯罪が必ずしも生活の困窮を原因として起こるものではない以上、新六甲島にも犯罪者は存在する。ただの都市伝説と見る者も多いが、〝猛虎班〟と呼ばれる地下組織が存在し、打倒NInGen社を目論んでいるという噂さえしばしば流れるのだ。
地下組織だからといって物理的に地下に潜んでいると考えるのは安直かもしれないが、もしそういった者達と出くわしてしまったりしたら、厄介なことになる。
ミキは少年の方を振り返り、ジェスチャーで静かにするよう伝えると、彼の手を引いて手近にあった部屋へと隠れた。
ドアの隙間から、様子を覗う。
カツッ、カツッ、コツーン、コツーンという音は、徐々に近づいてくる。やがて、非常灯の薄明かりでも、その音の主のシルエットが捉えられるようになった。
少なくとも、それが犯罪者でないことはすぐに分かった。そのシルエットは、明らかに人間のものではなかったからだ。
しかしではいったい何なのかと問われると、ミキにもその正体は分からない。
背は人間よりも高く、天井につかんばかりである。四つ足で歩いているようだが、前足と比べて後ろ足が短い奇妙な体型だった。少なくとも肉食恐竜ではなさそうだが、四足歩行する動物といって真っ先に思い浮かぶマンモスやスミロドンなどにも見えない。
何の動物か分からないということは、肉食か草食かも分からないということである。草食だからといっておとなしいとは限らないが、仮に相手が襲いかかってきたとして、こちらを捕食するつもりでそうしているのか、それとも単に自分の巣から追い出したいだけなのかによって対処法も違ってくる。
ミキは、相手の正体を見極めようと、暗がりに目を凝らし続けた。
距離が近くなった時、その生物の奇妙さはよりいっそう明らかになった。正面からのシルエットを遠目で捉えていた分には胴体と一体化していたため分かりづらかったのだが、頭が異様に大きいのだ。その巨大な頭部が天井にぶつからないよう身をかがめながら、こっちに向かって歩いて来る。
その奇妙な生物の姿が、突然、視界から消えた。ミキの目の前で音をたてて閉まったドアが、彼女とその生物とを隔ててしまったのだ。
反射的に振り返る。そこにいる少年の怯えた顔を目にして、彼が恐怖に耐えきれずドアを閉めてしまったのだと理解した。
この馬鹿!
ミキは、内心で少年を罵る。少年も、できるだけ音はたてないよう気をつけたつもりだったのだろうが、静かな地下空間ではドアが閉じられた際の微かな音ですら大きく響いた。
そして、こんな人間にすら蹴破れそうなドアなど、閉じたところで大型動物に対しては有効な防壁とはなりえない。たとえドアは開けたままにしておいてでも、音をたてずこちらの存在を気づかれないようにする方が正解だったはずだ。
ミキは、どこか隠れられる場所はないかと部屋を見回した。
そして、見つけた。隣の部屋へと通じるドアが、さっき通ってきたドアの反対側に開いているのを。
どこに通じているのかは分からないが、ひとまずそこから逃げようと考えたその刹那、ゴッ、と音をたてて近くにある側のドアが外から叩かれた。
「うわああああああ!」
少年が悲鳴をあげ、反対側のドアへ向けて駆け出した。
その叫び声を聞いて、室内に何かいることを確信したのだろう。先刻以上の音をたてて更なる衝撃がドアの向こうから加えられ、そして……ドアが吹き飛んだ。
ドアの無くなった出入り口越しに見た時、ミキは、その怪物が大きすぎて室内に入ってはこられないのではないかと期待した。
その予想は半分当たり、半分外れた。
怪物は体ごと部屋に入ってくることこそなかったが、ミキくらいなら丸呑みにできそうな巨大な頭部と、同じく異様に長い首だけを、開放された出入り口から突っ込んできたのだ。
ドアが吹き飛んだ際にとっさに床に伏せたミキの姿は、光源が非常灯しかない視界の悪さもあって、怪物の目にはまだ留まっていないようだった。
だが、気づかれたらもう、それでお終いだ。
そのくらい近くに、怪物はいた。
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