アルベルト・ベルンシュタインは娘の寝顔を確認すると、音を立てないよう気をつけながら子供部屋のドアを閉めた。
男手一つで十年間育ててきた娘だが、血は繋がっていない。娘の本当の両親は、二人とも殺されている。脱走した特定危険古生物によって。
タグの情報を頼りにそいつが侵入した民家を突き止め、そして突入した時、アルベルトが目にしたのは地獄絵図であった。部屋の中心に転がっていたのは、つい先ほど殺されたばかりと見えるまだ若い夫婦の死体。そしてその傍では、二人の血を浴びたおぞましい生物が、今まさに赤ん坊に手をかけんとしているところだった。
アルベルトは躊躇いなくその生物を射殺し、すんでのところで赤ん坊の命は救われた。
本来であれば、アルベルトの役割はそれで終わりのはずだった。しかし両親を失った赤ん坊の姿がどうしても脳裏から離れず、彼女を引き取ることにしたのだ。
侵入した生物によって荒らされた部屋からは赤ん坊の名前を示すものが見つからなかったため、本当の両親に悪いとは思いつつも、アルベルト自身が未来という名を与えた。
この世界に新たに生まれた自分達の娘にちゃんと未来があるようにと、そう願って名づけたのだ。
そうだ。自分達は皆、未来を必要としている。だがそれは、断じてハンナ・カウフマンの計画――輪読会が言うところの〝プランA〟――によって得られるようなものではない。
あの女は我々の未来を守るなどと嘯いているが、奴の計画こそが我々から未来を奪うのだ。輪読会の主流派は、なぜそれが分からないのか。
十年前、特定危険古生物脱走事件の責任をとらせるかたちで輪読会があの女を社長の座から降ろし、代わってマリオン・ユーレイがその地位につけられた時には、この流れが変わるのではないかと期待した。
しかし、その期待は裏切られた。狡猾なあの女は新社長を丸め込んで傀儡とすることに成功し、奴の計画はこれまでと変わることなく進められている。
このままでは駄目だ。
奴が復活させたS級の特定危険古生物、あれは危険すぎる。このままでは、あれによって我々自身が絶滅した古生物と成り果てるだろう。十年前の惨劇、あれの引き金を引いたのだって、元はと言えばあの古生物ではないか。
今ならまだ間に合う。取り返しのつかない段階に達する前に、プランAを潰さなくてはならない。
あの男はそのための駒として、時間をかけて誘導してきた。部下達の優秀さが想定以上だったため、もう少し泳がせておくという当初の予定は狂ってしまったが、これを計画の仕上げにかかる良い機会と捉えるのも良いだろう。
奴にあの生物の情報を流し、その上でわざと脱走させる。そうして、奴ら猛虎班を動かすのだ。
同胞もいくらかは死ぬことになるだろう。そのことについて、心が痛まないわけではない。
だが、このままハンナ・カウフマンの好きなようにやらせていた場合にどれほど大変なことになるかを考えれば、多少の犠牲はやむを得ない。
いや、むしろ必要とさえ言える。罪も無い夫婦が命を落としてもなお、輪読会はプランAを凍結しなかった。一人や二人の犠牲では、輪読会主流派の目を覚まさせるには足りないのだ。
しかし同胞のうちから少なからぬ数の死人が出れば、さすがの輪読会主流派も、今NInGen社が行っていることの危険性を正しく認識するだろう。
これからこの新六甲島で起こることの被害者達は、現生人類を絶滅から救うための貴い犠牲なのだ。
アルベルトは、情報端末を手に取った。
この情報端末は通常のものとは違う。第ゼロ班用の特別仕様であり、一部の人間にしか許されていない極秘情報へのアクセスも可能となっている。それ故に支給される数は厳密に管理されており、本来であれば第ゼロ班班長のアルベルトとて余分に手に入れられるものではない。だが輪読会上層部にも、ハンナ・カウフマンとプランAを危険視する者はいる。その一人の協力により、端末を横流ししてもらうことができたのだ。
例の男のもとにそれを持って行こうとしたところで、アルベルトはふと気がついた。
これを使えば、奴はS級の方についても真実を知ることができる。そちらの情報へのアクセス権限は、事前に剥奪しておいた方が良いだろうか。
少し考えた後、結局、そうはしないことに決めた。
知られたら知られたで、べつに構わない。どのみち、この島の全ては水泡に帰するのだ。
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