「ちこくちこくー……と、何だこの渋滞」
いつも通り遅刻して走る俺の目の前には、いつもなら見られない延々と続く車の列があった。
住民の多くが島内の移動に新六甲ライナーと呼ばれる鉄道を使うこの島では、車の交通量自体が少ない。したがって、こんな風に渋滞が起こるのは非常に稀だった。
「事故でもあったのかな。あ、そうだ。今日の遅刻はこれのせいにしよう」
俺は自動車通勤というわけではないので、車の渋滞が起こったところでそれが遅刻の原因になったりはしないのだが、そのあたりはまあ、なんとでも誤魔化せるだろう。
いや、誤魔化す必要自体無いのかもしれない。最近のミナ班長は、心ここにあらずなのだ。原因は明白で、イエナオさんのことが気がかりなのである。
なんでも、この前イエナオさんを捕まえていった連中は通常なら表に出てこない特殊治安部隊で、形式上はNInGen社の一部ということになっているものの、指揮系統は完全に独立しているのだという。ユーレイ社長ですら直接指令は出せないのだという話だが、そこまでいくともはやNInGen社の一部と言えるのかどうかすら怪しい。
そうした事情ゆえにか、イエナオさんとの面会がかなわないのみならず、猛虎班の幹部だという疑惑がどの程度確実なものなのか、もし本当にそうなら量刑がどうなるのか、そして今どうしているのかといった情報すら渡してもらえないとのことだった。
俺も力になりたいところだが、班長と違って上層部とのパイプが何一つとして無いのでどうしようもない。
それにしても、遅刻しても班長に怒られない生活というのがこんなにも張り合いの無いものだとは思わなかった。この分では、俺は虚しくなって定刻通り出勤するようになってしまうかもしれない。なんということだろう。俺が定刻通り出勤だなんて、これはアイデンティティーの崩壊と言っても過言ではない。
俺の思考は、そこで唐突に中断された。すぐ目の前の車のボンネットの上に、何かが飛び乗ったのだ。
数々の危険古生物を相手にしてきた勘で、とっさに飛び退く。
しかしその生物は俺の方をちらりと見ただけで、そこからまたジャンプして遠ざかって行った。その身のこなしは、俺が今まで見てきた生物の中でも、かなり素早い部類だ。
慌てて、その後ろ姿を情報端末付属のカメラで撮影する。
なんだ今の奴は。
チーターのようなしなやかでほっそりとしたフォルムの四足獣だが、チーターと違い尻尾は無く、その全身は金色の体毛で覆われていた。大きさは人間と同程度。視覚優位の動物らしく、目は大きいが鼻先はあまり突き出しておらず、耳もそれほど大きくない。
俺は困惑と恐怖を感じた。
RRE法開発以前から新六甲島にいる野生動物では断じてない。だがNInGen社が復活させた古生物のリストにも、あんなものは無かったはずだ。
もっとも、それだけのことであれば困惑はすれども恐怖までは感じない。
一瞬だけだったが、俺は見たのだ。奴の顔は目が真正面を向いており、そして開いた口には大きく鋭い牙が並んでいた。捕食者の特徴だ。さっき俺が襲われなかったのは、きっと単に運が良かったにすぎない。出勤途中で武器も無い今だと、為す術無く喰われていてもおかしくはなかった。
なんだか分からないが、何かまずい事態が起こっている。
「メガネウラ、ミナ班長と通話したい。繋いでくれ」
班長が出るのを待つのももどかしく、俺の足は走り出していた。
「極めてまずい事態になった」
ミナ班長の顔は青ざめ、額には脂汗が浮かんでいた。
班長のこの表情から察するに、どうやら事態は俺の予想以上に深刻らしい。
これまでにも、街中で危険古生物が暴れまわったことが無かったわけではない。
街中での戦闘は厄介だ。迂闊に銃火器を使うと逃げ遅れた一般市民を傷つけてしまいかねないし、全員の避難が完了した場所であっても、器物を損壊してしまうと後で苦情が来る。クレームをつけるなら俺達じゃなくて危険古生物を逃がした奴に言ってくれ、と言いたいところだが、元はと言えばそんな危険なものを売ったのはお前達NInGen社だろうと言われると、ぐうの音も出ない。
更に言えば、比較的小型の古生物の場合、建物内に逃げ込まれると探すのが一苦労になる。
そうした理由から市街戦というだけでも十分に厄介なのだが、それにしても班長のこの様子はただごとではなかった。
「またえらくひどい顔色ですけど、そこまでヤバいんですか? 市街地に危険古生物が逃げ出したってだけなら前にもありましたけど」
「現状が過去に例が無いほどまずい理由は、いくつかある。順を追って説明するが、まず一つ目は、今回市街地に危険生物が放たれた原因だ。いつものように無責任な飼い主が捨てたとか不注意により逃がしてしまったとかではない。原因は、生物を輸送していた車に対する襲撃だ」
「襲撃⁉」
ショックのあまり声が裏返る。これまでも反NInGen社活動家による嫌がらせや不法侵入などはあったが、そこまで暴力的な事態は初耳だ。
しかし、誰が、いったい何のために?
「さらに良くないことに、どうやら襲撃を行ったグループは例の猛虎班で、犯人の一人はイエナオらしい」
どういうことだ。事態がうまく飲み込めない。横を見ると、ツツジも困惑した顔をしている。
「いやいや、ちょっと待ってくださいよ。イエナオさんは、この前のあの変な黒服達に捕まってるはずじゃないですか。それがなんで襲撃事件なんて起こせるんです?」
「どうやら一週間ほど前に逃亡していたらしい。これは、私も今日知らされたのだが」
逃亡?
俺は、あの時戦った長髪の男とその上司を思い出す。
カイセイと呼ばれていた長髪の男に対して、俺は手も足も出なかった。そしてそのカイセイを、ミナ班長がベルンシュタインと呼んでいた上司の男は言葉だけで怯ませていた。
あんな連中の本拠地から、そう簡単に逃亡することなどできるのだろうか? そんなぬるい相手には見えなかったが。
「それで、イエナオさんは今どこに? 捕まったんですか?」
「いや、襲撃後のごたごたの中、逃亡していて、現在どこにいるのかは不明だ。ただ、重傷を負っているのは間違いない。左手が落ちていたそうだからな」
「えー、落ちてたって、それつまり、手がまるまる切り落とされてたってことですかー?」
いつもと変わらない口調で問うツツジだが、さすがに顔は強張っていた。人間の手がぽつんと落ちているところを想像したのだろう。それに対して、班長は無言で頷く。
「誰がそんなことを」
「逃げ出した生物だよ。イエナオ達がどこからどんな情報を得ていたのかは知らないが、襲撃時にあの生物が逃げ出したことはあいつらにとっても想定外だったらしい。対処しきれず、襲撃犯六人のうち三人は死亡、二人はかろうじて息はあったものの重傷を負ってその場に倒れていた。ちなみに、その五人も猛虎班の構成員としてマークされていた人間だったそうだ。で、イエナオ一人が片手をちぎり取られつつも逃亡した。さすがにそこは、これまで危険古生物を相手にしてきた経験があった分、他の奴らよりはまだ対応できたんだろう」
既に五人もの死傷者が出ているとなると、その古生物の危険度が元々どう設定されていたにせよ、今回の一件だけでAランク入りは確実だろう。
「それで、さっき俺が撮影して班長に送ったやつ、あれがその逃げ出した危険古生物なんですよね? でもあれ、復活済み古生物のリストで見た覚えがまるでないんですが」
「あれは……あの生物は……」
班長は口籠もる。この様子だと、俺とは違い、まるで知らなかったというわけではなさそうだが、何をそんなに言い淀んでいるのか。
「それについては、私が説明する」
唐突に部屋の正面モニターが点くと、そこに一人の人物の姿が大映しにされた。
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