「こいつ、翼竜だろ? 飛べなくなるって、羽がもげでもするのか?」
イエナオさんは納得いかない様子で眉間に皺を寄せている。ツツジほどではないが、この人も古生物についてあまり勉強熱心ではない。まあ、だからこそ後輩にあたる俺の方が副班長になれたという面もあるが。
「完全に大人になったケツァルコアトルスの体重は二百五十キロほどになりますが、航空力学上飛べるのはせいぜい四十一キロまでなんですよ。で、飛べる限界ぎりぎりの体重を成体のだいたい六分の一と考えると、体積も六分の一。六の三乗根は約一.八ですから、幅と長さ、それに高さはそれぞれ成体の一.八分の一。成体の体高を四.五メートルとして計算するとその一.八分の一は二.五。ちょうど今のやつくらいの高さですね」
「お、おう。いや、お前……今の全部暗算で計算したのか?」
「いやいや、まさか。六の三乗根を暗算で出すとか俺にできるわけないじゃないですか。八の三乗根が二で、一の三乗根が一だから、六の三乗根はその間で尚且つ二に近い方だろうなとあたりをつけて、一.九の三乗を計算したら六.八五九、一.八の三乗を計算したら五.八三二だったから六の三乗根はだいたい一.八ちょいだろうと判断しただけです」
「お前、いつもツツジのことを凡人を理解できない天才みたいに言ってるけどよ、お前もたいがいだよな……」
「なに言ってるんですか、全然違いますよ。俺は今、その気になればイエナオさんにも計算できるようちゃんとやり方を説明したじゃないですか。俺が前、ツツジにどうやったらそんなに命中させられるのか聞いた時、あいつ何て言ったと思います? 『普通に狙って、それから普通に撃ったら当たるでしょ?』ですよ」
「今の説明で俺が計算できるようになると思ってる時点で……いや、もういい。それより、いい加減麻酔も効いてきた頃だろ。ハルツキ、こいつが逃げないようちゃんと見張ってろ」
そう言ってイエナオさんは、上着の襟首を掴みっぱなしにしていた少女をこちらにぽん、と突き飛ばしてきた。
「わわっ」
よろけてこけそうになった少女を慌てて抱き止める。
「もうちょっと優しくしてあげてくださいよ。だいたい、ケツァルコアトルスがまた襲ってでもこない限り、この子に逃げる理由なんてないでしょうに」
この少女も本国人だから気に入らないのかもしれないが、いくらなんでもこんな子供相手に大人げない。
イエナオさんは俺の言葉を無視して、ライフルを前に構えながら慎重にT字路の交差部へと進み出ようとする。
その瞬間、巨大な嘴が突き出されてきた。まだ体の前に突き出したライフルの銃身だけしか交差部へと進み出ていなかったため、イエナオさんはかろうじて串刺しにならずに済んだ。しかし嘴の直撃を受けたライフルはイエナオさんの手元を離れ、すごい勢いで吹っ飛んでいってしまった。
イエナオさんは慌てて後退してくる。腕を押さえているところを見ると、手にしていたライフルを弾き飛ばされた時に傷めてしまったのかもしれない。
ケツァルコアトルス側もこちらに姿を晒すリスクは避けたいのか、追撃はしてこなかった。
「くそっ、なんだあいつ、全然麻酔効いてないじゃねーか! ハルツキ、お前やっぱり外しただろ」
「そんなはずありませんよ。イエナオさんだって見てたでしょうに」
とはいえ、動きが鈍っている気配すらまったくないのは確かに妙だ。
「確かにあのでかい頭がいかにも衝撃受けたって感じでのけぞるところは見たけどよ、でもよく考えてみると、あいつ悲鳴一つあげてなかったぞ」
「悲鳴も何も、ケツァルコアトルスはそもそも鳴きませんし……ん? 頭?」
言われて気がついた。確かにあの時、ケツァルコアトルスは頭をのけぞらせていた。そしてケツァルコアトルスの頭部は、巨大な嘴がその大半を占めている。
「もしかして、あのばかでかい嘴に当たったせいで、麻酔剤が注入されなかったのかも」
「じゃあ、このまま待っててもあいつが動かなくなることはないってことかよ」
イエナオさんはため息をつく。
確かに厄介な事態になった。今俺達がいるのは、T字路の縦棒にあたる位置。一方、ケツァルコアトルスが籠城しているのは、横棒の左側にあたる位置だ。ここからでは、死角になっていて撃つことはできない。撃とうと思えば、いったんT字路の交差部まで出なくてはならないが、そんなことをすれば先ほどのイエナオさんのように嘴の一撃を受けてしまう。
ケツァルコアトルスの嘴の一撃は馬鹿にできない。なにせ、あの胴体に不釣り合いなほど巨大な嘴は、成体になると飛んで逃げられなくなるケツァルコアトルスが肉食恐竜と戦うための武器として発達したものなのだ。
もちろん、ティラノサウルスのような大型肉食恐竜が相手ではさすがに分が悪いが、成体でも体重二百五十キログラムしかないケツァルコアトルスは仕留めたところで得られる肉が少ない。たとえ肉が少なくとも、何のリスクもなく仕留められる相手なら、肉食恐竜は襲ってくるだろう。しかし、巨大な嘴で怪我をさせられる危険を冒してまで二百五十キログラムの肉を狙うのはコスパが悪い。なにせ、これといった武器を持たないハドロサウルス類を倒せば三トンほどの肉が手に入るのだ。
相手が大型肉食恐竜であってもそのような理由から襲撃を思い止まらせられる程度には、ケツァルコアトルスの嘴は強力な武器なのである。
「ハルツキ、お前ほら、あれできないか? 弾を壁にあてて、跳弾で死角にいる相手を撃つやつ」
「ツツジじゃあるまいし、できませんよ、そんなの」
「なんだよ、情けねえ」
「じゃあイエナオさんはできるんですか?」
「できたら聞いてねーよ」
だったら他人に偉そうなこと言わないで欲しい。
さて、どうしたものか。子供は無事保護したわけだし、ケツァルコアトルスが籠城しているのは袋小路で、そこから更にどこかへ逃げられてしまう心配は無い。というか、逃げられないからこそケツァルコアトルスは籠城せざるを得ないのだろう。
状況的には、こちらに急がなくてはならない要因はもう無いわけで、それこそ地下空間の反対側を調べ終えたツツジ達がこちらに合流するのを待ち、ケツァルコアトルスを仕留めるのはツツジにやってもらうという手もある。もし待っている間にケツァルコアトルスの方が痺れを切らし籠城している死角から逃げ出そうとこちらに姿を現した場合は、その時に撃てば良い。
――とまあ、そういう受け身の戦術も取れないではないのだが、さすがにそれはなんというか、それこそ情けない気がする。仮に最終的にはツツジに頼むはめになるにしても、こちらでもできるだけのことは試しておきたい。
今現在、俺達とケツァルコアトルスは互いが互いの死角にいるわけで、そのために膠着状態に陥っている。では条件が対等かというと、実はそうでもない。
こちらがT字路の交差部まで進み出ると、ケツァルコアトルスがこちらの射程範囲内に入る代わりに、こちらも向こうの攻撃範囲内に入ってしまう。だが逆にケツァルコアトルスの方が交差部に進み出た場合、向こうはこちらの射程範囲内に入るが、こちらは向こうの攻撃範囲内に入らない。飛び道具が使えるこちらは、その分、交差部から距離をとれるからだ。
「つまり、どうにかしてあいつを交差部まで誘き出せれば良いわけですよ」
俺の説明を聞き終えたイエナオさんが最初にやったのは、斜め後ろに立つパックの方を振り返ることだった。
「お前のその狼を囮に使うのはどうよ? 人間なら無理でも、狼なら相手の攻撃をぱっと避けられそうじゃねーか」
「と、イエナオさんは言ってるわけだけど、どうだ、パック? 行けるか?」
そんな風に言葉で言ってみたところで当然伝わりはしないので、俺は交差部の方を指し示して『行け』という仕草をしてみる。パックはそれを見るやいなや、ころんと床に倒れ死んだふりをした。
「うん、まあそうだろうと思ったよ」
さすがに俺も、本気で相棒を突貫させるつもりはない。
「なんだよこいつ、死んだふりって。狸じゃねーんだぞ。狼がそれで良いのかよ」
「ダイアウルフが生きてた時代の北米には、スミロドンとかアメリカライオンとかショートフェイスベアとか、そういうもっと大きい肉食獣がうようよいましたからねぇ。自分より明らかに大きい相手との戦いを避けようとする習性があってもおかしくはないです」
「そうかよ。で、こいつが囮に使えないなら、じゃあどうやって誘き出すんだ?」
「うーん、ずっとこの地下で生きてきたのだとすると、餌は何度か見かけたケラトガウルスあたりでしょう。一匹捕まえて鳴き声を聞かせるとかすれば、つられて出てこないでしょうか」
「どうやって捕まえるんだよ。ああいうちっさいやつを捕まえるための罠とか今回何も持ってきてねーぞ」
「まあ、そうですよね」
深く考えずに言ってみただけの思いつきなので、あっさり否定されてしまうのもやむを得ない。
「それに仮に捕まえられたとしても、今のあいつはたぶんそんなに腹減ってないでしょうし」
「なんでそんなことが分かるんだ?」
イエナオさんは怪訝そうな顔をする。
「あいつ、嘴でカツカツ音をたてながら歩いてきたじゃないですか。腹が減って獲物を捕まえようとしてる時だったら、あんな風に音をたてませんよ。獲物が逃げちゃいますからね」
「でもあいつ、最初に私達を追いかけてきた時もあの音たててたけど? で、その後、私のペットを捕まえて食べてた」
横からそう口を挟んだのは、先ほどイエナオさんが捕まえた少女だった。
「そうなると、まったく腹が減っていないわけではない?」
それにも関わらずああやって音をたてているということは、餌の確保よりも優先順位が高い目的のためにそうしているということか。確か、ケツァルコアトルスが嘴で音をたてる理由は……。
ああ、そうか。
幼少時に地下空間へ迷い込んで出られなくなり、長きにわたり一頭だけで生きてきたケツァルコアトルス。
そして年齢的には、本来であればつがいの相手を探す時期。
となれば、答えは見えている。
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