この音、まさか。
慌てて、そちらへと目を向ける。そこには、ガスマスクを装着した男がいた。その足もとに置かれた装置に、俺は見覚えがあった。それに、男の体型にも。
警備部門の制服を身に纏ってはいるが、間違いない。アルベルト・ベルンシュタインだ。
全員にガスマスクを装着させていたせいで、それぞれの顔が分かりづらくなっていたのが仇になった。いったい、いつから紛れ込んでいた?
「――動しろ」
ベルンシュタインが、ぼそぼそと何かを呟く。
なんだ? 何を言っている? いや、何を言っていようが構うものか。ベルンシュタインの足もとで音を立てているあれは、設置式の気化麻酔剤拡散装置だ。あんなものを稼働させている以上、あちらが戦うつもりでこの場に立っているのは明白だ。
「スタンバレット班、あの男を撃ってください! あいつはベルンシュタインです。残りはヒョウ型への警戒を続けて! ベルンシュタインは囮かもしれない」
こちらはスタンバレット班だけでも二十人いる。いくら第ゼロ班班長のベルンシュタインといえど、二十人がかりで撃てば全てを避けることなどできないはずだ。
だが、銃声は一発として聞こえてこなかった。それどころか、俺がかけた号令の後半は、響き渡る絶叫にかき消された。
警備部門の者達が全員、銃を取り落とし、目をこれでもかというほど見開いて声を枯らさんばかりに叫んでいるのだ。
なんだ、これは。何が起こっている?
混乱しながらも、俺の耳は絶叫に入り混じった異音を捉えていた。
ガラスをひっかいたような不快感のある、この音。これは、地下廃墟で第ゼロ班の男がコードF-Fとかいうやつを発動した時のあれだ。ただ、あの時よりは音量がだいぶ小さい。
そこで俺は、ハッと気がついた。
これは、音自体が小さいんじゃない。俺自身の情報端末からは音が発せられておらず、他の人間の端末から音漏れしている分だけが聞こえてきているせいで小さく思えるだけだ。
俺が今使っている違法端末は、第ゼロ班の専用端末と同等の権限が与えられている。少なくとも、イエナオさんはそう言っていた。それが、俺だけが無事な理由か。
大音量の異音を聞かされている者達に、音源となっている端末を外すよう言ったところで聞こえはしないだろう。
こうなったら、俺が自分でベルンシュタインを撃つしかない。俺のアサルトライフルに装填されているのは実弾だ。当たり所が悪ければ、人殺しになる。それでも、手を抜けるような相手じゃない。
第一、フトゥロスも含めれば、俺は既にさんざんヒトを殺しているじゃないか。
躊躇いを振り捨て、ベルンシュタインに向けて銃を構える。
そこで体から力が抜け、俺はその場に崩れ落ちた。
これは……気化麻酔剤の効果だ。
それに気づき、慌てて息を止める。これ以上吸ってしまったら、意識までもっていかれてしまう。
しかし何故だ。俺はちゃんと、ガスマスクをしているのに。
マスクに細工をされた? いや、そんなはずはない。ビルでヒョウ型と戦った時に使ってから、俺はずっと自分のマスクを携帯していた。細工する隙なんて無かったはずだし、この場にいる全員のマスクに細工するというのは非現実的だ。
そうなると、考えられる可能性は一つしかない。麻酔剤の成分自体が、俺達が使っているものとは違うのだ。
反則だろう、そんなの――一瞬そう考え、すぐに思い直す。
そうじゃない。俺が迂闊だったのだ。
ベルンシュタインは第ゼロ班の班長。そして第ゼロ班は、俺達サピエンスが反逆してきた場合に対処する部隊だ。俺達に支給されているガスマスクでは防げない種類の麻酔剤を持っていたとしてもおかしくはない。そのくらいの可能性は、検討しておくべきだった。
警備部門の者達は、見る見るうちに全員が昏倒してしまった。大音量の異音を耳元で聞かされる苦痛のせいで、気化麻酔剤を防ごうと考えることすらできなかったのだろう。
唐突に、情報端末に動画が表示される。どうやら、ライブ映像のようだ。そこには、今まさに倒れている俺達の姿が映されている。
撮影者の最も近くに倒れている一人に、銃口が突きつけられていた。
「これが見えているか、カウフマンの娘、それから警備部門の者達。見えているなら、全員おとなしく本社まで撤退しろ。おかしな動きを見せる者があれば、ここに倒れているお前達の仲間を一人ずつ殺していく」
ベルンシュタインが冷たく言い放つ声が、直と端末越しの二重奏となって聞こえてきた。
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