床に当てた掌に汗が滲むのを、ミキは感じた。
自分は、死ぬのだろうか。こんな所で、何の意味も無く。
駄目だ。そんなのは、絶対に駄目だ。
こんな所で死んでは、兄にも、死んだ母にも、他の皆にも、申し訳が立たない。皆、自分に希望を託してくれたのだ。
そうは思っても、ミキには目の前の怪物をどうこうする力など無かった。できることはせいぜい、身を潜めて相手が気づかずにいてくれることを祈るくらいだ。
ミキは、浅い考えでこんな場所に入り込んだことを、心の底から後悔した。
しかし幸いにしてというべきか、怪物の注意は、ミキの方には向いていなかった。その視線の先にいるのは、怪物をこの部屋に呼び込んだ元凶たる少年だった。あと一歩で隣の部屋へ逃げ込めるところまできていたが、そこで侵入してきた怪物に対する恐怖で身動きがとれなくなったのか、呆然とした様子で立ち尽くしている。
あと少しその長い首を伸ばせば、怪物は少年を咥えあげ、そして一呑みにできただろう。だが怪物は、その尖った嘴を少年の少し手前で止めた。そして噛みつくでもなく、その場で嘴を開閉してカツッ、カツッと打ち鳴らした。先ほどから響いてきていたのは、どうやらこの音だったらしい。
――こいつ、なんで目の前の獲物にさっさと食いつかないんだろう?
ミキは少し考え、そしてその理由に検討がついた。
恐らくこの怪物は、人間に慣れていないのだ。
このサイズの生物が、人間用の階段を使って地上とここを行き来できたとは考えにくい。十中八九、まだ小さいうちにこの地下空間へと入り込み、元々中にいたケラトガウルスを獲物にして生きてきたのだろう。小動物しか相手にしてこなかったから、それより何倍も大きい動物である人間と出くわして、向こうも戸惑っているのだ。
ミキはそれほど動物に詳しいわけではないが、人工島であるこの島に元々このような大型動物がいたはずもなく、十中八九これはNInGen社が蘇らせた古生物の一種だろう。
だとすれば、捨てられるか逃げ出すかする前は人間に飼われていたに違いない。その時に、人間に対する警戒心を植え付けられるような出来事があったのかもしれない。
威嚇のつもりなのか何なのか、怪物はしばらく嘴を打ち鳴らし続けた。その間、少年は棒立ちになったままで、それはミキの目から見れば間違いなく恐怖で動けないだけだったのだが、怪物の目には威嚇しても逃げ出そうとすらしない少年が得体の知れない相手と映ったのかもしれない。しばし迷うような素振りを見せた後、怪物はそろりそろりと首を引っ込め始めた。
助かった、とミキが思ったその刹那だった。
怪物によって弾き飛ばされ、机に寄りかかるかたちになっていたドアに、廊下側に向けて引っ込められつつあった怪物の巨大な頭部が接触した。
斜めの状態で寄りかかっていたドアのバランスが崩れ、部屋中に音を響かせて床へと倒れる。
直後、倒れたドアのすぐ傍から、キィッ、という甲高い鳴き声とともに小さな影が飛び出してきた。そのシルエットには、見覚えがある。ミキの飼っているグスタフソニアだ。偶然にも、同じ部屋に隠れていたらしい。
今しも部屋から引き上げようとしていた怪物の視線が、飛び出してきたグスタフソニアへと向けられる。
長年にわたりここで小動物を狩り続けてきたのであろう怪物の動きは、素早かった。気がついた時にはもう、グスタフソニアは怪物の嘴により捕えられていた。そしてミキの目の前で、キィキィと悲鳴をあげるその小さな体は、怪物の喉へと消えていった。
――帰ったら、名前、考えようと思ってたのにな。
ミキは呆然とその光景を眺めながら、頭の片隅でそんなことを考えた。
望んで飼い始めたわけでもなく、大して可愛がってもいなかったペットの死に対して自身が思いのほかショックを受けていることに気づき、ミキは自分でも意外に思った。
部屋中に響いた悲鳴で、ミキは我に返った。
視線を向けると、少年が怪物と反対側のドアから飛び出していくところだった。グスタフソニアが丸呑みにされる衝撃的な光景が、彼の金縛りを解いたのだろう。
怪物は一瞬、その後を追おうとする動きを見せたが、いかに首の長い怪物でも、さすがにもう届かない。それを察したのか、怪物はすぐに諦め、再度首を部屋の外へと引っ込め始めた。
やがて怪物の巨大な頭部は、ドアの向こうへと消えた。
それでも、ミキはしばらくの間、身動きすることなく床にじっと伏せ続けた。物音を立てれば、それを聞きつけてまた怪物が戻ってくるかもしれないからだ。
どのくらい時間が経っただろうか。
チチチッ、という鳴き声に目を向けると、破壊されたドアの向こうに数匹のケラトガウルスがたむろしていた。この小動物達が平気でうろついているということは、さっきの怪物はもう去ったのか。しかし逆に、獲物の気配に引き寄せられてまた戻ってくる可能性もある。だったら、今のうちにここから離れた方が良い。
ミキは、そろりそろりと身を起こした。
突如現れたかのように見えた人間に驚いたケラトガウルス達が、慌てて走り去っていく。
ミキは、二つの出入り口それぞれに目を向けた。
怪物がドアを壊した方と、少年が走り去っていった方。果たして、どちらから出るべきか。
確実に地上へと続いているのは、怪物がドアを壊した方だ。なにせ、自分達もそちら側からやってきたのだから。
だが、そちらは怪物がやって来た側、そして去って行った側でもある。そちらへ向かった場合、またあの怪物と鉢合わせる危険性は、逆の側へ向かった場合よりも高いように思えた。
ミキは静かに一つため息をつき、床に伏していたせいで埃まみれになった体を払うと、入ってきたのとは逆側のドアへと向かった。
そちらも、どこかで地上へと繋がっていることを期待して。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!