「一階担当班、気をつけろ! 対象生物はエレベーター内に潜んで麻酔薬の吸入を回避した可能性がある! 外をかためているチームは対象生物が飛び出してきた時に備えて銃撃の準備を!」
無線の向こうから響いてきたその叫びを聞き、一階担当班の者達はぎょっとして互いに顔を見合わせた。
「一階って……ここじゃないですか⁉」
班員の一人が、顔を青ざめさせながら裏返った声をあげる。
今さら何を焦っている。危険を覚悟の上で来たはずだろう。
そう喉元まで出かかったのを、一階担当班のリーダーは呑み込んだ。
自分とて対象生物は既に麻酔薬で無力化されていると思っていたし、仮にそうでなかったとしても、いるのは二階だろうと考えていた。気の緩みがあったことは否めない。どうして部下だけを責められようか。
「そんなに怯えるな。エレベーターの扉くらいで、気化した麻酔薬を完全に防げるはずもないだろう。仮に眠ってはいなかったとしても、動きは鈍くなっているはずだ。だが、油断はするな」
部下を励ましつつ、エレベーターの扉に銃口を向ける。
扉は閉ざされたままで、中から何かが出てくる気配は無い。
そういえば、エレベーター内に入ったということは、対象生物は扉の開閉ができたのか? ただの動物が?
いや、ぶつかった時に偶然ボタンを押してしまい、扉が開いたというだけだろう。
部下の一人に頷いてみせると、彼はライフルの先端でエレベーターのボタンを軽く突いた。扉がゆっくりと開いていき、自動音声が流れる。
『上に参ります』
さあ、出てこい。蜂の巣にしてやる。
だが、扉が開ききった時――そこには、何もいなかった。
「一階担当班、気をつけろ! 対象生物はエレベーター内に潜んで麻酔薬の吸入を回避した可能性がある! 外をかためているチームは対象生物が飛び出してきた時に備えて銃撃の準備を!」
無線から流れる切迫した叫びを耳にして、最上階である十階担当の面々は一瞬顔を強張らせた。しかしその内容を理解すると同時に、安堵の溜め息をつく。
一階担当の者達には悪いが、この階でなくて良かった。
それが、彼らの偽らざる思いだった。そこに気の緩みがあったがために、エレベーターへと繋がるはずの扉が開いているのを目にした時、それが何を意味するのかをとっさには考えつかなかった。
扉の奥は空洞だ。エレベーターは一階に降りているのだから、当然である。
「エレベーターが無いのに何で扉が開いてるんだ? 故障か?」
不用心にも、一人が中を覗き込む。
エレベーターを吊り下げるためのワイヤーが中央に伸び、はるか下方にはエレベーターの天板が見えるが、それだけだ。特に異常は認められない。
頭を引っ込めようとした直前、上方から微かな音が聞こえたような気がした。
あるいは、それは虫の知らせのようなものだったのかもしれない。
なにげなく、顔をそちらへと向ける。
見上げる彼の目に映ったのは、爛々と光る二つの眼球だった。
「うわあああああああああああああああああああああああっ!」
その悲鳴を俺が聞いたのは、一階担当班からエレベーター内に対象生物の姿は無かったという報告を受けた直後だった。
悲鳴に続いて、切羽詰まった様子の声が無線から流れる。
「こっ、こちら十階! エレベーターシャフト内最上部に対象生物を発見するも、逃走を許しました! 申し訳ありません」
エレベーターシャフトの最上部⁉
どうしてそんなところに、と一瞬混乱しかけたものの、俺はすぐに状況を理解する。
そうだ。エレベーターシャフト内は、十階に停止時のエレベーターを上から吊り下げるためのスペースが必要な分、十階よりも上の高さまで空間があるのだ。
ヒョウ型は二階に気化麻酔弾が着弾した時点で、建物内の階段を使って最上階まで駆け上がった。そしてそこへ達すると、エレベーターシャフト内へと続く扉を無理矢理こじ開けて侵入し、ワイヤーを伝って更に上のスペースまで登ったのだろう。
手で物を掴むことができ、樹上でも機敏に動けるというヒョウ型ならば、そのくらい朝飯前に違いない。
そして気化した麻酔薬は空気より重いため、十階に撃ち込まれた麻酔薬は下に拡散することはあっても、十階より更に上にあるエレベーターシャフト内最上部に達することはない。そうやって麻酔薬の吸入を免れたに違いない。
嫌な汗が全身から滲み出る。
なんなんだ、こいつは。まぐれで適切な対応がとれているだけなのか。それとも……?
「負傷者は⁉」
無線で問い返しながら、情報端末に表示されたヒョウ型の位置を確認する。窓の方に向かっているようだ。しかし二階や三階くらいならまだしも、いくらなんでも十階では窓から飛び降りることはできないはず。いったいどうするつもりなのだ?
答えは考えつかなかったが、とにかくビルの周囲をかためているチームには注意を促しておく必要がある。
「対象生物が十階南側窓から屋外に出る可能性があります! 注意と狙撃準備を!」
危険古生物対策課の男から無線で指示が飛んできたのを受け、ビルの南側に配置されたチームは一斉に銃口を十階窓へと向けた。
それを見る警備部門の現場指揮官は、逡巡していた。
果たしてこの距離で当たるのか。もっと建物に接近するよう指示を出すべきではないだろうか。
高速で接近して攻撃してくる対象生物の特徴を考慮して、ビルを囲む部下達は、ビルがぎりぎり有効射程圏内となる位置に配置している。
だが、ぎりぎりとはいえ有効射程圏内なのは、対象生物が一階の窓または出入り口から出てきた場合の話だ。十階の窓では高さのある分、更に距離が開いてしまう。やはりここは多少の危険は冒してでも、もっと接近するべきだ。
しかし彼がその決断を下すよりも、対象生物が窓から飛び出してくる方が先だった。その生物は、軽やかな身のこなしでビルの壁面に沿って伸びる雨樋のパイプに飛び移ると、するするとそれを登り始める。ヒョウ型と呼ばれるタイプだと聞いていたが、まるで猿のような動きだ。
ビルを取り囲む部下達が一斉に発砲するが、当たらない。やはりこの距離と高低差では無理があったのだ。
「もっと近づいて撃つんだ!」
彼がそう命じた時には、その生物の姿は既に屋上へと消えていた。
オルルゥゥーーン、という奇妙な遠吠えが窓の外から響いてくるのを、俺の耳は捉えた。初めて聞く声だ。もしかすると、今のがヒョウ型の鳴き声か?
それに呼応するように、小さな鳴き声が遠くから聞こえてきた……ような気がした。
そのことについて思考を巡らせる間もなく、ビルを包囲している警備部門の現場指揮官から連絡が入る。十階の窓から外に出たヒョウ型は、このビルの屋上に上がったのだという。
「了解。すぐにこちらも屋上に向かいます!」
言うと同時に駆け出そうとした俺は、「待ってください!」という現場指揮官の言葉に慌てて足を止めた。
「どうしました?」
「今、対象生物が隣のビルの屋上に飛び移りました」
情報端末上の位置表示を確認する。確かにヒョウ型の位置は、隣のビルへと移っていた。そういえばこいつ、ジャンプ力も売りの一つだったか。
「くそっ、本当になんなんだ、こいつは」
走るのが速く、木やロープなども登れて、しかもジャンプ力がある。こんな機動力を持つ相手を追い詰めるのは至難の業だ。
……いや。
そうじゃないな。
こいつを並外れて厄介な存在にしている一番の要因は、素早さでもジャンプ力でもない。的確にこちらの裏をかいてくる知能の高さだ。ならばこの遁走も、ただ逃げているだけではないと見た方が良いのか……?
「メガネウラ、マップの表示領域を拡大」
『表示レベル3に調整しました』
広域表示にされたマップ上を、A+と書かれたマークが移動していく。そして、その先にあるのは――。
「まさか……」
進行方向には、A+と書かれたマークがもう一つあった。
「対象生物を急いで追ってください! そいつは……そいつは、仲間と合流する気です!」
無線の向こうで息を呑む音が聞こえた。
「既に追跡はさせていますが……しかし奴はいったいどうやって仲間の居場所を?」
「恐らくさっきの遠吠えでしょう。あれで互いの居場所を知らせ合っていたんです。チャレンジャー――対象生物は群れで狩りをする動物だと聞いています。だとすれば、ありえない話じゃありません」
しかし今になって合流するのならば、そもそもなんでばらばらに逃げた?
それに、あんな風に窓から屋上に上がってそのまま逃げられるのなら、もっと早くに逃げ出して仲間と合流することもできたはずだ。なぜ今の今までそうしなかった? 気化麻酔弾を撃ち込まれるまでは身の危険を感じなかったから? 本当にそれだけか?
分からない。何も分からないが、一つ確実に言えることがある。
A+級特定危険古生物〝チャレンジャー〟――こいつは、これまで相手にしてきた古生物達とはまったく違う。一刻も早く、仕留めなくては駄目だ。
でなければ……何かとんでもないことが起こる。
そんな気がする。
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