アフリカ大陸北部のとある港町。
五歳くらいの少女が通りを駆けていく。少女は今日の船でこの町に着いたばかりであり、とにかく見るもの全てが珍しくて仕方がないのである。
「こら、勝手にそんな先に行かないの! 戻って来なさい」
母親の呼ぶ声を耳にした少女は、不満げに頬を膨らませつつも素直に戻ろうと身を翻した。その途端、すぐ後ろを歩いていた人にぶつかってしまう。
「あっ、ごめんなさい」
少女は慌てて謝り、その後で、相手が怒っていないか恐る恐る顔を上げて確認する。相手の女性は「いえいえー、こっちこそごめんねー」と笑顔で返してくれたのだが、少女は彼女の外観に少し違和感を覚えた。
日差しを避けるためか目深に被った帽子、そこから少しだけ覗く髪が、見たこともないような濃い色をしていたのだ。
「お姉さん、その髪――」
子供らしい率直さで尋ねようとした時、母親の再度呼ぶ声がし、少女は慌ててそちらへと駆けていった。帽子の女は少しの間振り返ってその背を見送っていたが、すぐにまた歩き出す。
やがて町を出て人気の無い場所まで来ると、彼女は帽子を脱ぎ、それを片手でくるくると回した。
「さっきの子に変に思われたかなー? これは早めにネアンデルタール人的な色のかつらを手に入れることにしよう、そうしよう」
肌の方はもともと彼らと大差無いほど白かったから問題無いが、あの島以外の場所では、この髪色は悪目立ちしてしまうだろう。そうなったら、いつ捕まってしまうか分かったものではない。
とはいえ、今のところ追手がかかっている気配は無かった。うまいこと死んだと見せかけることに成功したようだ。撃たれて海に落ちる瞬間を、ハルツキだけでなくネアンデルタール人側であるミナ班長も目撃していたのが良かったのだろう。
もっとも実際には、あの時にハルツキが撃った弾は当たってなどいないのだが。
満身創痍な上によく狙いをつける時間の余裕も無く、おまけに普段使っているものとは違う銃という悪条件の下でハルツキが撃ったスタンバレットは、実のところツツジではなく橋の鉄柵に当たっていた。
そこでツツジは、ヒョウ型につけられた左手の傷口をわざと開き、その左手で腹を押さえてそこに血を染みこませることで、まるで腹を撃たれたかのごとく装ったのである。
とはいえ、そうやって死んだふりをするだけではタグによる追跡を逃れることはできないから、島外に逃げ出せばすぐにバレてしまう。しかしツツジは、とっくの昔に自分の体に埋め込まれたタグを取り出していた。
かつてショートフェイスベアと戦った時、ツツジは腹に穴があくほどの大怪我を負ったということになっている。
だが、それは嘘だ。もしその戦いでそんな大怪我を負っていたとしたら、他人の死体を調べてタグが埋め込まれていることに気づく余裕などあるはずがない。腹の穴は、死体を調べて体のどこにタグが埋め込まれているのかを確認した後、自分に埋め込まれたタグを取り出すために自分で開けたものだったのだ。
タグは取り出したことがバレないよう、常に持ち歩くようにしていた。そしてあの日、ハルツキに撃たれたふりをして橋から飛び降りた時、タグだけを海に沈めたのである。
ツツジの目的は最初からそうやって自らの死を偽装することであり、ハルツキと本気で戦うつもりなどさらさら無かった。しかしハルツキの消耗が予想以上に激しかったため、不自然に思われないかたちでやられたふりをするのに思いのほか手間取ってしまったのである。
もっとも、その偽装はまず間違いなくハルツキには既に見破られてしまっていることだろう。少なくとも、ツツジを撃った銃の残弾全てが本当にスタンバレットだったことに気づいた時点で、ツツジの死亡を疑うはずだ。
しかしまあハルツキなら、勝手な奴だと文句を言いつつも結局は黙認してくれるに違いない。ハルツキとの付き合いは長い。ツツジはハルツキのことなら、よく分かっているのだ。
なんらかの理由でハルツキ以外の人間にも嘘がバレてしまう可能性はあるだろうが、少なくともそれまでは、ツツジは自由の身だ。
いや、たとえバレたとしても、何としてでも逃げ切ってやろう。せっかくこうしてあの島を出ることができたのだ。存分に世界を見てまわるまでは、死ぬわけにも捕まるわけにもいかない。
それにしても、本土へと脱出した後にたまたま密航した船がアフリカ行きだったというのも、なかなかに運命を感じさせる話だった。なにしろ本来の歴史では、ホモ・サピエンスはこの地から世界へと旅立っていったというのだから。
まさかこれも歴史の復元力によるものということもあるまいが、ツツジの旅もまた、この場所から始まるのだ。
「ええーと、今いるのがこのへん? それだと一番近いのはここか、いやそれともこっちかなー?」
そんなことを呟きながら『一度は見てみたい世界の絶景百選』と表紙に書かれた本を開いて場所を確認していたツツジは、横から差す日差しを感じてなにげなくそちらへと顔を向けた。
ちょうど、地平線の彼方に日が沈もうとしているところだった。
「おおー、すごい夕日」
思わず、感嘆の声をあげる。
少しの間立ち止まってそれを見物した後、ツツジはぱたんと音を立てて本を閉じた。そしてまた、歩き出す。
「さーて、どこに行こうかなーっ、と」
行き先はいくらでもある。
どこにだって行ける。
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