そのサイレンが聞こえてきた時、アルベルト・ベルンシュタインは、策を練り直そうとしているところだった。
脱走させたホモ・フトゥロス五頭のうち既に四頭が仕留められたという報は、彼のもとにも届いていた。残る一頭は地下空間に逃げ込み、その出入り口は既に封鎖されているというから、たとえ駆除までに時間がかかったとしても、さほど大事にはならないだろう。
この程度では駄目だ。NInGen社がこの島を管理できていないと輪読会に印象づけるためには、この程度ではまだ足りないのだ。なにか新たな手を打たなければ。
サイレンが鳴り響いたのは、アルベルトがそんなことを考えていたまさにその時だった。
馬鹿な。
アルベルトは、絶句する。
先ほどまで頭の中でかたちになりつつあった次の一手は、その音を聞いた瞬間に吹き飛んでいた。
そんな、馬鹿な。今の段階で、このサイレンが鳴るはずがない。
このサイレンは間違いなく、あれの発動を知らせるためのものだ。
そして、あれの発動条件は二つ。それら二つのうちどちらか一方でも満たされれば、発動するようになっている。
一つは、特定危険古生物がNInGen社には制御不能であると見做され、プランA、B双方の完全廃棄が決定した場合。
アルベルトが立てた今回の計画が全てうまくいっていれば、最終的に輪読会がそのような判定を下してあれを発動させることはあり得た。しかしそうだとしても、今このタイミングでというのは早すぎる。アルベルトの見る限り、事態はむしろ収束しつつある。制御不能になっていると見做されるような状況ではない。
ならば、もう一つの方か。だが、もしそうだとすると、考えようによっては特定危険古生物が制御不能になるよりもなお悪い。
なぜなら、そのもう一つというのは――。
唐突にアルベルトの耳元で、サイレンとは別の音が響いた。情報端末の着信音だ。誰かが、通話を要求している。相手の端末IDを確認すると、娘のものだった。
アルベルトの胸を、不安がよぎる。
本来なら勤務中であるこの時間帯に、娘の方から通話を求めてくることなど、これまで一度として無かった。しかも、あのサイレンが鳴り出した直後というこのタイミング。不穏なものを感じるなという方が、無理な話だった。
「ミキか? どうした。何かあったのか?」
アルベルトは平静を装いながら、端末の向こうの相手に問いかけた。
「アルベルト・ベルンシュタインだな?」
アルベルトは息を呑む。嫌な予感は、的中した。端末のイヤホンから聞こえてきたのは、変声機を通したものと思われる奇妙な声だったのだ。
ミキは、このような悪ふざけをする子ではない。掌に嫌な汗が滲んだ。
「誰だ、お前は。なぜ娘の端末を持っている?」
「端末だけではない。娘も預かっている」
聞かされる前から、もしやそうなのではないかという気はしていた。
眼鏡型情報端末は装着時に網膜認証によりロックが解除され、左右の弦部分に組み込まれたマイクで音源の位置を特定することで、所有者の命令にだけ反応するようになっている。顔から外した時点で自動的にロックがかかる仕様なので、単に拾ったり盗んだりしただけでは他人の端末を使用することはできないのだ。
アルベルトが柳山イエナオに拾わせた不正端末のようにアンロック状態を保持させてあるものなら誰にでも使用可能だが、そのためには事前に所有者からの命令が必要だ。
したがって、本来の所有者の意に沿わぬかたちで他人の端末を使う方法は一つしかない。所有者本人を確保し、脅して端末のロックを解除させるという方法だ。
しかし頭ではそうと分かっていても、心が受け入れるのを拒んでいた。
「ふざけるなよ、貴様!」
「これを聞いてもふざけていると思うかな?」
数秒の静寂の後、端末の向こうから娘の悲痛な叫びが聞こえてきた。
「お父さん、ごめんなさい! 私、お父さんに言わなきゃいけないことが――」
「おっと、今はここまでだ。さて、これで状況を理解していただけたかな」
「今すぐ娘を解放しろ。さもなくば――」
「解放するさ。ただし、それはこちらの要求を君が聞いてくれたらの話だがね」
「……要求はなんだ」
「素直でよろしい。自らの部下を含め、多くの人々を死地に追いやる陰謀を企てた君も、さすがに娘の命は惜しいと見える」
アルベルトは歯噛みした。
いったい何者なのだ、こいつは。なぜ、そんなことまで知っている?
「さて、我々の要求だが――」
相手が伝えてきた要求は、アルベルトを愕然とさせるものだった。
こんな要求を呑んだりしたら、大変なことになる。アルベルト自身も、ただでは済まないだろう。そのようなことをしでかした日には、アルベルトを支援している輪読会内の反プランA派とて、さすがにアルベルトを切り捨てにかかるに違いない。
アルベルトは苦悶する。
通話相手が言うように、アルベルトは既に多くの人々を死地に追いやる陰謀に手を染めている。だがそれも全ては、そう遠くない未来において現生人類に危機をもたらすであろうハンナ・カウフマンの計画を止めるためだ。私利私欲ではなく、人類の未来を守るために行ったことだったのだ。
だがここで相手の要求を呑めば、私利私欲ではないにしろ、私情のために多くの人々を危険にさらすことになる。
とるべき選択肢は、分かっていた。
こんな要求は、拒否しなくてはならない。
そう分かってはいたのだ。
だが、アルベルトにとって、娘の未来は人類の未来と同義だった。血で染まった事件現場でただ一人無事だったあの子を見つけた時、この子の未来だけは守りたい、守らなくてはならないと思ったのだ。人類の未来を守ろうとアルベルトが決意したのはその時であり、あの子のためだったのだ。
血は繋がっていなくとも、あの子はたった一人の娘だ。娘のいない未来など、考えられない。
「……分かった、お前の言うとおりにしよう」
「賢明な判断に感謝するよ」
アルベルトは言葉の端々に悔しさを滲ませながら、せめて相手の手がかりくらいは掴もうと問うた。
「いったい何のために私にそんなことをさせる? お前はいったい何者なんだ?」
「我々が何者か? そうだな、この島の裏側を知る第ゼロ班の君には、こう言えば分かるだろう。我々は――」
その後に続いた言葉は、アルベルトを戦慄させるものだった。
「――〝未来人〟だ」
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