逃走したフトゥロスが以前に地下廃墟で出会ったあのミキという少女だということは、ミナもハルツキから聞いて知っていた。それが分かった上で、探し出そうとしていたはずだった。
だがいざ相手の姿を目にし、自らの手で対処しなくてはならないと悟ると、その時になって漸くミナは自分が本当の意味での理解も覚悟もできていなかったのだと思い知った。
こいつらは――ホモ・フトゥロスだけは、絶対に逃がすわけにはいかない。
その義務感から、銃口を相手に向ける。
だが、どう見ても自分達と同じ人間にしか見えないその少女を撃つことを考えた途端に、かつて見た光景がフラッシュバックした。
サイトBに侵入してフトゥロスを脱走させたかどで彼が第ゼロ班によって射殺され、冷たい死体となって帰ってきたあの日の光景が。
彼とミナは、家族同然に育てられた。彼はミナの母親によって、ミナの交配相手として用意されたホモ・サピエンスであり、ともに育てられたのは幼い頃から馴れさせておくためだったのだが、もちろん子供の頃のミナはそんなことは知らなかった。全てを知らされたのは、彼が死んでから何年も経った後のことである。
もしあのまま彼が生きていたら果たしてどうなっていたのだろう、と時々考える。
まるで家畜か何かのように交配相手が物心もつかないうちから用意されていたという点については、不快感が湧かないというわけではない。しかしそれでも、結局のところ自分は、強く拒絶はしなかったのではないかとも思う。
人類滅亡を食い止めるためにはそうしたことも必要だという母の考えにも一理あるから、というのもある。けれど、ただそれだけではないだろう。
それとも、そんな風に考えるのは、彼が死んだからこそなのだろうか。今となっては、分からない。
自分の気持ちすら、よく分からないのだ。彼の方はどう思ったかなんて、もはや確かめようもない。その機会は、永遠に失われてしまった。
本当に、彼を殺す必要があったのか。
そのことについて、ミナは今でも納得ができていない。
本当に彼は、そうされるほど危険な存在だったのか。
そしてその問いは今、自分自身に向けられている。
本当に、目の前のこの少女を殺す必要があるのか。
地面にへたり込み、涙目で命乞いをするこの子供がそれほど危険な存在だというのか。
私は、あれほど憎んだあの日の第ゼロ班と同じことをするのか。そんなことをしてしまって良いのか。
考えれば考えるほどに、引き金は重くなった。撃てる気がしなかった。
だから、本気かどうかも怪しい相手の口約束にふらふらと乗ってしまったのだ。
銃を下ろした後でも、迷いは消えていない。
本当に、これで良いのか。この少女を信用してしまって良かったのか。
もし彼女が嘘をついていたら、仲間を十分に増やした後でもう一度こちらに戦いを挑むつもりでいたら、その時は今日とは比較にならないほどの犠牲者が出るかもしれない。
最悪の場合、現生人類が敗北し、フトゥロスがその名の通り未来の世界を統べるただ一種のヒトとなる可能性だってある。
そんな不安は胸の内で燻り続けて、けれど下ろした銃がなんだか重くて、ただの拳銃のはずなのにすごく重くて、もう持ち上げられそうになかった。
ミナのそんな様子を目にした少女の表情に、どこか勝ち誇ったような気配が漂っているように見えるのは、穿ち過ぎだろうか。
そんなことを考えつつも、もはや相手が立ち上がって去るのをただ見送ろうとしていたその時――――ふいに、少女の上に影が差した。
ふりかえった少女が、硬直する。それは、ミナも同じであった。
ティラノサウルス大型化個体……! クマ型を追って線路を逆走していったはずのこいつが、なぜここに。どこかで線路外に出て、そのままここに来たのか。それにしたって、まさかこれほど接近されるまで気づかないとは。目の前の少女のことで頭がいっぱいになっていたとはいえ、不注意にもほどがある。
今、ミナの手にある武器は、拳銃だけだった。こんな物では、ティラノサウルス相手に戦いようもない。
ティラノサウルスの巨大な頭部が、立ちすくむ少女の方へと下りてくる。少女の口から、「ひっ」と小さな悲鳴があがった。
そして……ティラノサウルスは二、三度臭いを嗅ぐと、また頭を持ち上げた。そのまま何もせず、踵を返して去って行く。去り際にちらりとミナの方にも目を向けたが、結局こちらにも興味は示さなかった。
人間は餌ではないとハルツキに教え込まれてきたがために、ミナだけではなく外見上は人間に見える少女にも食欲が湧かなかったのか。あるいはただ単に、さんざん食べて既に満腹になっていただけなのか。
理由は分からないが、それは、ただ来て去って行っただけだった。本当に、ただそれだけだったのだ。
だがミナは、思いきり頬を張られたようなショックを受けた。
それは単に、自分がティラノサウルスの餌食になるかもしれないという恐怖を感じたからではない。ミナは、気づいてしまったのだ。ティラノサウルスの頭部が少女のもとへと下りてきたその時、自分が期待したことに。
そうだ。私は確かに、期待したのだ。
その強大な顎が少女を噛み砕き、自分とは関係の無いかたちで全てにけりをつけてくれることを。
自分が殺すわけでもなければ見殺しにするわけでもなく、自分にはどうしようもない強大な力が選択肢を削り、自分には何の責任も無いかたちで未来を一つに決めてくれることを。
ああ、そうか。
ミナは今、はっきりと自覚せざるを得なかった。
私は、この哀れな少女が死ぬべきではないと考えているわけではなく、死なせたくないと思っているわけですらなかった。ただ、自分の手を汚して彼女の命を奪い、その責を負うのが嫌なだけだったのだ。
少女が嘘をついていて、実際はいずれこちらに牙を剥こうと考えていることも、本当のところは気がついていた。
いずれまた殺し合うことになると分かっていても彼女を見逃すか、それともここで彼女を死なせるか。それで言うなら、自分達にとってより良い選択は後者だということも理解していた。
それにも関わらず、自分自身がその選択をする責からは逃れたかったのだ。
そんな身勝手につきあってられるか、自分の未来くらい自分で選べよ――去り際にちらりとティラノサウルスがこちらを見た時、そう言われたような気がした。
ミナは顔を上げ、少女をしっかりと見据える。
もう、目は逸らさない。
「自分達は生き延びたかっただけだ、それの何が悪いのか――さっきお前は、そう言ったな」
呆けた様子で去って行くティラノサウルスの背を見送っていた少女が、ハッとしたようにこちらを振り返った。
「警備部門や第ゼロ班の人間、イエナオとその仲間、それにお前にすり替わられた赤ん坊――お前達は、私の同族や友人を何人も殺した。だがそれも全て、お前達からすれば全部生き延びるためにやったことだ。悪いことじゃない。お前の言う通りだよ。何も悪くないし、間違ってもいない。私がお前の立場だったらやっぱりお前と同じようにしただろうし、私が神ならお前のことは裁かない」
この少女やその仲間達に対して私達がしてきたことは、間違いなく理不尽だろう。だから正義や倫理のために、自分達の種の存続よりもそれらに高い価値があると信じるが故にこの少女を見逃すというのであれば、私はそうできたのかもしれない。
でも、もう駄目だ。私は、知ってしまった。
己の本心がそんなものではないということを。
自分が本当は、己の手を汚したくないというただそれだけの理由で彼女を見逃そうとしていたことを。
だから、もう駄目だ。
そんな理由で見逃すことはできない。
自分が生きるためなら、たとえ間違っていると言われようとも相手を蹴り倒して進めばいい――ハルツキは確か、そんなことを言っていた。
けれど私は、まだそんな風に割り切れそうにない。
これからやることが正解だとは思えないし、ましてや正義でなんてあるはずがない。
でも――
「でも私は、全ての生き物に公平な神なんかじゃない。ただの一生物なんだ。だから――」
拳銃は、まだ異様に重く感じた。それでも持ち上げ、人間にしか見えない少女へと銃口を向ける。
少女が弾かれたように立ち上がろうとする。しかしミナは、少女にその猶予を与えなかった。
「――自分達が生き延びる方の未来を、私は選ぶ」
銃声が響いた。立ち上がりかけていた少女の胸に、真っ赤な花が咲いたかの如く血の染みが広がる。そして少女は、そのまま仰向けに倒れた。
引き金は、当分忘れられそうにないくらい重かった。
ミナは倒れた少女のもとへと向かい、片膝をついてしゃがんだ。せめて見開かれたままのその目を閉じさせてやろうと手を伸ばす。
その時、死んだと思われていた少女の腕が、唐突に動いた。襟首ががしっと掴まれ、引き寄せられる。
「勘違いするなよ、ネアンデルターレンシス……! 私は……私達はッ――」
少女はそこまで言ったところで咳き込んだ。それとともに、口から血が溢れ出る。しかし少女は、それでも喘鳴混じりの言葉を止めなかった。
「――お前達に負けたわけじゃない」
ミナは、ハッと目を見開いた。少女の言わんとすることが、理解できたのだ。
「……ああ、そうだな」
ミナは少女の顔を真っ直ぐに見つめ、言葉を返す。
「きっと、そうなんだろう」
その返答が、少女の耳に届いたのかどうかは分からない。いずれにせよ、その直後、少女は静かに目を閉じると小さく音をたててもう一度血を吐き出し、そしてそれっきり息をしなくなった。
これで、全て終わったのだ。
そう思うと、どっと疲れが押し寄せてきて、なんだか立ち上がる気力すら湧いてこなかった。
そうしてしばらく呆けたように座り込んでいたミナは、背後から聞こえてきた砂利を踏む音で我に返った。
振り向いた視線の先に思いも寄らぬ人物の姿を認め、ミナは即座に警戒の態勢をとる。しかし相手が丸腰な上にとても戦えるような状態ではないことにすぐ気づき、結局は警戒を緩めた。
相手の男――アルベルト・ベルンシュタインの方もまた、ミナと戦う意思の有無以前に、ミナの姿すら視界に入っていない様子だった。
ベルンシュタインはミナを無視して娘の亡骸の前にしゃがみ込み、そしてまるで娘が遊び疲れて眠ってしまっているだけであるかのように、その亡骸をそっと抱き上げて立ち上がった。
「お前、その怪我でどこに行くつもりだ? それに、その子はもう……」
ベルンシュタインは相変わらずミナの方を見ようともしない。
ただ、言葉だけは返した。
「それでも、せめて家族といっしょに眠らせてやりたい」
ベルンシュタインは短くそれだけを言うと、ふらつきながらも足を踏み出した。
そして目を伏せたまま、付け加えるように小さく呟く。
「私にはなれなかった、本当の家族と」
ミナもそれ以上かける言葉を思いつかず、振り向きもせずに去って行くその背中をただ見送った。
「……そうだ、ハルツキに教えないと。もう、全部終わったって」
ようやくそのことを思い出したミナは、端末からハルツキに通話要請を入れた。ところが、しばらく待ってみてもハルツキが応答する気配が無い。
いったいどうしたのだろう? 今度は間違いなく、今ハルツキが使っている端末に繋ごうとしたはずだが。
ミナが訝しく思ったその時、橋の方から遠く銃声が響いてきた。
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