――半月後。
「よーし、良い子だ。そら、受け取れ」
塀の上から俺が投げた餌は、空中でティラノサウルスの巨大な顎に捉えられた。
生け捕りに成功した巨大ティラノサウルスは、NInGen本社に隣接する古生物専門動物園『新六甲島古生物パーク』で飼育されることになったのだ。園の入場者数増にも、かなり貢献しているという。
「って、お前それ、うちの社が最近推してる高タンパク質飼料じゃないか。こんなただでさえでかい奴を、これ以上マッチョにしてどうするんだよ!?」
横で見ていた班長が、声に焦りを滲ませる。
「逆に考えましょう。ここまででかくなっちゃったら、もう今さら多少筋肉が増えたところで大した違いではありません」
「まったく……」
班長は右手で頭をがりがりと掻きむしった。
「うちの班の役目は捕まえるところまでのはずだが、あの狼といいこいつといい、お前はやたらと捕まえた後も関わりたがるな」
「班長、いい加減パックのことは『あの狼』じゃなくて名前で呼んであげてくださいよ」
「お前、まさかこいつもあの狼みたいにそのうち現場に連れて行こうとか考えてるわけじゃないだろうな?」
パックを名前で呼んであげて欲しいという俺の切なる願いは、完全に無視された。
「そりゃまあ、こいつが味方になってくれたら相手が熊だろうが何だろうが怖いものなしですけどね。でもさすがに俺も、そんな無茶なことは考えてませんよ。パックみたいに言うことを聞いてくれるわけじゃありませんし、最近はようやく人間を獲物として見ようとしなくなりましたが、そこまでもっていくだけでも大変だったんですから」
人間を餌と見做さなくなったのは、見た目と臭いを人間に似せた人形にティラノサウルスが嫌がる味をわざとつけてそれを与えたりとか、そういうことをいろいろとやった成果だ。
だが、これ以上躾けるのは恐らく無理だろう。元々、人間の指示に従うような性質を持つ生物でもない。
更に言えば、仮にこいつが言うことを聞いてくれるようになったとしても、こんなでかくて目立つ奴を連れて行ったりしたら、捕獲対象の古生物はこちらが見つけるよりも先に逃げ出してしまうこと請け合いだ。
「おやおや、ミナ君じゃあないか。君もこいつを見に来てたのかい? やっぱ迫力あるよねぇ」
班長に向けて手を振りながら、パナマ帽を被った三十代半ばくらいの優男が歩いてきた。その顔を目にして、思わず固まる。
俺もよく知っている顔だった。
NInGen社における現在のトップ、マリオン・ユーレイ社長。
上層部の人間の執務室があるのは本社でもメインビルディングの方であり、普段は第二ビルしか使わない俺達が顔を合わせる機会は滅多に無い。話しかけられる経験となれば尚更だ。
もっとも、今だって話しかけられたのは俺ではなくミナ班長だ。班長自身はそれほど高い地位についているというわけではないが、ユーレイ社長にとっては前任者にあたるハンナ・カウフマン前社長の実の娘である。面識があったとしても、そこまで不思議ではない。
俺がいると邪魔だろうと考え、会釈してその場を立ち去ろうとする。
ところが、その途端に当の社長に呼び止められた。
「いやいや、そんな風に私に気を使う必要はないよ、蜜柑木ハルツキ君。私だって、馬に蹴られて死にたくはないからね」
「馬に……? 確かにこの古生物パークにはメソヒップスもいますけど、小さいしおとなしいから人を蹴り殺すようなことはしないと思いますが……」
俺が戸惑いながらも返事をすると、ユーレイ社長は苦笑した。
「おっと、この慣用句は知られてなかったか。失敗失敗」
それにしても、ユーレイ社長が一社員に過ぎない俺の名前まで把握しているのは意外だった。なにせこの人は、NInGen社トップとしての役割と権限をカウフマン前社長にほぼ丸投げしていて、一部の社員からは陰で『いるのかいないのかも分からない幽霊社長』と揶揄されているくらいなのだ。NInGen社の事業にも社員にも一切興味が無いものと思っていた。
「まあなんにせよ、ミナ君に新しく良い相手が見つかって良かったよ。ハンナ君も喜ぶことだろう」
ユーレイ社長の言葉に、班長は明らかに気分を害した様子だった。
「べつにハルツキはそういうのではないです」
「そうなのかい? 私はてっきりそうかと。こうして見ると、例の彼と少し雰囲気が近いような気もするし。まあ、私は写真でしか見たことがないんだけどね」
「ハルツキとあいつは全然似てませんよ。……母に余計なことは言わないでくださいよ?」
あいつというのが誰のことなのか、気にならないと言ったら嘘になる。しかしそれ以上に、班長の態度があまりにも露骨に悪くなっていくことにひやひやさせられた。この二人がどのくらい近しい間柄なのかは知らないが、仮にも相手は社長である。こんな態度をとって大丈夫なのか。
しかし俺の心配をよそに、当のユーレイ社長は特に気にしてはいないようで、飄々とした態度と口調をまったく崩さなかった。
「言わないのはいいけど、私が言おうが言うまいが、ハンナ君は私なんかよりよほど君のことを把握していると思うよ? 仮にも母親なわけだしね」
「……どうでしょうね。それよりあなたの方こそ、社長自ら何しにこんなところに来たんです? 私をからかうためですか?」
この話を続けたくなくて強引に話題を切り換えたのは見え見えだったが、ユーレイ社長はあっさりとそれを受け入れた。
「いやいや、ここで君と会ったのはただの偶然だよ。さっき、君もこのティラノ君を見にきたのって聞いたろう? そっちがどうかはともかく、私はこいつの様子を見にきたのさ。そうそう、聞いたかい? このティラノサウルスがこんな大きくなった原因、ようやく分かったって話」
それはまさに、最初にこいつと出くわした時からずっと気になっていた点だった。さんざんゲノム配列の推定をやり直しても作れなかったものが、なぜ研究者達の努力とは無関係に突然現れたのか。
「原因はさ、細菌だったんだよ」
「細菌? 病気で巨大化したということですか?」
「いや、病気というのとはまた違う話でね。あのティラノサウルス、普通の小さいやつとは腸内細菌が違ってたんだよね。で、その細菌が作る化合物が腸から吸収されて細胞の受容体にくっつき、遺伝子発現のパターンを変えていたんだね。そうやって遺伝子の働きが変わった結果、あんな風に大きくなったと、まあそういうことなんだよ。もしかしたら、本物のティラノサウルスの場合もそうだったのかもね。そうだとしたら、あれだけ何度もRREをやり直したのに大きくなる進化の経路が見つからなかったのも納得だよ。古生物をきちんと再現しようと思ったら、その生物単体に着目するだけじゃあ駄目ということなのかもしれないね。研究部門の皆も良い勉強になったんじゃないかな。あ、そうそう、それでさ、あのティラノサウルスの巨大化の原因になった細菌、なんだと思う?」
ユーレイ社長は、どこか悪戯っ子めいた笑みを浮かべている。その表情を怪訝に思いながら班長と顔を見合わせた後、俺達は二人揃って首を横に振った。
そんな話を俺達が知るはずもないではないか。
「それが傑作でさ。なんと納豆菌なんだよ。他のティラノサウルスの腸内にはいないことを考えると、自然に入るとも思えないし、あのティラノ君がまだ子供の時にどこかの誰かが納豆を食べさせて、その時に菌が腸に定着したんじゃないかって話になってるんだけど、ティラノサウルスに納豆食べさせるとか、いったいどこの馬鹿だよって感じだよね」
ティラノサウルスに、納豆?
俺は思い出した。こいつを捕まえたあの場所に、俺は昔行ったことがある。そしてその時、見かけたティラノサウルスの子供に……。
「……お前だったのか」
俺は二人に聞こえないように、そっと呟いた。
そして、今の話は聞かなかったことにしておくことにした。原因が俺だとバレた日には、何を言われるか分かったものではない。
居心地の悪さを感じ、残りの餌をこいつにやったらさっさとここを立ち去ろう――と思った時、その餌のパッケージに書かれている一文が目に入った。
『原材料の一部として、納豆を含みます』
このティラノサウルス用高タンパク飼料は、今期のイチオシ商品。売れ行きも上々だと聞いている。今頃は、各地のご家庭で飼われているティラノサウルス達が、これを食べていることだろう。
……さて。俺はこの一文についても、見なかったことにして良いだろうか。
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