「ああ、ようやく繋がった。研究統括部長、確認したいことがあるのですが――」
ミナ・カウフマンは母が通話要請に応えたことに胸をなで下ろしつつ、新たに脱走した二十五頭のフトゥロスの件について尋ねた。
しかし最初に返ってきたのは、小さな溜め息だった。
「その話なら、システムの誤作動で実際には脱走なんてしていないと既に通達を出していたでしょう。私は忙しいの。そんなことでいちいち連絡してこないでちょうだい、ミナ」
口調に苛立ちが混じる母の言葉に、ミナは違和感を覚えた。
ハンナは公私混同を嫌う。より正確に言えば、プライベートに仕事の事情を持ち込むことは平気で行うが、その逆、つまり仕事にプライベートの事情を持ち込むことは非常に嫌う。
ミナが実力不足にも関わらず危険古生物対策課第一班の班長に任じられた件について、イエナオなどはハンナからの圧力を疑っていたが、事実はそうではない。実際は、ネアンデルタール人で構成される人事部門が、自分達の同族がサピエンスの部下になることに抵抗を覚えたためである。
もし人事部門がハンナへの忖度を理由としてミナを班長の座につけたのであれば、ハンナはこれを厳しく戒めたはずだ。
母がそんな人間だからこそ、ミナも勤務中は彼女を役職名で呼んでいるのである。
ところが先ほどからのハンナは、まるっきり母親としての喋り方になっている。勤務中にミナと話す際は、その他の社員と接する時と同じように感情を交えず淡々と話すのが常だったというのに。
それに、叱る理由が『私は忙しい』というのも変だ。普段のハンナならまず、忙しい忙しくないに関わらず職務上は直属の上司でもなんでもない自分に直接連絡を入れてきたことを問題視するはずだ。逆に職務上の必要性があるのであれば、忙しくても自ら対応することを厭わない。
「しかし、ユーレイ社長はシステムがそのような誤作動を起こすことは考えづらいと……」
「実の母親よりも、あんな案山子の言うことの方が信用できるっていうの?」
今度は、職務上の判断にプライベートの関係を持ち込ませようとしてきた。違和感は増すばかりだ。
「酷い言われようだなぁ」
眉間に皺を寄せるミナの隣で、ユーレイ社長が苦笑しつつ小さく呟く。会話の内容がハルツキとユーレイ社長にも聞こえるよう、情報端末をスピーカーモードにしているのである。
ハンナは再び溜め息をついた。
「あなたは私の言う通り、地下に逃げ込んだ最後の一頭をどうするかだけ考えていなさい。何度も言ったけど、あなたはその仕事に向いてないんだから余計なことは考えずにこっちの言う通りにしていれば良いのよ。九歳の誕生日の時、私の言うことを信じなかったせいで酷い目にあったのを忘れたの?」
ここへきて、ミナは確信した。
母はあえて、普段の逆をやっている。言っていることも事実とは逆だ。『何度も言ったけど』と言うが、ミナは一度として、母にそのようなことを言われた覚えはない。
そしてなにより、九歳の誕生日にあった出来事はよく覚えている。
あの日、ミナは『今日は早く帰ってくる』という母の言葉を信じて夜遅くまで布団に入らずに待っていた。そして結局、冬だというのにテーブルに突っ伏したまま寝てしまい、風邪をひいて一週間も寝込むはめになったのである。
そう、母の言うことを信じたせいで酷い目にあったのだ。
「分かったよ、母さん」
試しに、仕事の場で敢えて『母さん』と呼んでみた。普段のハンナなら、間違いなく訂正させるところだ。だが、返ってきた言葉は「分かれば良いのよ」というものだった。
向こうで何があったのか、いったいどういう状況なのか、そこまでは分からない。だがこれは母からのメッセージだ。自分の言っていることは全て逆、つまりミナに向けた指示についても逆に受け取れ――そう伝えようとしているのだ。
「そんなに言うなら、母さんの言う通り地下に逃げ込んだ最後の一頭を探す作業に戻るよ。……でも私は、もうあなたにもあなたの計画にもうんざりだ。この件が片付いたら、私はこの島から出て行かせてもらう」
「べつにあなた一人がいなくなったところで、私は気にしないけれど」
「ああそう。じゃあそうやって周りの人間を切り捨てとけば良いよ。それで、いざという時に誰も助けに来てくれないことを知って泣けば良い」
わざと苛立たしげにそう言って、ミナは通話を切った。
これで伝わったはずだ。
こちらの言ったことも全て逆。母ならきっと、それを理解してくれている。
「それにしても、九歳の時のことをまだ覚えてたんだな……」
ミナは、小さく呟く。
ああ見えて、案外気にしていたのかもしれない。そう考えると、ミナは冷徹な顔の裏に隠された母の意外な一面を垣間見たような気がした。
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