狂気……。純白の積乱雲に飾られた蒼い空。そこに雄大な雲を座席にするかのように鎮座する、麗しの天使。穏やかに、柔らかく、澄み渡る微笑みが逆に恐ろしい。そして、ポスターの半分を占める血塗れの手……。誇らしく天を、女神を指さしている。その指から感じ取れるものは殺意だけだ。
「なに、これ……?」
これほど不気味なポスターは初めてお目にかかる。もはや気にするなと言う方が無茶な注文だ。京子は気にするなとだけ言って勉強の準備を始めたが、私にはどうしてもこのポスターが目に入って仕方なかった。それに、気になったままでは勉強に身が入らない。何も教えてくれない京子も不審である。
そう、あってはならないことなのだ。私たちふたりは友達である。隠し事はあってはならない。それが悩み事なら尚更だ。
現に京子の表情は暗い。このポスターに関しては、いい話を期待するべきではないようだ。それでも私は聞いた。このポスターは何かと。しつこいかもしれないが、決して京子の気持ちも汲まず、身勝手な好奇心に身を任せた質問ではない。京子の事情を理解したいのだ。
しかし、京子は答えなかった。口外は禁物なのかと問うと、そうではないらしい。では何故だと詰め寄ると、京子は条件を述べた。
「私のすべてを知っても、友達でいてくれる?」
恐る恐る問う京子の顔を見て、私は思わず笑みが溢れた。想定の遥か外だ。京子の闇を知った程度のことで絶縁するなど、もともと赤の他人だったことと変わりないではないか。理不尽極まりない理由で西岡を殴り飛ばした私の器も、そこまで小さくはない。
「そんなことで縁が切れるもんか」
そう言ってやると、京子はやっと安堵の表情を浮かべてくれた。そして彼女は、不気味なポスターに視線を移して語りはじめた。
どうやら、川村家は京子の曾祖父母の代から超少数派の宗教を信仰しているらしい。この宗教には軍隊で言うところの階級があり、川村家はその頂点に君臨する神聖な一族であるという。その理由は単純なもので、教祖が京子の曾祖父だったからだ。この身分制はトップのみ世襲制と決まっており、現在この宗教の代表は京子の父である。すなわち、次期代表は京子ということになる。
これだけ聞けば、なんだそんなことかと言うだけで済む。特に周りに迷惑をかける宗教でもないようだ。この国は信教の白由が保障されている。何も心配いらないではないか。
しかし、話はここからが本番であった。川村家が頂点に立つこの宗教には、予言と預言があり、教義に従う行動を示すことで信仰の証としている。
その予言は「近い将来、人々に悪魔が憑依して人々を操り、それに気づかぬ人々は自らの手で世界を破滅させる」という何とも胡散臭いものだった。預言とは簡単に言うと神のお告げのことだが、こちらも褒められたものではなかった。
時満ち足りし時、義と刃を以て戦うべし。誠意と血を以て神に尽くすべし。
つまり、悪魔が来たら熱い信仰心と武器を手にして戦争せよ、そして神への忠誠心と戦争で流れた血で神に服従を誓えば天国に行けるというのだ。
そこまで聞いて、ようやくこのポスターの意味を理解した気がした。それにしても、京子の曾祖父は物騒な予言をしたものだ。京子には悪いが、あんたの爺さん、インチキ宗教家じゃないか? 厨二病という言葉があるだろう。
そもそも、その悪魔とは何か。世界の破滅とは何か、戦いとはどんな戦いなのか、全くもって意味不明だ。京子がこんな宗教の次期代表とは、気の毒にも程がある。
京子も一応この宗教を信仰しているが、形だけだという。毎日決まった時間に礼拝して祈りを捧げるらしいが、流れ作業のようにして、誠意など込めたことはまるでないらしい。加えて、英語で書かれた教義の本を読まなければならない決まりもあるそうだが、教義の内容ではなく文法の勉強にあてているという。
早い話、京子はこの宗教が嫌いなのだ。大学進学と共にこの宗教を辞めたいと、京子は言った。私は力強く頷いて、その願いに理解を示した。
しかし、宗教を辞めるには代表の許可が要ると言って、京子は再び俯いた。現在の代表と言えば、先ほど挨拶した京子の父ではないか。
先ほど玄関でお目にかかって分かったが、京子の父は温厚誠実、人間の鑑という表現でも足りないほど優しい人物だから、相談すれば今からでも宗教を辞めさせてくれそうなものなのだが……。
どうやら、それは全くの見当違いらしい。普段は温厚なはずの京子の父は、実はこの宗教の熱狂的者で、とにかく教えに厳しい。背こうものなら名誉指導だと言って暴力を振るうのだという。代表の命令はたとえ家族であっても絶対なのだと京子は言った。
「父は、私を聖戦士にしようとしている」
京子が嘆くようにそう吐いた。なるほど、抜け出せないわけだ。あの男の、あの温厚な笑顔には裏があるようだ。重苦しい空気が部屋を包み込む。
しかしだ。しかし、だから何だと言うのか。宗教ごときに、人と人の関係が左右されてたまるか。そんなもの、懸念にも値しない。これほどの事情に、絶縁しなければならない要素が果たして存在しただろうか。否、断じて否である。
「それでも、私はお前の味方だ」
力強く言った。ただ、今は安心して欲しい。その一心で出た言葉だった。京子は満面の笑みで頷いた。
私と京子が友達であり続けることはもはや永久に約束されたも同然であった。窓から見える半月が、夜の訪れを知らせた。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!