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迷子の句読点
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【第八話】見守る者がいた

公開日時: 2024年5月25日(土) 17:00
更新日時: 2024年5月26日(日) 02:12
文字数:2,965

 痛い……。私、殴られたのか……? 痛い……本気で殴られると痛いんだ……。私を殴ったのはあの早田。どんなに圧力をかけても睨み返してくるだけの、あの生意気な早田だ。

 しかし、なんだろう。こう、なんだか清々しい……。突然、訳も分からぬまま殴られたというのに。なぜ私は、納得しているんだ。私の中で複雑に絡み合った何かが解かれていく。今まで、私を散々苦しめてきた鎖のようなものが、嘘のようにスルスルとほどかれていく。これでいいんだ。このまま流れに身を任せてしまえと、どこか今を許す自分がいる。

 もう、いいんだ……。もう、何もしなくていいんだ……。もうどうでもいいや。私は縛られなくていいんだ。早田……お前は……。


 気づけば、生徒指導室に来ていた。校長先生に教頭先生、生徒指導の先生と担任、そして私の両親……。仲間の親、そして早田の母も来ていた。殴られた箇所を応急処置した私たちは、早田家と向かい合う形で座らされた。

 早田の母は、真っ青な顔で頻りに私たちに頭を下げた。両親たち殴られた側の親は早田と早田の母を敵を見るように睨んだ。しかし、早田ときたら、まるで悪びれる様子もなく逆に睨み返してきたではないか。おいおい、なんて奴だお前は。人を4人も殴ったのに、堂々と喧嘩を売る目つきをしている。クラスを仕切る私の圧力に屈しないくらいだから、前々から只者ではないことは知っていたが、まさかここまでとは……。私は、とんでもない奴に喧嘩を売っていたのか。

 しかし、どうだろう。こんなロクでもない奴に殴られたというのに、私の気分は爽快だった。むしろ、なんだかおもしろい。早田アキがおもしろい。私は今、目の前に座ってみんなを睨みつけるお前に、魅力を感じている。

 あまりにも早田の態度が悪いので、とうとう担任が怒鳴った。


「お前には悪いことをしたという気持ちがないのか!」


 担任の怒声に続き、親たちがそうよそうよと同調する。そんな中、私の父はというと、ずっと黙っていた。早田の母が、早田に謝りなさいと迫っている。謝りたいのはこちらの方だ。早田に至っては感謝するだけでは足りないだろう。なんだか楽しい。この状況が楽しい。

 私にはわかる。もうすぐ私の所業が明るみに出て、私は退学になる。将来のことを考えると少し残念だが、もう構わない。もうどうでもいい。早田は呪いを断ち切る鋏を私にくれた。あとは私次第だ。渇望し、憧れた世界に行ける。あの最悪な家から出てってやる。そして生まれ変わる。私は生まれ変われる! 生まれ変わって見せる! だから早田、もう少しだけ、お前の力を貸してくれ……!


「なんとか言え! 謝らんか!」


「いじめを止めようともしなかった腰抜けが、また随分と威勢の良いものですね」


 満面の笑みで言い放った早田。室内が一瞬で凍りついたのも無理はないだろう。沈黙。重苦しい空気へと一変した生徒指導室。仲間たちと親の顔が真っ青になる最中、私はといえば笑いを必死に堪えていた。いいぞ、さすが私を殴り飛ばしただけのことはある。担任と仲間たちが顔を真っ赤にして喚きだしたから、一応、私も一緒になって参加しておいた。


 ああ、愉快だ。


 その後、その場で停学処分を言い渡された早田は、素直に喜びの声を上げて早田の母に叩かれると、一礼して生徒指導室を去っていった。その間際、校長は鬼の形相に変わり、私たちに校長室で待つようにとだけ言った。担任も仲間も、顔面蒼白であった。



 ありがとう早田、あとは自分でやるよ。



 校長に教頭、生徒指導の先生が揃った校長室で、私たちはまず質問された。


「早田くんが言ったいじめについて説明願いた

い」


 仲間たちは、一様にやっていないと否定した。仲間たちの親もうちの子がそんなことするはずがないと怒鳴った。


「先生、どうですかな?」


 すると、担任もいじめを否定した。やれやれだ。この担任はどうやらクズと呼ばれるに等しい人間のようだ。いや、それは私もか。お前たちはもはや仲間などではない。お前たちは既にこの私を裏切っている。自己保身だけを考えたエゴイスト共……。お前たちは、たとえ私がいなくてもどこかで人を不幸に陥れる、負の人間だ。ならば、今ここでその報いを受けてしかるべしである。私と一緒に地獄に落ちろ……!


「川村さんを、いじめました」


 突然、言い放った私に驚いたのか、一気に全員の視線が集まった。その時、ずっと黙ったままだった父の表情が一変したのを見逃さなかった。


「西岡くん、それは本当ですか? 何か心に隠していることはありませんか?」


 はい、ありませんとだけ答えた。曇りのない瞳で、まっすぐと。何かを察したのか、校長は悲しそうに言った。


「そうですか……」


「川村くん本人にも事情を詳しく聞き、これからの処遇について慎重に決めていこうと思います。保護者の皆様、生徒諸君、今日はお疲れさまでした。また後日お会いしましょう。先生は別室へ」


 校長はそう言って立ち上がると、一礼した。仲間とその親が顔面蒼白のまま帰り、担任も席を離れた。そして私も校長室を出ようと、椅子から立ち上がったその時だった。

 父と母が待てと言った。父は椅子から立ち上がり、校長に近寄った。


「校長先生、いくらですか」


「はい? いくら、とは?」


「ですから、いくら金を積めば、この件をなかったことにしていただけるのですか」


 父が私を守ろうとしている?


 すると、校長の悲しそうだった表情は一変した。


「西岡さんの証言がいじめかどうかは、今後慎重に判断します。それに、この件を金で解決するわけにはいきません」


 父は顔を真っ赤にした。


「どうせいじめということにされて退学にするんだろう! この出来損ないのために一体いくら学費をつぎ込んだと思っているんだ! 退学になったら、一家の名に泥を塗ることになる!」


 室内に響く怒鳴り声。私は確信した。そうか、父は私を見てなどいない。私という存在の向こうにある面目を見ているんだ。分かってはいた。分かってはいたけど……。悲しいな。これでもう本当に、父と母を愛せなくなる。


……その時だった。校長が、父の威圧をも凌駕する迫力で怒鳴ったのだ。


「実の我が子に向かって『出来損ない』とはけしからん!」


 あまりの迫力に、父と母は圧倒されてしまった。校長は迫力そのままに続けた。


「西岡さんは日頃から非常に勤勉で、成績優秀である! 憧れの部活に入部することを我慢して勉学に励み、授業に誰よりも真面目に取り組む姿勢はこの私もよく知るところである! それが何故かお分かりか!」


 校長が私を褒めている……?


 父と母は沈黙したまま何も言わない。校長の声は更に大きくなった。


「あなたたちを喜ばせてあげたいからだ! あなた方はそんな娘の筆舌に尽くし難い努力を見ていたのか!見守ってあげていたのか! 傷だらけの彼女を優しく包み込んだことがあるのか!」


 いつの間にか、涙が出ていた。教頭がそっと私にハンカチをくれた。


「話を聞く限り、あなた方が守りたいのは自分の面目だ! 娘が結果を出さないことに苛立ちを覚えて、それを自らにとっての苦痛と勘違いしているだけなのだ! そんなつまらんもののためにこれ以上この子を苦しめることはこの私が許さん!」


「うちのことに口出しするな! 私の苦しみはカ

ナエに勝る!」


父が言うと、校長は静かに、だが力強く言い放った。


「カナエくんの苦しみは死に勝るのです……!」

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