私はこの大学に行くべき。少し前まで、そう信じて疑わなかった。
幼い頃から父に「お前はここに行け。他は許さない」と言われ続けてきた場所。二人の兄と一人の姉も、この大学を出ている。後に続く者として、あそこは呪縛そのものだった。
父の定めた大学に合格するために、ありとあらゆる欲を犠牲にしてきた。友達と放課後に遊ぶ。部活に青春を捧げる。恋愛にときめく。高校時代にしか味わえないようなイベントは全て、受験勉強に吸い込まれたのだ。それなのに、そんな場所を第一志望にしている。伯父と伯母が心配しないわけがない。
「カナエちゃん、本当にそこでいいと? もちろん、カナエちゃんがそれで良かなら、伯母さんは全力で応援するばってん」
「うんうん。カナエの良かごとすればよか。ばってん、カナエの頭ん中に、父ちゃんの言いつけが残っとったら話は別ばい? 無意識にその大学を選んでしまっとるかもしれんし」
「………」
分からなかった。両親の呪縛が根強く残っているのかと聞かれたら、そうではないと断言できる自分がいる。そもそも、ここに越して以来、両親とは一度たりとも会っていない。電話も、手紙も、メールさえ交わしたことがない。あの凄惨だった過去は、すでにおぼろげな記憶となり、その時に味わった痛みすら、所々忘れかけている。
なぜ私は、あの大学に行きたいんだろう。無意識のうちに、両親の呪縛に引き寄せられているのか? それとも、純粋に私の意思がそこに向かわせているのか?
「ごちそうさま」
「あら、もうお腹いっぱい?」
「うん。ちょっと考えさせて」
そう言って、私は自分の部屋に籠った。座椅子に座り、何となくスマートフォンの電源をオンにする。写真アプリを開き、意味もなく上へ上へとスライドさせてみる。
流れ行く写真。楽しかった思い出の写真はあっという間に過ぎ去り、辛かった頃の写真がずらりと姿を現した。その写真から、過去の記憶を連想する。忘れかけている部分もあるにはあるが、正直、思い出すだけで吐き気がする記憶もある。
すると、ある写真に目が止まった。退学した高校で撮った、クラスの集合写真だ。確かこれは、2年次のものか。
体育館のステージ上、壁に掛けられた大きな日章旗と校章旗を背景に、ずらりと並べられたパイプ椅子。男女左右に分かれて座る生徒たち。にっこりと笑う者や、ぎこちなく笑う者。怒っているのかと問いたくなる顔の者や、シンプルに真顔の者。
……懐かしいな。写真の中央、右寄りに映る私は、カメラのレンズに目を合わせているのか、合わせていないのか……。どこか遠くをぼんやりと見つめるような目をしていた。私って、こんな顔してたんだ……。
少しだけ右に目を移すと、あの早田が現れた。かつて、私を殴り飛ばした張本人だ。早田ときたら、ムスッとしていると言うか、眠たそうと言うか。どこか不機嫌で、面白くなさそうな顔で映っている。
今思い返しても、早田という人間がとんでもない奴だっと実感する。すぐ睨んでくるし、何の前触れもなく顔を殴るし。……しばらく、早田の憎たらしい顔をぼんやり眺める。
早田なんて、まともに喋ったこともない。クラス替えで初めて会った時から、コイツとはウマが合わないと思った。実際、大嫌いだった。クラスを従えていた私に、唯一歯向かうような奴だったのだから。
……。早田──お前はいま、どうしてるんだ。
スマートフォンの画面が暗くなった。数分触らなかったから、自動で閉じたようだ。早田の不機嫌そうな顔がスンと消え、真っ暗な長方形の画面に、私の顔が映った。こんなに悩ましい顔をして……。
私は本当に無礼だな。
……。下の階から、伯父さんと伯母さんの笑い声が聞こえてきた。そういえば今日は、いま大人気のお笑い番組の放送日だ。伯母さんの作るボリューム満点の夜ご飯でお腹いっぱいになった後、みんなでアイスクリームを食べながら、そのお笑い番組を見るのがお決まりだ。私も見に行こう。確か、冷蔵庫にアイスクリームがあったはず。最近、勉強してばかりで疲れてたし。
1階に下りて、テレビのある部屋に入った。ソファに座り、ポテトチップスを頬張っていた伯母さんが、体をずらして私の座るスペースを作ってくれた。冷蔵庫から取ってきたアイスクリームとスプーンを持った私は、首を左右に振りながらソファの空いたスペースに座る。アイスクリームのフタを開け、スプーンですくったアイスをひょいと口に放り込み、テレビ画面に意識を移す。
愉快に暴れるお笑い芸人たち。おバカな子どもを演じる芸人がずっこけ、セットの家がドンガラガッシャンと崩壊してしまった。私も伯父さんも伯母さんも、大笑いした。
瓦礫の中のから這い出た子ども役を、母役の芸人がタライで叩いた。部屋は再び笑いに包まれた。
「アハハハ!」
「可笑しかねぇこの人」
「ね。この人、いつも何かしら壊しとーよね」
笑いながら、私はまたアイスクリームを頬張った。おいしい。
「あのね、私、やっぱりあの大学に行きたい。黙って考えとってもよぉ分からんくてさ。お父さんの言いつけが頭の中に残っとるのかもしれんし、私自身が純粋に行きたいのかもしれん」
「どっちも正しい答えばい。行ってみてから分かることもあるしね!」
笑いながらポテチを食べる伯母さんは、にっこりとした笑顔でそう答えた。
「うんうん。カナエの行きたかトコに行けばよか。胸張っていきんしゃい!」
伯父さんは笑いながら、片手に持っていた缶チューハイをグビッと飲み干した。
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