――一年前の春。二十五歳の俺は都立伸栄高校の教師になって三年目で,やっとクラス担任を任された。それも,三年生の。
「みんな,おはよ。席に着いてー」
三年一組の教室に入り,スーツ姿の俺が教卓の前に立つと,男女合わせて三〇人足らずのブレザー姿の生徒達が各々の席に着いた。
始業式の前に,俺と生徒達はザッと自己紹介を済ませた。が,教室の中に一つだけポツンとある空席が俺は気になった。
「なあ,あそこの席の……えーっと,森嶋瑠花は今日休み?誰か何か聞いてないか?」
新入生じゃあるまいし,もう三年にもなると,友達の一人くらいはいるだろう。そう思い,俺は教え子たちに問うた。
「先生,瑠花なら二日前から入院してるよ」
答えてくれたのは,江畑日奈という女子生徒だった。「瑠花」という呼び方からして,彼女は森嶋瑠花の友達らしい。
「入院?学校には連絡来てないな」
それよりも,俺はその答えの内容の方が気になっていた。
「わざわざ学校に連絡しなくても,あたしから先生に伝えてくれると思ったんだよ,瑠花のお母さん」
「そっか……」
少々納得はいかなかったけれど,もうすぐ始業式が始まるので講堂に移動しなければならない。仕方なく,この話はこの時には打ち切ることにした。
****
――その日の終礼後。
「おーい,江畑。ちょっといいか?」
俺は帰り支度をしていた江畑日奈を呼び止めた。森嶋瑠花の入院について,もっと詳しく話を聞きたいと思ったからだ。
「なに? 瑠花のこと?」
「うん。さっきはあんまり詳しい話聞けなかったからさあ。――森嶋はどこか悪いのか? 前々から,具合悪そうなところは何度も見てたけど」
改めて訊ねると,江畑は答えるのを少しためらった。
「あのコ,前から頭痛とか目眩がひどくて。総合病院の脳外科に検査入院してるんだよ」
「脳外科……?」
俺が眉をひそめると,江畑は「大丈夫だって。ただの検査入院だから」と言った。でも,何かが引っかかった。
脳外科なんて,めったにかからない医者だ。それだけで嫌な予感がしてしまった。
もしも彼女が重病だったら……と。
「俺,これから面会に行っても大丈夫かな?」
まずは自分の目で,彼女の状態を確かめたかった。確かめたうえで,自分の嫌な予感を追い払って安心したかったのだ。
「うん,会いに行っても大丈夫だと思うよ。もうあと数日で退院できそうだって聞いたし」
……そうか。会えるのなら,今は重篤な状態じゃないらしい。俺はとりあえずホッとした。
「あっ,でも面会時間は午後一時からだよ」
「ありがとな,江畑。んじゃ,午後から面会行ってくるよ。引き留めて悪かったな」
彼女にだって,これから予定があったかもしれないのだ。俺の都合でそれを狂わせたとしたら,何だか申し訳なかった。
「ううん,いいって。じゃあ先生,また明日ね!」
「ああ,また明日。気ぃつけて帰るんだぞ」
「はいは~い☆」
江畑は友人が多いらしい。俺と別れると,彼女を待っていた女子の友達と昼食の話をしながら下校していった。
****
――そして午後一時過ぎ。俺は新宿区内の大きな総合病院の五階にある,脳外科の病棟にいた。
三〇分ほど前に来て,病院内のカフェで軽く昼食は済ませてある。
瑠花の病室は575号室で,四人部屋だった。入って右側の窓際のベッドのリクライニングが起こされており,そこに彼女はいた。付添い用のパイプ椅子に座っている女性は,彼女の母親のようだ。
「あの,瑠花さんに会いに来ました。三年一組担任の木下といいます」
「ああ,先生ですか。どうも……,ありがとうございます。瑠花の母です」
俺に会釈した瑠花のお母さんは,何だか落ち着かない……というかひどく取り乱しているように見えた。俺の思い過ごしだったろうか?
「あっ,木下先生! 先生がわたしの担任なんですか?」
瑠花自身は思っていたよりも元気そうだった。
彼女のことは,前からよく知っていた。一年生の頃から真面目で面倒見のいい生徒だと,好印象を持っていた。
そして,彼女はすごい美少女でもあり,目立っていた。
俺は担任になったことはないけど,社会科の教科担当として彼女を教えたこともある。その授業の時も,彼女は俺の話を真剣に聞いてくれていたし,テストの成績も優秀だった。
そんな彼女はよく体調が悪そうにもしていて,それが俺も気にはなっていた。
「前から頭痛とかひどかったって? 江畑から聞いたよ」
「はい,心配かけちゃってすみません。もう,日奈ったら!」
最後には親友に毒づく彼女に,俺は軽く吹き出しそうになった。――二人が親友だと知ったのは,それから少し後のことだったけれど。
「江畑は悪くないよ。俺がムリに聞き出したんだ。だからアイツを恨むな」
「はい。――養護の村田先生には話してあるんですけど,このごろちょっとそれが長引いてるので気になって,診察に来たら検査入院することになっちゃって」
「もう検査は終わったのか? 退院はいつごろになりそう?」
「先生,すみません! ――瑠花。お母さん,ちょっとお茶淹れ換えてくるわね」
瑠花の母親が唐突に,急須を手に病室を飛び出していった。俺は何か悪いことを言ったのだろうか?
そして,瑠花の表情もこころなしか曇っているように見えた。
「なんか,お母さんの様子おかしかったな。俺,気に障ること言ったかな?」
「ううん,そんなことないと思いますけど。多分母は,わたしの看病で疲れてるだけですよ」
「そうかな?」
この母娘は何か隠してる。あの時俺は,そう確信した。そして後に,その確信は当たってしまったわけだけれど……。
「検査の結果ならもう出てます。あと数日で退院できるって主治医の先生がおっしゃってました」
「そっか。じゃあ,退院したら学校に来いよ。俺,待ってるから」
「はい。……あの,先生」
「ん?」
瑠花は何か言いかけて,「やっぱりいいです」と首を振った。その時に彼女は何だか思いつめたような表情をしていたのだが。今思えば,彼女はあの時すでに自分の死期が近づいていることに覚悟ができていたのかもしれない――。
****
――瑠花が入院している病院を訪ねてから,数日が過ぎた。
その前日,彼女の母親から「娘は無事退院しました。明日からでも登校できると思います」と連絡があり,その「明日」があの日だった。……そう,彼女から衝撃の告白をされた,あの日だったのだ。
「おはようございます,木下先生!」
校舎前で,ロングヘアーを下ろした制服姿の瑠花が,元気な声で俺に挨拶した。
「森嶋,おはよ。具合はどうだ?」
「はい,今はなんとか落ち着いてます。――あの,H.R.の前に,先生にお話があるんですけど……」
俺の何気ない問いかけに答えた彼女は,次の瞬間ひどく深刻そうな表情でそう言った。
話はおそらく,病院での検査結果についてだろう。けれど,ここは他の生徒や教員も通るし話しづらいだろう。
「分かった。ここじゃ何だし,場所変えようか」
俺は気を利かせて彼女を校舎裏まで連れて行った。そこで聞かされる話が,思っていた以上に衝撃的な内容とも知らずに……。
「……先生,あの。わたしの病気なんですけど」
瑠花は"おずおず"という感じで口を開いた。
「うん」
「脳に大きな悪性の腫瘍があるって。主治医の先生ももう手の施しようがないらしくて,余命宣告も受けました」
「……えっ!? 余命って……?」
彼女が打ち明けた病状は,俺が思っていた以上に深刻だった。それはこの時の俺にあまりにも大きすぎるショックを与えた。
「あと半年……いえ,もしかしたらそこまでもたないかも」
「そんな……」
俺は言葉を失った。教師として,教え子の余命宣告ほどショックなことがあるだろうか?
「でも,今は元気なんだろ?」
「はい……,薬で症状を抑えてるから何とか。でも,その効果もいつまでも続くわけじゃないので」
「……そっか」
つまり,彼女はこの時すでに,いつ死ぬか分からない状態だったわけだ。それを淡々と告げる彼女がとても痛々しかった。
「もう半年くらい前から,前兆みたいなものはあったんですけど。頭痛とか目眩くらいで病院に行くこともないかと思って,放っといたらこんなことになっちゃって。『なんでもっと早く病院行かなかったの!?』って,日奈に怒られちゃいました」
苦笑いしながら,彼女は言った。俺が江畑の立場だって怒ったろう。こんな,命に関わるくらい病状が進む前に受診しろ,と。
それにしても,江畑も彼女の病気のことを知っていたとは……。
「江畑にも話したのか? 病気のこと」
「はい。日奈はわたしの幼なじみで親友なので。わたしのこと,自分のことみたいに喜んだり泣いたり,心配したりしてくれるすごくいい子なんです」
「うん,分かる気がする」
江畑が瑠花に怒ったのはきっと,本気で彼女の体調を心配しているからだ。
「あのね,先生。わたし,死ぬことは怖くないんです。もう覚悟はできてますから」
「そんなこと言うなよ。再検査とか,セカンドオピニオンとか受けたら,まだ希望は――」
「いいんです」
「希望はあるから,諦めるな」と言おうとした俺の言葉を,彼女は首を振りながら遮《さえぎ》った。
「いいんです。わたしは別に生きるのを諦めたわけでも,自暴自棄になってるわけでもないですから。それよりもわたし,悔いだけは残したくなくて。まだちゃんとした恋愛だってしたことないんですよ」
「うん」
……そうだろうな。俺は頷いた。死ぬことが分かっているなら,心残りなく穏やかに最期を迎えたいだろう。
「それでね,木下先生。先生にお願いがあるんですけど。聞いてもらえますか?」
「うん?」
「わたしの残された時間を,先生に預けます。だから,その間わたしの恋人になってくれませんか?」
「…………え?」
俺は耳を疑った。告られた? 教え子に??
幻聴だと思い込もうとしたけれど,衝撃的な告白をした彼女の目は,どう見ても真剣だった。
「ダメ……ですか?」
困った顔で,彼女は項垂れた。それはまるで,飼い主に叱られて耳を垂らしている犬みたいに見えて,俺は不覚にも「可愛い」と思ってしまった。
「いや,ダメってことはないけど……。なんで俺なの?」
俺は教師としてのキャリアもまだ浅いし,「教師と教え子の恋愛はご法度」という凝り固まった考え方はしない。ただ,どうして自分なのかという疑問が湧いただけだ。
「わたし,前からずっと木下先生のこと好きだったんです」
「マジ⁉ ……俺のどんなところが?」
突然の告白に驚いたあと,俺は彼女に訊ねた。女子生徒にモテる要素なんてあるのだろうかと,自分では思っていたから。
「先生の授業,すごく分かりやすくて面白いし。それに,わたしが具合悪い時,いつも心配してくれてますよね。そういう優しいところが好きです」
そう答えて,彼女は少しはにかんだ。照れていたのか,頬を赤く染めていたのが可愛かった。
「いや,それは教師として当然のことで……。でも,俺のことそんな風に思っててくれて,ぶっちゃけ嬉しいよ。ありがとな」
「いえいえ! ……先生,お願いします。先生じゃないとダメなんです。わたしの,最期の恋かもしれないから」
「最期の恋」なんて。そんな告白,悲しすぎるだろ。……でも,死期を悟った彼女の望みなら,叶えてあげたいと思った。彼女を見捨てることなんて,俺にはできなかった。
「ホントに,俺でいいのか?」
「はい」
彼女の縋るような眼差しに,俺は心を決めた。
「分かった。いいよ」
最期の瞬間まで,俺は彼女の側にいて見届けよう,と。この時に俺を突き動かした力は,多分恋だったんだろうと今なら分かる。
「ありがとう,先生!」
俺の返事を聞いた瑠花は,今にも嬉し泣きしそうだった。
そして,なぜかいきなり敬語抜き。彼女はきっと,早く俺との距離を縮めたかったのだろう。そんなところも俺にはいじらしく感じた。
「――あのさあ。俺達の関係,周りには秘密にした方がいいよな」
もしも二人の関係が問題になった時,彼女が傷付くのは堪えられなかった。
「うん。でも,日奈には話しといていいかな? 先生と付き合うこと」
「江畑ぁ?」
俺は思わず,声を上ずらせた。
「大丈夫だよ,先生。日奈は口が堅いから,他の人には絶対言わない。日奈のこと信用していいよ」
「うん……,それならいいんじゃね?」
こういうことには,一人くらい味方になってくれる人間がいた方が,彼女にとってもいいのかもしれないと思った。
「でもね,先生。わたしの病気のこと,クラスの他の子には言わないで?」
「どうしてだ?」
「病気だからかわいそうって思われるのイヤだし。それに,みんなにまで先生みたいなツラい思いはしてほしくないから」
ネコは死期を悟ると,飼い主や親しい人の前からひっそりと姿を消すという。この時の瑠花もそんな感じだったのかもしれない。
「ホントにそれでいいのか? ツラい思いするのは森嶋の方かもしれないんだぞ?」
「うん,いいの。みんなにはいずれ,わたしの口から話すから。……ね,先生,お願い」
それももう,彼女が決めたことだったのだろう。その揺るがない決意に俺は拒むのを諦めた。
「……分かった。森嶋がそうしてほしいなら,俺からは言わないよ」
渋々だけれど,折れることにした。
「ありがと」
でも俺は,いざ彼女がツラい立場になった時には,江畑と共同戦線を張ろうと決めていた。彼女を守りたかったから。
――だいぶ彼女と話し込んでいたらしい。時計を見たら,H.R.が始まる一〇分前になっていた。
「森嶋,そろそろ教室に行かないとな。先に行ってて。俺は職員室に寄らないと」
「あっ,ホントだ! じゃあ先生,また後でね」
俺に手を振りながら校舎に向かっていく彼女を見送ると,俺も職員室のある本館校舎へ向かった。
あまりにもショッキングすぎる告白と,その時目の当たりにした彼女の潔さは,今でも忘れられない。
「みんな,おはよ。席に着いてー」
出席簿を手にして教卓の前に立つと,瑠花の席の側に立っていた江畑も自分の席に着くなりなんだかニヤニヤ笑っていた。
多分瑠花は俺が教室に入る前に,親友である江畑に俺との交際について話したのだろう。
親友の恋が実って嬉しいのはよく分かるが,他のクラスメイト達の前でニヤニヤするのはやめてほしい。
「はーい,じゃあ出欠取るぞー。藍川ー」
「はい」
……江畑は当然出席。出欠確認も終わりに近づき――。
「森嶋ー」
「はい」
このクラスの担任になって初めて,俺は学校で彼女の出席確認が取れた。
空席が,やっと埋まった。
****
――昼休み。昼食を済ませた俺は,保健室を訪れていた。別にどこか具合が悪いわけじゃないし,ケガしているわけでもない。
瑠花の病気のことを,保健医の村田久実先生も知っているらしいので,彼女に瑠花のことを相談したかったのだ。
「森嶋さんの病気? ええ,本人から話は聞いてますよ」
俺より少し年上らしい村田先生は,俺の前にお茶の湯呑みを置きながら,特別驚いた様子もなく頷いた。
「やっぱりご存じだったんですね。じゃあ,彼女が余命半年だってこともご存じなんですか?」
「……ええ。それには私も,さすがに驚きましたね」
彼女もショックが大きいようだった。教職員をやっていて,教え子から余命宣告をされる経験自体,稀だろう。
「実は今朝,僕も森嶋本人から聞いたんです,その話。……ショックでしたけど,彼女はもう覚悟を決めてるようで。セカンドオピニオンも再検査も受けるつもりはないって」
そんな悲しい事実をためらいなく受け入れた彼女は,潔いけれど痛々しく見えた。
人間,そんなに簡単に自分の死期を悟れるものだろうか? ましてや,人生まだまだこれからという高校生が。
口では「死ぬのは怖くない」と言っていたけれど,本当は怖くて仕方なかったんじゃないだろうか? ……俺はその時,そんなことを考えていた。
「僕たちは,見守るだけで何もできないんでしょうか? 森嶋には,もっと生きててほしい。せめて卒業を見届けるまでは……。なんか,すごくもどかしいです」
俺達は教職員であって,医者じゃない。だから,「生きていてほしい」と願うことはできても,彼女の寿命を延ばすことはできない。
もし医者であっても,本人が延命を望まないことにはそれも叶わないのだ。
「そうですね……。私たちにできることは,彼女を最期まで見守ることだけでしょうね。彼女が悔いなく,穏やかにその瞬間を迎えられるように」
「……ですね」
俺は止めていた息を吐き出すように頷いた。
彼女に悔いを残させないために,俺は彼女と交際することに決めたのだ。……そのことまでは,村田先生には話せないけれど。
「彼女の病状,今は薬で抑えられてるそうなんですけど。いつ悪化するか分からないらしいです」
「じゃあなおさら,よく注意して見てあげないといけませんね。何か兆候が見られたら,私に相談して下さいね」
「はい」
今より重い症状が出たら,その時は俺も覚悟しないといけないってことだろうか。彼女との……永遠の別れを。
その時の俺は,そのことを現実なのだと改めて思い知らされた。
「木下先生,お茶冷めますよ?」
「あ……,ハイ」
深刻な顔で考え込んでいた俺に,村田先生が呆れ顔で湯呑みを指差して言った。
その時のお茶がすごく苦く感じたことを,俺は今でも鮮明に覚えている。
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