空はすっきりと晴れ、穏やかな風が良く手入れされた芝生の上を吹き抜けていく。
大きな樫木やアーモンドなどの高木、白い花をつける低木などがバランス良く配置され、白い木造の東屋がある小さな薔薇園には膨らみかけた蕾たちが風に揺れる。
豪華さはないが落ち着いた雰囲気の庭園は、何より空と緑とのバランスが良い。
私は無意識に深く息を吸い込むと、自然豊かな大地の匂いが気持ち良く肺を満たしていった。
体の締め付けが少ない肌触りの良い外着に着替え、私は庭を散歩していた。私の後ろには心配そうにこちらの様子を伺いながら歩くジーナ。
まぁ、今までを知ってるジーナにしてみたらハラハラドキドキに違いない。現に、こうやって外に出る為に説得し納得してもらうのに30分掛かったのだから。
しかし、ベッドで寝てばかりいては体力が落ちるばかりで全然良くならない。まずは短い時間でもゆっくり散歩して体を慣らしていかないと!
「日差しが暖かくて気持ち良いね、ジーナ」
「そうですね。……お坊ちゃま、あまりムリはなさらないでくださいませ」
「うん、わかっているよ」
わかってると言いながら苦笑してしまうが、まぁ、私がジーナの立場だったら同じ事を言っているかもしれない。それくらい、この体の主ーフェリックス・グリーウォルフは強そうな容姿に反して生まれた時から病弱でベッドの上で過ごす事が大半だったのだ。
ゆっくりと、本当に前世での歩くスピードの半分にもならない亀のごときゆっくりとした歩調で歩きながら、じっくりと庭園を観察していく。
前世で見たことのある植物から似ている植物、見慣れない植物まで様々。わずかばかりの知識では、何となく植物たちの見分けはつくものの、ハッキリとは分からない。
(今度、庭師のサシャのところへ行ってみよう)
そう考えながら、私はジーナを振り返った。
「そろそろお屋敷に戻ろうか」
「はい」
わずかにホッとした様子を見せたジーナは私と屋敷の間に立つ形になっていた己の体を一歩横に移動させ、道をあける。判断し、行動するまで一秒足らず。侍女ってスゴイな、としみじみ思う。
私がもし職業侍女だったとしてアレが出来るだろうか? いや、無理。飲食サービス業を経験していたらまだしも、前世は事務員だ。おまけに、優雅さとか品良くとかとは無縁のがさつな、毎日が戦場のような生活だった私。
しかも、四人兄弟の一番上で、下三人が男。父親からは、お前が男だったら良かったのにな、と残念そうに言われていたくらいなのだから。色々
確実にやっぱり無理。
(……ある意味、お父さんの希望通りに今は男になった訳だよね。こんなの想定外だけど、何だかしみじみしちゃうなぁ)
この体と環境にはまだ慣れないがとにかく、今の最優先課題は体力回復! 健康促進! である。
そんな目標を自分の中に掲げ真っ先に思いついた事。一番簡単に出来て、そしてもっとも健康に影響を与えるものの一つ。それは食! 食はすべての基本! 食事の改善が必須だった。
(医食同源。まさにこれ! 改善するには改めて敵を知る必要があるわね)
そう考えた私は久しぶりに晩餐室で夕食を取ることにした。家族皆が晩餐室に揃うのは久しぶりで、母上のシャルロットも弟のセバスチャンも嬉しそう。父上のヴィクトーは相変わらず厳つい表情を崩さないが、口元が時折モゴモゴと変な形に歪むのを見逃さない。顔が緩むのを必死に堪えてるのだろう。
私は前世を思い出してから、ヴィクトーの機微の細々に目敏くなりギャップ萌えにキュンキュンしまくりで困る。
おまけにセバスチャンの可愛さにも毎日キュンキュンだし、母上の眼福ものの容姿で甘やかしてくるのなんか、もう目が潰れてしまいそうな
程キラキラして死んでしまいそうである。
そんな私のハートのストライクゾーンに球を投げ込みまくる家族と一緒に食事ができるのは私も嬉しい。今までのフェリックスとしての食事は一人ベッドの上で寂しかったから。
「今日はね、フェリックスの好きなものを用意させたのよ」
にこにこと笑顔で嬉しそうに言う母上の言葉を待っていたかのように料理が運び込まれてくる。
「わぁ、嬉しいです母上」
うん。それは本当。本当なのだが…………
目の前に並べられていく料理の数々。
グリーウォルフ男爵家は貴族の中でも末席に近い。貧乏という訳では無いが大金持ちという訳でもない。元は豪商の出らしく、とあるご先祖の時に男爵の位を賜ったらしい。
どんな経緯で男爵になったかまでは聞いていないが、グリーウォルフ家のピークはその初代であり、あとは緩やかな右肩下がり。
それでも祖父の頃から領地経営はなんとか横ばいをキープしているそうだ。
そんなグリーウォルフ男爵家なので家訓は質実剛健。無駄や見栄を嫌い、堅実に安定を取る。まぁ、言ってしまえば地味。欲と見栄の渦巻く豪華絢爛な一般的貴族社会からは完全に一歩も二歩も引いていた。
しかし、それでも腐っても男爵家。他の貴族の家よりは大分質素な食事だとは思うのだが、用意されたのは完全にフルコースのそれである。体力のパラメーターが低い私にとって、目の前のお皿の上に乗った油でキラキラ輝く分厚いお肉は見ているだけでも結構しんどいものがある。
他の皿も肉料理がメインで野菜が少ない。
(…………見てるだけで胃の辺りが重い………けど)
「……………いただきます」
暫し固まっていたが、意を決してまずはスープを口にした。温かいスープでまずは胃を慣らしてから、と思ったのだが…………
「んぶっ!?」
小さく吹き出し、ゴホゴホと噎せてしまった私に慌てて執事と侍女が駆け寄ってくる。母上も立ち上がってるし、父上もセバスチャンも心配そうにこちらを見ていて恥ずかしい。
「だ、大丈夫です。ちょっと、むせてしまって……すみません」
ごほん、と大きく咳払いをし、落ち着いた私は手の中のスープに目を落とした。胡椒たっぷりの胡椒スープですか? と問いたくなるようなスパイシーな味の濃いスープ。
いつもはまだ刺激の少ないスープのはずだが、今日はフェリックスも同席ということで料理長が張りきったようだ。
そう。お貴族様のお料理はお肉過多野菜不足の香辛料まみれのスパイシーがこの世界では一般常識。付け加えると、ビュッフェ並みの量の皿がテーブル一杯に並べられ、お貴族様はそれらから好きなものを少し食べて残した物は破棄という、超贅沢! そんな勿体無いことする奴は呪われてしまえっ!!
…………おおっと、失礼。
まぁ、グリーウォルフ家の場合は食べ物を粗末にするなど言語道断なので、食べられる量しか出てこないのだが、味付けは………
再び意を決した私は小さく切ったお肉を口に入れ、良く噛む。これでもか、と言うほど噛む。ひたすら噛んで、お肉の形が無くなってようやく飲み込む。そして、またお肉を一口。お肉の次は付け合わせの野菜。そして、またお肉。
モグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグ………ゴクン。
モグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグモグ………ゴクン。
家族に比べて明らかに食べる速度が遅いが、気にしない。出来るだけ歯ですりつぶし、唾液で消化の手助けをしないと胃痛に悩まされそうなのだから!
え? 残せば良いじゃないかって?
そんな事は私の信条から外れるのでノーである! そんな訳でひたすら噛んで噛んで噛みまくって、完食を目指して噛むのである。
皆よりかなり遅く、周りが心配そうに見守る中なんとか完食すると何故か拍手が沸いた。そんな拍手を受け、重たい体を引きずりながら部屋へ戻ってくると私は深くソファへ沈み込んだ。
満身創痍。そんな私にジーナが紅茶を淹れてくれる。
「はぁ。おいしい~」
「ふふっ、ありがとうございます。嬉しいですわ」
優しく胃の中が温まっていく感覚に、ほぅっと出た素直な感想にジーナは微笑み、そして次に少し首を傾げながら言った。
「お坊ちゃま、体調が戻られてからなんだか少しお変わりになりましたね」
「えっ! そ、そうかな?」
ジーナの言葉に内心焦りつつも、できるだけ平静を装いつつ笑顔を向ける。
(まさか、気付かれた?! 中身が26歳の地味な、しがない事務員だということに! …………いやいや、そんな事はないはず。昔の記憶はあるけど、フェリックスとして9年間生きてきた記憶もちゃんとあるし)
性格やら思考やらは生きてきた年数の長い前世がだいぶ大きな割合を占めてしまっているとは思うのだが、それでもフェリックスの記憶と経験を元に今までのフェリックス君の生活を乱さないよう気を付けて行動しているつもりだった。
「えと、たとえば……ど、どこら辺が?」
恐る恐る私はジーナに尋ねてみると、ジーナは困ったように片手を頬に当て、少し眉を寄せる。
「どこ、と仰られると困ってしまうのですが………何となく、でしょうか」
「なんとなく…………」
女の勘、というやつだろうか?
たしか、ジーナはフェリックスが産まれたときからこの屋敷で働いていて、フェリックス付きの侍女としてもう7年になるはず。6歳から部屋を与えられると、病弱な私に朝夕問わず、それこそ付きっきりで側にいてくれた。
確実に、母上であるシャルロットよりも一番長く一緒にいるのはジーナだ。
(ふむ。私としては『今まで通り』のつもりだったのだけど、もう少し言動に気を付けた方が良いのかも)
そう私が思案していると、パッとジーナは表情を笑みに変えた。
「でも、あまりお気になさらないでくださいませ。私の勘違いだと思いますし。それに、お坊ちゃまは今、1日1日お体もお心もどんどん成長なさっている時期でらっしゃいますから。まずはゆっくりお休みになられて、お体を大切になさってください」
余計な不安や考え事を与えて要らん気苦労を掛けてはいけない、と思ったジーナは少し早口で言葉を繋ぎ、さぁさぁ、と私をベッドへと優しく立たせる。
そんなジーナに着替えを手伝ってもらい、ベッドへ潜り込んだ私はおやすみの挨拶をし彼女が部屋を出ていくのを見届け、目を瞑った。
前世での私の家族の事や仕事先の皆の事、親友のめんちゃんの事が気にならない訳ではないけど、今はフェリックスとしてフェリックスの生活に慣れる事に気持ちが向いていた。
空が白々と明るくなり始め、次第に賑やかになる鳥のさえずりを聞きながら私は目を開ける。
前世と現世の記憶が突然ごちゃ混ぜになった時は、今見ている天井に随分と違和感を感じて落ち着かないものだったが、今では随分と慣れた。
ジーナが起こしに来るにはまだ大分早いが、私はベッドを出ると部屋の隅にある姿鏡の前に立つ。そこに映るのは9歳の少年。栗色の髪は少し癖毛のようで大きく緩やかに波打ち、日本人の黒目とは真逆の明るいヘーゼルの瞳はいまだにちょっと慣れない。
私は鏡の中のその明るい色の自分の目を覗きこむ。
「私の名前はフェリックス・グリーウォルフ。グリーウォルフ男爵家の長男。現在、9歳。私はフェリックス。将来、立派で尊敬できる貴族になる。私は貴族。私は貴族」
鏡の中のフェリックスを見つめブツブツと呟く私。
頭がオカシクなった訳じゃあございませんことよ? 自己暗示と言っていただきたい。
性格や思考回路が前世の26歳を引きずっているのなら、自己暗示でも役に成りきるでも何でもいいからとりあえず自分自身が意識していなくてもフェリックス・グリーウォルフとして振る舞えるように刷り込めば良いんじゃないかと思ったのだ。
……まぁ、このやり方が効果があるのかは分からないが。
兎に角、朝に自己暗示作戦を試してみることにしたのだが、まぁ、こんなとこ見られたら病気で脳ミソやられたかと心配されるのがオチなので、こうやって朝も早くから起き出してこっそりブツブツ呟いているのである。
一通り呟き、窓の外を眺めながら体を伸ばしたり腕振りしたりしていると、扉がノックされジーナが入ってきた。
「おはようございます、お坊ちゃま! 今日はお早いですね」
驚きの表情で言ったジーナに私はニコニコ笑いながら頷いた。
「うん。鳥の声で目が覚めたんだ。今日も晴れて気持ち良さそうだね」
「そうでございますね」
最初のうちは驚いていたジーナだったが、私の調子が良さそうなのを見てか嬉しそうに私の身支度を整えていく。
グリーウォルフ家の朝食は夜に比べればとてもシンプルで、パンにスープ、サラダにハムかベーコン、ゆで卵に果物だ。朝食を家族でいただきながら、やはり当面の問題は夜ご飯だなと私は考えていた。
あの、胃への爆弾のような晩餐をどう回避するべきか?
朝食後に私はペンとインク瓶、紙を持って図書室へと向かった。昔から病弱なフェリックス君の調子が良い時の過ごし方は図書室で本を読む事だったので、ジーナは私を図書室の中へと見送ると自分の仕事へと去って行った。
質素倹約地味男爵家のグリーウォルフ家だが、唯一の自慢とも言えるのが図書室だ。どうもグリーウォルフ家の当主は代々本が好きなようで、長年代々の当主たちが集めた本が広い室内に整然と、だが所狭しと備え付けられた立派な本棚にぎっしりと並ぶ様は壮観の一言。
フェリックスだけでなく、私も長年図書館のお世話になってきた身としてこの環境は歓喜でしかない。
何度見ても飽きない景色にほぅ、とため息を吐きしばらく紙とインクの独特な匂いを楽しんでいたが今日の目的を思い出し、私は窓の横に置かれた簡素ながらもしっかりとした造りのダークブラウンの机に座り、真っ白な紙を広げペンを握った。
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