夜、自国の敗戦を知らぬサルタンは、一人でいた。
ここは、神殿騎士に宛がわれた屯所の中であった。
神殿騎士は、カテドラル派の私兵であり、屯所と呼ぶのはどうなのか、度々《たびたび》、そんなことをいう者もいた。
しかし、実際、彼らは警察ではないにしろ、その働きは都市の治安へと貢献しており、何か用事でもあれば、そこに行けばよいのだから、一定の合理、そして便宜があると、考えられていた。
(いつもであれば、ここにヒューリが居た筈なんだがな……。)
サルタンは物憂い表情で、葡萄酒を口に含んだ。
もう、暫くと飲み続けている割には、いっこうに酔っていく感覚が無かった。
サルタンは、本当に酒精が入っているのかと、グラスの匂いを嗅いだ。
途端、芳醇な葡萄の香りに混ざる様に、ほのかなアルコールの匂いがした。
「はあ……酒臭い。」
ため息が出て、その後、嫌な言い方をしたのは、八つ当たりである。
酔えない理由は、酒などではない。
そのような事は、初めから解っていた事であった。
概略だけ辿る。
あの日、サルタンは結果的に、真っすぐに進んだヒューリ隊、その少し後にミコ・サルウェに入る事になった。
そして、サルタンも侵入。
暫く行くと、どう見ても人の手が入った、果樹林地帯に入る。
木々は整然としているも、視界は決してよろしくない。
サルタンにとって、自分でも女々しく思いながらも、未だに、この侵略に対する抵抗感は拭いされていなかった。
人の生活の痕跡を見つけただけでも、成果と言えるんじゃないか。
一度、後退して、ヒューリに呼びかけ、対応を話し合おう。
結局、サルタンは、そんな日酔った行動をした。
そして、後退し、布陣した地へ、ヒューリ隊の兵士が、天使をつれて現れたのだ。
サルタンは、驚愕と共に感動した。
スカリオンでは誰も、神は愚か、天使にすら会ったことはないのだ。
故に、信仰となる。
しかし、天使は確かに、美しく、そして、世界に存在していた。
サルタンは思う。
------好機が来た。
まず、天使様には、是が非でも、我が国にお越し頂かなくてはならない。
サルタンは、その為にはどのような事でもすると、ついに腹をくくった。
これは、ヒューリの手柄だ。
自分にとっても、戦略目標を達せられる。
(サルタンの知る小さな)世界にとっては、神の降臨にも等しい事柄。
サルタンは、天使の護衛を引き継いだ。
そして、ヒューリには一刻も早く帰還する様にと、伝令を命じた。
自身の隊の精鋭10人を募り、他残りは、天使を攫っている以上、追っては必ず来るだろうと、敵を分散し、足止めする為に果樹林でも陽動侵攻をさせた。
彼にとって幸い、追手はつかなかった。
サルタンは、泣きじゃくる天使に心を痛めながらも、なるべく丁寧に、しかし、奪い返されぬように、限界まで急ぎ帰郷した。
例え、ヒューリが連れ帰ったとして、家柄の影響、そして隊長であるサルタンの手柄になるのは既定の話。
ならば、報償はなるべく多く、確実に踏んだくり、分配してやることが、友として、サルタンに出来る最上であった。
しかし、ここでサルタンを悲劇が襲った。
夜闇も深まる強行軍の中、泣き疲れ眠る天使が、そのまま息を引き取ったのだ。
真っ黒に染まっていく天使の髪や翼。
それはサルタンたちの鏡像で、天使に彼等の堕天を言い渡されている、そんな様に感じた。
------なんたる失態か。
サルタンは己に失望し、天使の死体を前に暫く茫然とした。
だというのに、更なる悲劇は彼を休めてはくれないのだ。
自らの首魁たる教皇の元へ行き、天使の亡骸を引き渡した後の夜半、ヒューリ隊の全滅をサルタン隊の生き残りによって聞く事となる。
そして、教皇からは、天使は蛮族の元に長く虜囚の身であった為に、現在は病に臥せっておられる。
そう、一般には発表され、そのうち、介抱の甲斐なく、亡くなられたという事になるだろう。
お前は、天使を救済した英雄になる。
と聞かされた。
サルタンは、ヒューリが手に入れるはずの物も含め、全てを手に入れてしまった。
やりきれなかった。
(空虚だな……。俺は何をやってるんだ?)
この所、毎晩の様に酒を飲んでいる。
その酒飲みも、ヒューリが居た頃の真似事がしたかっただけだ。
彼が居た頃は、酔いの力を借りると、30過ぎのいい年をして、互いに一晩中、夢を語り合ったりもした。
(……っ……。)
楽になりたかった。
結果は、より感傷的になっただけで、少しも楽にはならなかった。
(最低の気分だ。)
もう、これ以上、飲む気にならない。
サルカンは、膝をぴしゃりと叩き、立ち上がった。
杯と酒瓶をひとまとめに。
それを、盆代わりの板に乗せると、抱えて部屋から出た。
食堂に併設された、調理室へと向う。
ここでは、神殿騎士が当番制で、調理、皿洗いをすることになっている。
別に、下っ端だからとやらされる事では無い。
彼らは、騎士と言う戦人であり、料理人ではないのだ。
雑用は手慣れたものが、指導した方が早く終わる。
ここでも、精神より、合理性を重視するカテドラル派の考え方が反映された慣習があった。
歩きながら、サルタンが、チラリと酒瓶を見ると、少しの酒がまだ残っている。
呑みさしで悪いが、酒は酒だ。
残りは誰かが飲むだろう。
それとも、恩着せがましく、差し入れという事にでもしてしまおうか。
そんな事を思いながら、今日の調理担当の顔を思い出そうとした。
調理室には、一度、食堂を通る必要がある。
そう遅い時間ではない。
しかし、その日は珍しく、サルタンが食堂に入るとそこには誰もいなかった。
先日の遠征から日も浅い。
自分と同じように、友を亡くしたものばかりだ。
疲れもあるだろう。
一人で居たいのだろう。
そう、勝手に納得し、調理室へと繋がる、ベージュ色の垂れ幕をくぐった。
ベテランのユルト、そして、まだ3年目、若手のレニーが仲良く台所に突っ伏していた。
(誰も来ないからって……。暇すぎて寝ているのか?)
サルタンは、眉根を寄せて二人に近づく。
流石に、このまま放置は出来なかった。
「おい! ユルト! レニー!」
呼びかけるが、反応はなかった。
(そんなに疲れているのか?)
いくら何でも……とサルタンは、不信に思った。
レニーを起こそうとして肩を揺すった。
(!?)
薄手の夏着で、素肌の晒された肩は、サルタンが思っていたよりも冷たくて、彼は身体を一瞬ピクリと震わせた。
最近、これと似たものを、間近にしたことがあった。
ゾクゾクと嫌な予感が、指先から頭頂までを駆け抜けていった。
その予感を振り払う為、サルタンは、思う以上に強くレニーの身体を揺すってしまった。
「おい!! レニー起きろ!」
------バタン
レニーは目を覚ますことなく、そのまま床に崩れ落ちた。
「え?」
レニーは息絶えていた。
血の気が引いて、汗が額にジワリと浮かび上がった。
職業柄、一般人に比べれば死人には慣れていると言える。
しかし、それは戦いの場、一種の興奮状態での話だ。
平時からそうと言う訳ではない。
「嘘だろ?……おい! ユルト! 起きてくれ!」
ユルトにも声を掛けた。
しかし、此方も反応がなく、サルタンが触れると、レニーと同じく、生きる者が持つ暖かさはすでに失われていた。
「うそだろ?……死んでる? 何故だ?」
意識が茫洋とする。
しかし、瞬時に我を取り戻すと、調理部屋から飛び出して、大声を上げる。
「おい! 誰か来てくれ! ユルトとレニーが!」
屯所は静まり返り、なんの反応も帰ってはこない。
(そんな……ありえない。)
屯所内を走って人を探すが、誰も見つからなかった。
何が起きているのか解らず、気が動転する。
神殿騎士は、常備戦力であり、夜警などの治安維持任務は、訓練の一環でしか行わない。
故に、この時間であれば非番人員以外は、ほぼほぼの団員がこの場に詰めていた。
先日、多くを失ったとは言え、40人以上の人間が、ここにはまだ居るはずである。
サルタンは一瞬、悪戯を疑った。
ただ、この時期にそんな”愚か”を行う者が、集団でいるなど狂気の沙汰である。
有り得ない事だと思いなおした。
(ここを出て、少し行ったところに兵舎があったはず……。)
サルタンの頭に、国軍の兵舎が過《よ》ぎる。
戦時と言っても、全員が出陣しているわけではない。
こちらは、神殿騎士と違い、国に所属しており、治安維持、警備、逮捕、なんでも行う。
正直、国軍との仲はけして良くなかった。
しかし、少なくとも人死《ひとじに》は確実。
他の騎士も消えている以上、自分一人で処理するには、些か事態が重い。
サルタンは急ぎ、屯所を飛び出そうとした。
すると、視界の端に子供らしき姿が見えた気がした。
思わず、サルタンは視線を向ける。
紅い頭巾を目深く被っている少女。
それと同じ格好をした少女が他に二人。
屯所の入り口の端に寄っていた。
そんなに目深い頭巾で、前は見えているのか、と不思議に思った。
しかし、サルタンの方を向いている。
(なんだ?……なんで子供?)
サルタンは訝しみ、彼女たちに声を掛ける。
「おい! 君たち!なんでこんなところに居る!? 此処は神殿騎士の屯所だ。何か用事でもあるのか?」
普段であれば、こうはしない。
しかし、状況が状況であり、サルタンの言葉も、気勢も、自然ときつくなった。
そんなサルタンを前に、少女たちは、動じる事も無い。
互いに顔を見合わせてから、くすくすと笑い合った。
馬鹿にしているのかと、サルタンは鼻白んだ。
しかし、その瞬間。
少女たちは空気に溶けてゆくように、その場から消えてしまった。
サルタンはハッとする。
「魔物か!?」
彼女たちの容姿に、近しい魔物に心当たりはない。
ただ少なくとも、尋常なる者ではない事は、誰の目にも明らかであった。
サルタンは剣を抜きはらうと、辺りを警戒した。
相手は複数いた。
サルタンは壁にそろりと近づいて、それを背とする。
恐らく、ユルトやレニーは彼女たちにやられたのか、また、他の団員達も同じかもしれない。
であれば、見た目に似合わず、相当な力を持っている事が予想できた。
多方面から襲われることは避けたい。
全ては無理でも、後ろからの襲撃は、これで避けられるはずであると、サルタンは考えた。
「……。」
しばらく、そのまま。
しかし、何時まで経っても、彼女たちは姿を消したまま、襲い掛かってくる様子はない。
サルタンは不審に思うと同時に、拍子抜けする気持ちが湧きあがってきた。
「なんだ?」
逃げたのであろうか?
サルタンは騎士団の中でも、腕には自信がある方である。
しかし、その様な事、彼女たちは知らないであろうし、ましてや、相手は複数。
サルタンは一度は緩めた心を、もう一度引き締めようとした。
すると、その時。
屯所の奥から、サルタンの居る、開け放たれた入り口に向かって、ぬらりと、生温く湿った風が抜けて行った。
------ゾクリ
その風に、サルタンはまともに曝された。
それは、巨大な人間の舌の様である。
まるで、全身を足下から舐められ上げたかの様な気持ち悪さであった。
怖気《おぞけ》が走った。
鳥肌が立ち、何故か、ここに居てはいけないという、そんな気持ちが急激に湧き上がってきた。
もう、この時には、既にサルタンの魂は囚われていたのであろう。
サルタンは風が来た廊下の奥を覗いた。
所々、置かれていた灯りは、吹き消されていた。
月明かりのある入口の方がまだ明るい。
廊下の先、この常闇は何処へつながっているのか。
そんな本来、解りきっているはずの事が、今のサルタンには信じられなかった。
まるで、深淵が大きく口を開けて、サルタンが中に入ってくるのを、今か、今かと待ちわびている様にさえ思える。
「……。」
サルタンは自らの生存本能を信じた。
屯所から追い立てられるように飛び出す。
サルタンの想像の中では、走り去る彼の背に、亡者が手を伸ばして、常闇に引きずりこもうとしていた。
恐怖に支配される心。
サルカンは手近な大通りにでた。
(ここならば、沢山の人が居るはずだ。)
サルタンは今、とにかく誰かに会いたかった。
サルタンの飛び出した通りは、オベリオンの夜市があった。
この時間であれば、沢山の人が、食事をとり、お酒を楽しみ、賑やかにしているはずであった。
しかし。
「は……ああ?? ……あああ!? ……そんなバカな!?」
サルタンは目を限界まで見開き、驚愕に膝から崩れ落ちそうになった。
あわあわと、近くのテーブルに手をつくと、それで何とか身体を支えた。
この時、サルタンは、何かに対して、己が恐怖している事に、ようやく気が付いた。
「な、なんでだ?」
喉がヒリヒリと渇いていた。
オベリオンの夜市通りは、例え、戦争のさなかであっても、客足は盛況で、今日もたくさんの人で賑わっていた。
ただ、いつもと違う所があるとすれば、そこに居る人間、その全てが、魂を抜き取られてしまったかのように、力なく息絶えている事である。
何かに抵抗した様な様子はない。
ほんの数瞬まで、食事を楽しんでいた、そんな風。
しかし、一人、一人確認したくない。
するまでもなく、死んでいるのが解った。
何十人、いや、百人以上いる全てが、二度と動くことは無い。
如何するべきか、そう考えるも、もともとは、国軍の兵舎へ行こうとしていた事を思い出した。
再び走り出す。
------カツカツカツカツ……。
サルタンの走る足が、敷かれた石畳を叩いて音を立てる。
他に何一つない静寂の中。
------カツカツカツカツ……。
走りながら、サルタンの血の気が再び引いていく。
冷たく、心臓がきゅーっと収縮するような苦しさ。
それに、呼応する様に、走って温まる筈の身体の方も、氷の様に冷たくなっていく気がした。
------カッカ……。
サルタンは足を止めた。
静寂。
再び走り出す。
------カツカツカツカツ……。
また、サルタンの足音が聞こえる。
しかし、その音をよく聞くと。
------カカツカカツカカツカカツ……。
音が重なっている事に気付いた。
サルタンが再び立ち止まると、やはり、その音も止まった。
ふと、何やら気配を感じる。
その気配の元へ、サルタンは勢いよく振り返った。
(……女?)
そこには一人の女が立っていた。
まだ若い。
薄青い髪は長く、赤紫のドレスを着た女。
まるで何処かの貴族令嬢の様に、ピンとした上品で綺麗な立ち姿、白く美しい顔をした女は、サルタンを見つめて微笑んでいた。
思わず、見惚れそうになった。
しかし、同時に、サルタンの生存本能は、最大限の警鐘を鳴らす。
鳥肌が立つ、逃げろと頭の中で誰かが、がなり立てる。
(違う! おかしい! そんなわけはない!)
サルタンは気付いた。
------ドレス姿?
ここはパーティ会場ではない。
明かりも無い夜道を、ランタン一つ持たずに……何故、サルタンには、髪の色までハッキリと見えている?
挙句、辺りは死体だらけ。
そんな場所に微笑みながら立っている様な女が、果たしているだろうか?
普通であるわけは無いのだ。
女と、戦慄しているサルタンの目があった。
すると、女は、”気がつかれました?”とでも言う様に、ニヤ~っと嗤った。
「ひいい!?」
もはや、サルタンは情けなく、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら夜の道を走り回った。
足音の事など、頭からは消え失せている。
そして、どこをどう走ったのか。
サルタンの気が付いたときには、目的の場所である兵舎へとついていた。
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