一進一退の攻防に疲弊する兵士達を前に、それとわからぬように、ハイエンは今か、今かと一人、己を昂らせていた。
昨夜行われた軍議は、結果的に大した良案は上がらないまま終わる事になった。
スカリオンは安定した国であった。
頻繁に、南国のグラプトと戦争をしている。
これは逆を言えば、それだけ戦争をしても国が傾かないだけの国力があるという事でもあった。
盗賊、山賊等も出ない。
アドミラルの様に、中央ではなく、地方軍を出身とする者でも無ければ、実際に戦場に立った事が無い、という者が中央国軍のほとんどを占めていた。
数の優位はかなり、とは言え、訓練ばかり行ってきた彼等、しかし、それは人間や獣人に向けた物。
それがまったく通用しない闇燦師団との戦いは苦しい戦いであった。
もっとも、自らで戦争の”カタ”をつける腹積りであったハイエンにしてみれば、それはどうでも良い事。
むしろ、被害が広がれば、それだけ自らの天使昇華の価値は上がる。
その様な心算ですらあった。
(あの獣達を何とかせねば、別動隊は機能しないか……クフフフ。そうだな。貴様ではそうだろうな。)
ハイエンは完全に他人事で、彼に対して大きな事を言っていたアドミラルを嘲笑った。
今日、ハイエンは昨日よりも前線に近い位置に居た。
そして、その事によって、ハイエンの視界に、ミコ・サルウェの赤髪女の姿が映り込む様になる。
身の丈ほどの大楯を構えながら、誰よりも前に立つその女は、大声で味方を制し、軍全体を統率していた。
悪魔や異形の化け物多き軍にして、女は人の姿に見えた。
しかし、悪魔使いと言う訳ではない様だ。
(ではどうして、あのような事が出来るのだ?)
ハイエンは思わず感嘆の声をあげそうになった。
しかし、プライドの高い彼は、慌ててそれを飲み込んだ。
日頃から訓練ばかりのスカリオン軍に比べれば、連携や練度という意味では明らかに、ミコ・サルウェ軍の方が大きく下回っていた。
もっとも、人ではなく、それぞれ個体能力が違うのでこの比較は意味を持たないかもしれない。
とは言え、本来戦人でもないハイエンにも解る。
戦士としては兎も角、戦の素人達、それを一つの軍として纏め上げているのは、紛れもないアーシャに違いなかった。
それほど、アーシャの存在は際立っていたのだ。
(今か?)
再び、ハイエンは己に問いかけた。
あの赤髪女を倒せば、戦況はスカリオンに大きく動く。
(……しかし……。)
------今日、この戦いで私は天使へと変ずる。
初めから決めていた事、にもかかわらず、未だにふわふわと踏みとどまっている自らに、ハイエンは困惑した。
人を辞めるのが怖いのか、それとも、心の何処かで、未だあの少年を信じ切れていないのか、それを自らに問いかけた。
しかし、自分の事でありながら、どうにもはっきりした答えは返って来なかった。
そして、踏ん切りのつかぬまま、ついにその時はやってくる。
唐突に、それまでいなかった黒く、大きな怪物がハイエンの達の目の前に現れた。
トカゲの様な身体。
夕日を反射して、全身を黒光りする鱗に包み、背中には蝙蝠にも似た羽が2対4枚。
素早く空中を飛び回り、赤く輝く瞳と口、それから鋭く長い爪が妙に鮮烈に、視界の中を残響した。
怪物の吐き出す呼吸は炎を纏い、時折、その吐息は黒い火球となってスカイオン軍を襲った。
黒い炎に焼かれる兵士。
魔法で水を呼び起こし、炎を消そうとするものもいた。
しかし、この黒炎は消えず、さらに燃え盛っていく。
「ゼバルだ!!」
誰かが叫んだ。
『ゼバル』、それはアルジェラ教に伝承される悪魔の中で、もっとも力の強い悪魔の名前。
それが正しいかなど、ハイエンを含め、スカリオンの誰にも分らない。
しかし、皆が皆、それを信じる。
あの黒い悪魔は、それに値する力を持っていた。
ハイネンの中で
『聖戦のさなか、敵よりゼバル現れる。苦しめられるが、時の教皇、天使として覚醒し、これを退けた。』
この様な物語が浮かんだ。
事実でも無ければ、随分と都合の良い妄想《はなし》である。
しかし、伝承などと言う物は、往々にしてそういう物だ。
ハイエンは自らの想像に勇気づけられ、迷いを取り払った。
懐から結晶を取り出すと、それを強く握りしめ、地面にたたきつける。
途端、ハイエンはそれまでが、嘘の事である様に穏やかな気持ちになった。
心が満たされる。
暖かくも無ければ、冷たくもない、眩いばかりの光の海が現れて。
ハイエンはその中をどんどんと沈んでいった。
素晴らしい心地良さにハイエンは眉を緩めた。
(もしや、ここが神の住まう地。世にいう天界の楽園では無いだろうか?……ああ、なるほど。この地を目指し、我ら祖先は上ばかり見上げていた。……しかし、今、私は沈んでいくさなか……。見つからぬわけだ。天界は下に有ったのだ。……戻った折には教えてやらねばなあ。)
ぼーっとした心地よさに痺れた思いは、満たされて、全ては良い方へ。
(そうだ、トルニスは腹心を失ったのであったな。彼には悪い事をした。……であれば、いの一番は彼にしよう。そうだ、アドミラル、彼も国の功労者。もっと……。)
悪い事も、心配事も悲しい事も、何もない。
ただ身体と意識が光の中を落ちていく。
そうしているハイエン、その目の前に男が現れた。
白く、神々しい。
平時であれば穏やかそうに見える男の顔。
その顔が今は、何かに焦るように歪んでいた。
(……もしや、この方が神なのだろうか?)
その男は、必死にハイエンを追いかけた。
ハイエンを追って下へ下へ。
流れが速すぎて、追いつくことが出来なかった。
男がハイエンに向かって何かを叫んでいる。
しかし、その声はハイエンには届かず、それどころか、ハイエンには神が己を祝福してくれている。
その様にすら感じられていた。
(ああ、なんと素晴らしい……。これこそが、人生の最良の日だ……。)
ハイエンの意識が、どんどんと摩耗する様に薄れていく。
(ああ……ああ……ああ……。……。)
この時、現実のハイネンの身体にも変化が起きていた。
結晶を砕いた後、ハイエンは暖かな微笑みを浮かべながら、その場に倒れ伏していた。
無論、周囲の人間は気が付いていた。
何とか教皇の供回りで、ハイエンを安全な位置に運ぼうかと、自らの退路含め、考える者もいた。
しかし、その場はグラドロモニカの放つ黒炎によって混乱の渦中であった。
グラドロモニカの黒炎は、肉体とは別に、魔力も燃やす。
故に、魔力で生み出した水をいくら注ごうと、黒炎にとってはそれが油となるのだ。
地獄絵図であった。
逃げ場などない。
そうして、その場に捨て置かれるハイエンであったが、彼の身体が輝きを帯びた。
その輝きは、始め全身に、そして、それは徐々に四肢へと、近くにいては熱いくらいに収縮した。
そして、更にその光は首へと。
その様子をニコニコと、見ている者がいた。
少年:『消えゆく灯火』だ。
そこは白磁世界。
何処から産まれたのか、大きな水盆があり、彼はその水面に移る情景を覗き込んでいた。
「あは。さあ、どうするんだろうね~?」
『消えゆく灯火』は無邪気に笑う。
水盆には、ハイエンの後ろ首から、純白の翼が生えていく所が映し出されていた。
急激な変化は、身体に大きな負担を科するのだろう。
目や鼻からは、なみなみと血を流し、口からも本来あり得ない量、すでに身体を廻る血流、その体積以上の血を吐き出していた。
「うぼぼぼぼぼぼ!!」
ハイエンはそのまま、真っすぐ、ミコ・サルウェ軍へと突進していく。
全身から神聖な魔力を放出しながら。
「ははははは。ちょっと失敗しちゃったけど、すごいや。」
経験や業(カルマ)といった、現世に於いてその身に蓄えられるもの。
それらは輪廻を廻る途中で、魂より解体される。
それをせず、無理やり輪廻を通すという奇跡。
それを悪戯で『消えゆく灯火』は行って見せた。
とはいえ、魂を輪廻の中で、高速かつ無理やり回した所で、その受け皿となる身体は生まれていない。
故に、古い身体を”本人の望む”天使の身体に変化させ、注ぎ込んだのだ。
しかし、魚の意識を、人間の身体に注ぎ込んだ所で、上手くは動かないのと同じに、こちらは失敗したようで、現在のハイエンは痴れ人に限りなく近い状態にまで意識を保っていなかった。
そのことに対して、『消えゆく灯火』が何かを思うことは無い。
(天使に成れたんだから、問題ないよね?)
彼には、人の幸福に関しての興味など無いのだから。
ただし、次の瞬間、灯火はバツが悪そうに顔を歪めた。
途端。
「『消えゆく灯火』!! 其方の仕業か!?」
割れんばかりの怒声が、白磁世界に響き渡った。
それは男の声。
姿は見えない。
しかし、『消えゆく灯火』を探し呼ぶ声はどんどんと勢いを増していく。
「うわ~~……来るのが速いよ……。」
彼は言った後、現世において、アーシャがハイエンに跳ね飛ばされる姿を見て、「えへっ」と、満足そうに笑った。
そして、名残惜しい、切なげな顔で水盆を見つめると、すーっとその場から消え失せた。
「どこだ!?」
残されたのは、水盆と、誰とも知れぬ男の声だけであった。
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