ミコ・サルウェ北部、旧ベンデル王国領のさらに北。
ベルデルディア山脈を越えた先にあるサルファディア王国。
この地は、一年の殆どが雪で覆われたままであり、夏でも5度を超える事が無いという極寒の僻地である。
サルファディアの国民は、常に厳しい圧力にさらされており、そのおかげか、国民の身体は強靭に育った。
もっとも自然以外に外敵という者は居なかった為、他国人を圧倒するその恵まれた体躯は役に立たす機会もなく、その生活は決して楽な物ではなかった。
皆で助け合い、何とか生きて行っている、そういう状態がずっと続いている国である。
サルファディア西部の町、ヘルフェンの酒場。
そこに男が一人いた。
歳は青年と少年の境目だろうか、喉仏はしっかりと出ているが、その顔立ちには少し幼さも見て取れた。
彼の名をリシドと言った。
リシドは孤児で、ガラスの原料である石英を採掘する仕事をしていた。
正直、実入りの良い仕事でない。
しかし、サルファディアの石英は露天で取れるため、落盤のある坑道採掘などに比べれば安全であり、食えないほど安いわけではない。
ヘルフェン周辺での、その日ぐらしにと言えば、という定番の職業となっていた。
今日も、リシドは夕食を取っていた。
酒場と言っても、酒ばかり出すわけではない。
台所のある家を持たない者が集う食事処であり、実際そこに来る者の大半が酒を頼むから酒場と言われているだけである。
安価だが、燻してなお臭みの残る肉と、それを誤魔化す為に香辛料がきつく入ったスープ。
毎夜の変わらない、同じ場所、同じ時間、同じメニューである。
ただ、珍しく、今日はいつもと違う所があった。
リシドは酒場の一点を見つめていた。
その瞳の先に居るのは、一人の娼婦である。
この様な安い酒場に居るのが不思議なくらい美しく、世間慣れした匂いを感じさせない女であった。
リシドも年頃であり、そういった興味が無いわけではない。
ただ、リシドが見つめる理由は、そういう訳ではなかった。
リシドは首を傾げる。
(……不思議だ。)
彼は傾げて、なおも彼女から目を離さない。
彼女自身は、リシドが過去を思い返せば、昔から、いつでも、変わらず、そこに居たのだ。
表情も変えず、まるでそこに一枚の絵画がある様に、酒場の風景となっていた。
しかし、毎日視界に入れていながら、今日という今日まで、まったくその事に興味が向かなかったのだ。
だというのに今日は、ちらりと視線を外しても、気付けばすぐに彼女の方へと視線が戻ってしまう。
目が離せない。
気になってしょうがないのだ。
(溜まっているのか?)
リシドは一瞬、ばつが悪い様な、渋い顔をした後、振り払うように顔を振った。
(そんな金ないだろ?)
食事の代金は既に払ってある。
今日は、ダメだ、此処に居ては落ちつかないと、リシドは咳払い一つして、残りを無理やり口に押し込むと、そそくさと立ち上った。
(早く帰って寝ちまおう。)
リシドは足元に丸めてあった仕事道具を肩につっかけると、疲れた様子でその場から立ち去って行った。
リシドは、いつもと同じ日常を過ごしたかったのだ。
ただ、その様子を、件の女がじっと見つめている事にリシドは気が付かなかった。
リシドは、酒場から歩いて15分ほどの所にある石壁長屋の一室に住んで居た。
領主が提供してくれているタダ同然の借部屋である。
ただ、穴をふさいだだけの粗い石壁の囲い部屋。
しかし、家賃はちゃんと部屋を掃除する事と、長家主が定期見回りをしたとき、一人きりで、勝手に死んでない事という、ある意味、破格の待遇であった。
只でさえ、サルファディアの平均寿命は短い。
そして、人が死ねば、税は取れない。
その事をサルファディアの領主は良く分かっていた。
疲れた体で、部屋に辿り着いたリシドは、部屋の真ん中にドカリと座り込むと、火を焚いて暖を取った。
机や椅子等はない。
それどころか床らしい床もなく、雪風の防げる囲いの中に、屋根と灯り取り、それから換気の為に取り付けられた穴だけがあった。
それだけでも、リシドの様なものとしては、大変ありがたい事である。
「……ほあ……。」
陽が落ちて、暗くなった部屋の中、リシドはぼやっと、燃える炎を眺めた。
それから自らの首元から一つのペンダントを取り出し見つめる。
太陽の形を模したペンダント。
幼い頃、リシドの面倒を見てくれていた、この借部屋の前の主がつけていた遺品である。
彼が寒波の最中、凍死した際、共に住んで居たリシドに、借家権と共に継承されたのであった。
(……。)
じっと、ペンダントを眺める瞳の奥で、彼が何を考えているのか、変わらない表情からは、うかがい知る事は出来なかった。
暫くして、身体に温かみが戻った頃、さてじゃあ、そろそろ寝るかとなった時。
……コンコン……コンコン……。
誰かが、彼の長屋部屋の扉をたたいている。
「もし……いらっしゃいますでしょうか?」
「……?」
リシドは眉を訝し気に顰めた。
呼びかけられた。
すぐに仕事関係の知人たちの顔が過ぎる。
だが、声の主は女だ。
訪ねてくるような、女の知り合いは居なかった。
……コンコン……。
「もし……いらっしゃいませんか?」
リシドが声の主を詮索していると、再び声がかかった。
「あ! ああ、待て、すぐに行く!」
声に急かされて、リシドは慌てて立ち上がった。
すでに日は落ちている。
誰かは解らないが、外は極寒の世界だ。
相手が誰であろうと、このまま立たせておくのは憚られた。
リシドが少し扉を開けると、想像していた通り、凍てつく風が肌をヒリヒリと焼いた。
挙句、少し吹雪いている。
リシドは目を細め、更に大きく扉を開いた。
そこには先ほど酒場で見た、あの女が立っていた。
「え? あんた……。」
何故ここに居るのか。
一瞬、思いを巡らせて答えを探る。
しかし、すぐには答えが解らなかった。
解らないが、思えば、自らを省みると、彼女を随分と無遠慮にじろじろ眺めていた様に思える。
娼婦にとって、その身が売り物であるというのであれば、リシドは商品をただ眺めて帰る冷やかし客、そんな風に思われたのであろうか。
(それで、文句を言いに来たのか?……いや……)
しかし、なぜ彼女がリシドの住処を知っているのか。
(後ろを付いてきたのか?)
女が口を開いた。
「わたくしは、サリと申します。」
リシドの予想に反して、女:サリは、華のある笑みをリシドに贈った。
怒っているわけではないらしい。
先程は少し離れた位置から見ていたために気付かなかったが、左のたれ目の隅に、可愛らしく二つ並んだ黒子があった。
「あ……ああ、俺はリシっ!?」
「中によろしいでしょうか?」
問う形であったが、サリはリシドが話終える前に話だし、言いながら身をかがめて、扉とリシドの隙間から体を割入れた。
「え、いや、ちょっと……!?」
男の部屋に、年若い女を招き入れる等しても良いものかと、そんな初心で生真面目な考えが一抹浮かび上がり、次いで、そういえば彼女が娼婦である事をリシドは思い出した。
(金は無いので、相手をしてもらう訳にはいかないが、まあ、ひとまず吹雪の中に放り出すよりかは、いったん中で話を聞いた方がいいか……。)
なお、今日は朝から、リシドが仕事を終え、酒場で食事をし、家に帰るまで、雪など一欠けらも降ってはいなかった。
リシドは、扉を締め切ると、サリを中央の焚き木の囲い縁に、案内して座らせた。
自らも炎を挟んで座り込む。
いつもより、焚き木の火勢が強いが、リシドはその事に気付かなかった。
優し気に微笑みながら、ちょこんと姿勢よく座ったサリの姿が、陽炎に触れて揺らめいている。
「あんた、さっきバディンの所に居た人だよな?」
リシドがサリに問うた。
「……。」
サリの口が動き、何かを言った。
しかし、何故だかリシドには、それが聞こえなかった。
「ん?」
リシドは眉を上げて、すまない、もう少し大きな声で言ってくれないか、とサリに言う。
先程まで、彼女はしっかりと喋っていた筈だが、空気がのどに詰まって、声にならなかったのか、その様にリシドは考えた。
「……。」
やはり、聞こえない。
リシドはすこし不審に思って問い質そうとした。
しかし、サリが彼女の顔の前に右手で人差し指を立てて、それをスッとリシドの方へ近づけてくる。
「?」
どういう意味があるのか、リシドには解らない。
サリの指は、どんどんと前に突き出されて行って、焚き木の炎の中にまで入っていった。
炎の中でサリは何かを掴むような動作をする。
リシドは驚いて、しかし、その辺りから彼の意識は、急激にぼんやりとした物になっていった。
サリが再び口を開き、言葉を発した。
今度は聞こえる。
しかし、何を言っているのかは分からなかった。
だというのに、二人の間に会話が生まれ、それから随分と長い時間、笑い、共感し、内容はわからないけれど、ただひたすらにリシドは楽しかった。
そして、暫く話した後。
話に一区切りがついたのか、二人の間に沈黙が訪れた。
しかし、そこに気まずさは無かった。
むしろ、何処かしっとりと、艶のある空気が漂っている。
茫洋と、リシドがサリを見つめると、間に挟む炎の影響とは無関係に、彼女の頬が朱色に染まったように思えた。
(可愛らしい女だ。)
やがて、彼と彼女は互いを求めあい、混じりあった。
サリは一夜、リシドを母の様に包み込み、姉の様に導き、妹の様に甘え、そして恋人の様に愛した。
長い夜が明け、空が白んで来た頃合い。
リシドは深い眠りについた。
サリは、行為の後、リシドの頭を膝において、優しく額を撫でさすっていた。
「貴方は私にとってのアギモラの灯木。きっと私を御神の元へ導いて下さると、そう、信じておりますわ……。」
そう、呟いて、サリはリシドの額を撫で続けていた。
アギモラの灯木とは、深い雪の中でも、葉が炎の様にぼんやりと、青白く輝く樹木であり、野山を里とする者はそれを頼り、また、寄る辺とするのである。
リシドが目を覚ました時、サリの姿は何処にもなかった。
かわりに覚えのない血痕と、眼球が一つ、部屋の中に落ちていた。
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