カフェ・レストリアを出た僕たちは、特に寄り道もせずJR中野駅へと降り立った。ここから出水の自宅までは、徒歩で数分の距離であるという。思わぬ足止めを食らったものの、現在の時刻は午後二時……ゆっくり歩いても全く支障はない。
むしろ初めて歩く地であるため、明るいうちに到着出来てよかった。こうして景色を記憶すれば、何かあった時にすぐ、出水の家から駅へと帰ることが出来る。もちろん、そうならないことを祈っているが。
「えっと……南口方面でいいのか?」
「はい。大久保通りを越えた辺り、です。なので、ここをまっすぐ行けば大丈夫」
「そうか。それにしても、随分と学校に近いところに住んでたんだな。頑張れば自転車でも通えるんじゃないか?」
「それは、無理です。私、その……自転車、乗れないので」
「あ、そう……」
なんとなくであるが、その返答は予想していた。明らかにインドア派である彼女が、五、六キロメートルほどの距離を自転車で移動するとは思えなかったし、お世辞にも運動神経が良いようにも見えない。
それに彼女の家庭環境を鑑みれば、移動の際は例の父親が率先して行なっていたことだろう。そうなると、必然的に自転車に乗る機会も少なくなる。操縦が出来なくても、まったく不思議なことではない。
そう理解して、軽く流した僕に出水は目を丸くし、逆に問いかける。
「えっと、あの……驚かない、です?」
「ん? ああ、別に。だって、それは個人の問題だろ。乗りたくても乗れないなら別だけど、乗る必要がないならそれでいいじゃないか」
「そう、ですか?」
「そうだよ」
別に、自転車に乗れないからと言って、何か不都合がある訳でも無いのならばそれでいい。南国出身の人間がウインタースポーツを不得手としても何も問題が無いのと同じく、その人にとって不必要なスキルを有していないことに対し、他人が論う理由などない。
僕の両親のように、すべてを手に入れないと気が済まない性分ならば勝手に努力すればよい。ただ、その価値観を他人に……剰え、血の繋がった子どもに対し強要するのは間違っている。
子どもは親の道具ではないし、作品でもない。僕は僕……一人の人間として生を全うする、赤の他人なのだ。その辺を、最期まで僕の父親が学ぶことなく逝ってしまったというのは、ある意味で僕の心残りとも言えようか。
そういえば、親のことで一つ、ふと疑問に思ったことがある。僕の両親はそういう人間だから、僕を『新人類計画』に参加させたのだと理解できる。だが、高城や出水の両親は、なぜ彼女たちを『新人類計画』などという胡散臭い実験に参加させたのか。
西蓮寺の告解によれば、僕の父親や間柴、灰谷から誘いを受けたということだったが……二人の両親もそれと同様に、誰かから誘われたのだろうか。
「あのさ、出水」
「ん?」
「……いや、なんでもない。ごめん」
「……?」
危うく、こんな路上で『新人類計画』の話をしてしまうところであった。人通りの少ない穏やかな昼下がりということもあり、完全に油断していた。世間話のように、軽く語れるような内容ではないのに。
ああ、僕の脳はもう、冷静な状況判断が出来ないのだろう。軽食を摂ったことで元気が蘇った気分になっていたが、やはりしっかりと寝ないことには回復しないらしい。
そう自戒する中、急に前を歩いていた出水は足を止め、住宅地の一角に佇む一軒家の門扉へと手を掛けた。
「到着、です。先輩、大丈夫?」
「え? あ、ああ。ここが……結構、大きいな。三階建てか?」
「えっと……はい。でも、三階はほとんど、荷物ばかりなので。空き部屋、掃除してきますので、ちょっと待ってて」
「ああ、分かった」
そう言うと、僕へ振り返ることなく出水は急ぎ家の中へと入っていった。彼女も睡眠不足だろうに、本当に迷惑をかけて申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「はぁ……」
僅かに覗いた蒼天を見上げ、大きく溜息を吐く。普通の高校生であったならば、すでに終わった連休の名残をこの空に託し、午後の授業へと赴いている頃合だろう。こんな惨めな思いもせず、ただ退屈な授業に頭を悩ませるだけの日々が始まっていたはずだ。
今になってみれば、あの最高につまらない日々が恋しい。クラスメイト、それに教師たちの態度に苛立っていた、あの時の自分に戻りたい。
どこから、僕の日常はおかしくなってしまったのだろう。もちろん、『新人類計画』などという実験に参加した時点で、まともな人生とは呼べなくなっていることは理解している。だがそれでも、この十年近くは、まともでない割に比較的平凡な不幸を謳歌していただけだった。
それが今や、その不幸すらも焦がれる自分がいる。底なし沼のように、延々と新たなる絶望が僕を蝕み続けるのだ。この無間地獄は、一体いつから始まったのだろう。
「……考えても無駄、だよな」
自分の運命を呪ったところで、何も変わりはしない。現在を受け入れ、前に進む他に道は無いのだ。とりあえず今日はこれ以上何も考えず、眠った方が良い。
良くも悪くもすべてを諦めて顔を前へ向けると、ちょうどいいタイミングで出水が家の中から出てきた。そして、髪に小さな綿埃を付けたまま、彼女は中へ案内を始める。
「お、お待たせ、しました。では、どうぞ」
「ありがとう。っと」
「え? な、なんです————あ……」
扉を開けてくれている出水の横を通る際、すかさず髪に付いた埃を摘み取る。僕の突然の行動に焦りを見せていた出水だが、灰色の埃を目にした瞬間、恥じらうように口を噤んだ。
「まったく。そんなんじゃ、また西野に叱られるぞ? でも、ありがとうな。掃除、一生懸命やってくれたんだろ?」
「あ、う……」
僕なりに労ったつもりなのだが、彼女は俯いたまま動かない。寝ぐせだらけの姿を見せたり、腹の虫の音を聞かせたりしておいて、今さら何を恥じることがあるのだろう。相変わらず、この娘の感性はよく分からない。
「ま、別に僕は気にしないけどさ。……それで、使っていい部屋はどこなんだ?」
「あ、えっと……こ、こっち。二階、です」
僕の声を聞いて、ようやく案内を再開した出水は素早く玄関を抜け、そのすぐ脇にあった踊り場付きの折り返し階段を駆け上がる。だが今度は逆に速すぎて、あっという間に彼女の姿は見えなくなってしまった。
「お、おい! まったく、極端だな……」
何とも、そそっかしい奴だ。だがその一連の行動のおかげか、先ほどまで僕を包み込んでいた黒いモヤモヤとした感情は薄れ、心なしか体も軽くなったような気がした。
小さく息を吐き、出水の脱ぎ散らかしていった靴を揃え、ゆっくりと彼女の後を追う。階段にはカーペットなどの緩衝材は敷かれておらず、フローリングのひんやりとした感触が直に足へと伝わる。
そして、慣れない高さの段差を上がり終えた僕は、廊下の端へと視線を移す。そこには、一つの部屋の前で何故かきょとんとした表情を浮かべる出水の姿があった。
「使っていい部屋はそこか?」
「え、うん……でも、遅かった、ですね。トイレ?」
「違ぇよ、そんなに遅れてなかっただろ。お前が速すぎて追いつけなかっただけだよ」
「そう、かな? こっち。狭いけど、我慢して」
「はぁ、まったく……」
もはやツッコむ気力も失せた僕は、それ以上何も言わず出水の後に続いて部屋へと足を踏み入れる。六畳程度の、決して狭くはない部屋だ。僕の部屋と、畳数だけで言えば然して変わらないかもしれない。
だが、部屋の半分ほどは何だかよく分からない機材のようなものに占拠されており、実質的に使用できるスペースは少ない。その上、真ん中に布団が敷かれてしまっているため、足の踏み場を探してしまうほどであった。
それと、不快とまでは言わないが奇妙な臭気が漂っている。恐らくは機械油の類だろうが、この環境の中、僕は寝ることになるのだろうか。
「本当に狭いな……それに何だろう、この臭い」
「多分、この機材のせい。お父さん、会社から貰ってきちゃうから。直せると思っちゃうみたい。直せないのに」
「ああ、それが溜まりに溜まった感じなのか……」
「そう、です。あと、無暗に触らない方が良い、です。変な油、付くから」
「マジか……」
そうか、だから出水は布団を真ん中に敷いたのか。多少寝返りをうっても、機材に手や足が触れないように。僕の手足や布団が、そのよく分からない油で汚染されないよう、工夫してくれたのだ。
まあ、そこまで気を遣うのならば、部屋の手前の廊下で寝た方がマシなのだが……文句は言うまい。他人の厚意に対し不満を述べて良いのは、その人が本当に間違っている場合だけだ。
そう自分に言い聞かせつつ、改めて出水に確認をする。
「じゃあ、とりあえず……本当に良いんだよな? ここに泊っても」
「うん。お父さん、お母さん、一階で寝てる。この部屋には来ない。こっそり帰れば、絶対に気付かない」
「ああいや、挨拶くらいはさせてくれ。一応、部屋を貸してもらってる訳だし。でも、使ってないのは本当みたいだし、遠慮なくゆっくりさせてもらうよ。もしご両親が帰ってきたら呼んでくれ」
「……分かりました。では、おやすみなさい」
少し怪訝な表情ながらも、部屋を後にした出水はゆっくりと扉を閉めた。残された僕は、とりあえず荷物を扉の付近へと置き、布団の上へ仰向けに寝転がる。
「ふぅ……」
いつもとは違う天井、臭い、感触。決して安心して眠れるような環境ではない。何より、機材が雑然と積まれ過ぎており、これでは大きめの地震が来た場合、僕は生き埋めになってしまいそうだ。
ただ、そんな懸念などすぐに消え去った。それほどまでに、僕の心と体は疲弊していたのだ。北向きの部屋であり、西日が差し込むことは無い。これならば何にも邪魔されず、ゆっくりできるだろう。
念のためスマートフォンを枕元に配置しつつ、そのまま目を閉じる。余計な思考を加えず、ただひたすらに頭を空っぽにした結果、徐々に意識が薄れていった。
そして、廊下をパタパタと歩く出水の足音を聞きながら、僕はひと時の眠りについた。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!