同時刻、水島邸————
「……そうか、東京総合国際病院にいるんだな。分かった、とりあえずそこにいろ。念のために言っておくが、お前は重要参考人だ。絶対に逃げようだなんて考えるなよ。じゃあな」
午前十時になろうという時間帯、都内の中でも比較的静かな住宅地である広尾の一角に、箱崎の神妙な低い声が響く。そして通話を切った箱崎は、乱暴にポケットへとスマートフォンをしまうと、警戒線テープの張られた現場へと踏み込んでいく。
広い家屋を厳しい目で見上げる箱崎に、一人の警察官が声を掛ける。
「おう、箱崎じゃねぇか」
「ん? おお、久しぶりだな、漆原よ。例の案件で忙しいんじゃなかったか?」
先ほどは険しい表情であった箱崎は彼の姿を目にした途端、一転して明るいものへと変え、分厚い胸を軽く小突く。
「それはお互い様だろ。んで、組対のお前がここにいるってことは……裏があるんだな?」
「ああ。残念だが、これはお前にも言えねぇんだ。ちょいとばかり、闇が深いもんでな」
「そうかよ。ま、聞きたかねぇがな。そんじゃ、またな」
「おう」
そう言い残し、颯爽とパトカーに戻っていった漆原を目で追いつつ、即座に視線を元に戻す。玄関には争った形跡はない。もちろん、その先に続く廊下も同じであった。むしろ、今は鑑識を含め警察関係の人間で溢れかえっており、そのせいで不穏な空気が醸し出されているくらいである。
「しっかし、あの水島 龍太郎が、ねぇ……」
心の声を漏らしつつ、箱崎は家の中へと入ってゆく。先行させていた真中の姿を探しながら、ゆっくりと廊下を突き進む。
箱崎の元へ、水島 龍太郎の遺体が見つかったという連絡が届いたのは、午前九時になろうとしていた頃のことであった。本日は例の写真に写る人物、牟呂矢 晃司へ聞き込み予定であったのだが、この報せを受け急遽予定を変更したのである。
無論、牟呂矢に対する聞き込みも重要である。しかし、別の人物の遺体ならばともかく、水島 龍太郎のものとなれば話は別だ。彼に対して恨みを持つ人物は西蓮寺 真冬を含め、相当数が存在している。ならば、この件を徹底的に洗えば一連の事件に関する重要な手掛かりが得られる可能性が高い。
加えて、彼に最も恨みを抱いているであろう、水島 夏企の存在が大きい。彼と接触を繰り返していた箱崎にとって、この件は決して無視できるものではなかったのだ。
緊迫した空気の中、箱崎はようやくリビングダイニングへと辿り着いた。だが彼の目には、他の警察官が慌ただしく動く部屋の中で、一人呆然と佇む女性の姿が先に映り込む。
「おい、真中」
「……」
「真中!」
「え……あ、先輩……」
「何してんだよ、お前。邪魔になって————」
不自然に立ち尽くす真中をひと睨みし、彼女の前に広がっていた光景へと視線を移した箱崎は、そう言葉を口にしたところで硬直した。その瞬間、真中が心神喪失状態となった理由が、彼には嫌というほど理解できた。いや、理解させられることとなったのだ。
そこには、水島 龍太郎の遺体が仰向けの状態で存在していた。ただし、姿かたちだけでは完全に彼だとは言えない。それほど、変形してしまっている。
痩せて皺が目立つ顔は青く、目からは血が流れ出ている。無論、すでに血液自体は固まっているため、青白い顔にべっとりとした赤黒いインクが塗られているようにも見える。
また、彼の口には人間の腕が突き刺さっていた。いや、どす黒くまっすぐに伸びた腕が口から出ている。後頚部から口側に向けて腕を突き刺した、と表現する方が適切であろう。しかし、彼の腕は二本とも体にくっついている。恐らく、水島 龍太郎とは異なる誰かの腕であることが窺える。
そして、痩せ細っていたはずの体は、異常なほどに膨らんでいた。着せられている洋服のボタンはすでに何個か弾け飛んでしまっているようで、でっぷりとした腹部の一部が露わとなっている。まるで、男性であるにも拘わらず子を孕んでいるようであった。
「なる、ほど……これは厳しい、な」
「……」
数々の現場を経験していた箱崎でさえも言葉を失う、壮絶な光景であった。まだ警察官となって比較的日の浅い真中にとって、この衝撃は測り知れないものである。
しかし、いつまでも呆けていて良いはずが無い。気を取り直した箱崎は、真中を強引に遺体から引き剥がし廊下へと戻る。
「しっかりしろ。まあ、気分がいいもんじゃねぇが……これが現場だ。邪魔になるなら、さっさと離れないとな」
「……は、はい。でも、さすがに堪えました。姉の生首を見たら、何でも我慢できると考えていたのですが……」
「いい、無理すんな。少し車の中で休んで来い」
「すみません……」
いつもの真中では考えられないほど、よろよろとした足取りで外へと向かってゆく。その様子を見かねた箱崎は、小さく息を吐いてもう一度真中へと声を掛ける。
「おい、真中」
「……はい?」
「ほらよ」
そう言って、彼は懐にしまっていた古びた財布を彼女へと放り投げた。
「お、っと」
「これでなんか飲み物でも買ってこい。ついでに、俺の分のコーヒーも頼む」
「あ、はい。えっと、甘いやつ、ですよね?」
「おうよ。ミルク入りのやつな。出来たら、マキシマムコーヒーくらい、あまーいやつを買ってこい」
「……先輩、そんなの飲んでたら糖尿になりますよ?」
「うるせぇよ。こういう時は、甘いものが一番良いんだよ。おら、さっさと行け」
「ふふ、ありがとうございます」
箱崎の気遣いに元気が出た様子の真中は、少しだけ顔を綻ばせ、先ほどより軽い足取りで玄関を出ていった。その背中を見届け、身を翻した箱崎は目つきを真剣なものへと戻し、リビングダイニングへと戻る。
「さて……おい、お前」
「は、はい」
傍で手帳にメモをしていた一人の男性警察官に声を掛け、現状について確認を行なう。
「第一発見者は?」
「ええっと……通報を受けて駆け付けた警察官ですね。通報者は、トラック運転手の秋山 慎也。午前八時前、正面の家に荷物を届けていた際、不審な物音がこの家から聞こえたということで管轄の署に通報があったそうです」
「午前八時前? それは確かなのか?」
「はい。署に残っていた履歴を確認しても、その時間帯であったことは確かです」
「そう、か……」
箱崎は徐に腕を組み、眉間に皺を寄せる。彼が疑念を抱いたのは、他でもない。彼の元へこの事件の情報が伝わったのは、午前九時前……つまり、秋山という男が通報した時間からおよそ一時間後なのである。さすがに、そのタイミングで箱崎へ連絡が届くはずが無い。
強い違和感を消せぬまま、箱崎は次の質問を繰り出す。
「現場は、最初からこんなに整頓されてたのか?」
「はい。もともと、水島夫妻は綺麗好きだったそうで、この家に上がったことのある近所の住人から証言は得られています。モデルルームかと見紛う部屋だった、と」
「そうか。……夫妻、と言ったな。妻の東子は、今どこにいる? 署か?」
「いえ、現在捜索中です」
「はぁ?」
その返答に驚き、彼は思わず大きな声で聞き返す。
「捜索中だぁ? おいおい、んなことがあんのかよ?」
「そ、そう言われましても……携帯電話は繋がらず、職場に確認しても帰宅した、としか返答を得られず。そのため、事件性ありとして捜索しているところです」
「本当かよ……ん?」
大きく唸り、ボリボリと少し荒っぽく頭を掻くと、箱崎は目の前に横たわる遺体を見つめる。そしてゆっくりと屈んで遺体へと近寄り、口から生えているように突き出た腕を指さす。
「おい、この腕。指輪してねぇか?」
「は? ……あ、そうですね。それに血で分かりにくいですが、マニキュアでしょうか。爪に塗られているような……」
「……なる、ほどな。おい、漆原に伝えておけ。解剖の結果が出たら、すぐにこっちへ送れってな。まあ、何となく予想はついているが」
「は、はい」
「よろしく。……はぁ」
立ち上がった箱崎は、ぐるりと部屋の状況を観察する。そして小さく舌打ちをし、真中の待つ車の元へと向かっていった。
彼には、おおよその検討がついていたのだ。この家を調べたところで無意味である、と。
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