「ああああぁぁぁぁっ!!」
「っ……!?」
強烈な痛みに耐え兼ね、絶叫したまま目を開けた。すると、暗闇に閉ざされていた世界は急に拓けてゆき、涙で滲む視界には薄暗い部屋の天井が映し出される。これは、寝入る前に見ていたあの部屋の天井だ。
「あ……?」
あまりにも急激な場面展開に、硬直したまま数回ほど瞬きをする。あれほど痛かったはずの頭部からは、まるで何も感じない。むしろ、強く頭を掴んでいた影響で、物理的な痛みの方が圧倒的に勝っているくらいだ。
「な、なんだ……痛っ!」
そして、徐々に全身へと感覚が戻ってゆく最中、左手に鋭い痛みを覚え反射的に視線を移す。全く身に覚えはないのだが、いつの間にか怪我を負っていたらしく左手には幾つかの切り傷が出来ていた。
右手にも、壁にぶつけたらしく大きな痣が出来ている。幸いにも壁に影響はなかったものの、相当暴れまわってしまったのだろう。
「くっ……な、何なんだよ、もう……」
現実へと引き戻され、起き上がった僕は深く溜息を吐く。ひと時の休息となるはずが、訳の分からない夢を見せられ、ついでに怪我までして、これでは全く疲労が取れない。この様ならむしろ、休む暇もない方が精神的に安定していた可能性すらある。
それにしても、あの夢は一体何だったのだろう。あれが現実だった、などという訳があるまい。現実との相違点が多すぎて、在りもしないパラレルワールドとやらを疑ってしまうレベルだ。
「うっ……」
夢の出来事を思い出そうとした時、脳内へと稲妻のような鋭い痛みが走る。先ほどとは異なり、一瞬だけの痛みであったため叫ぶほどでは無かったものの、嫌な予感がして思わず身構える。
すると顔を歪ませる僕の右手側から、不意に優しい声が耳へと届いた。
「あの、大丈夫、ですか?」
「あ、ああ。大丈夫だよ、ありがとう……え?」
反射的にそう返しつつも、ふと違和感を覚えた僕はその声の主へと素早く顔を向ける。そこには、不安げに僕を見つめる出水の姿があった。
「で、出水!? いつの間に……」
「え? いつって……さっきから、ですけど。先輩、苦しそうだった、から。心配で」
驚く僕に対し、出水はキョトンとしながらも淡々と答えた。彼女の立場からすれば、家に招いた人間が急に魘され始めたのだ。心配で様子を見に来るのも当然である。むしろ、喉が焼けるほど絶叫し続ける人間を放置できるような、そんな者がいるのならば会わせてほしいくらいだ。
「そ、そうか。ごめん、迷惑をかけたな」
「いえ、その……大丈夫なら、それで。でも、本当に大丈夫、ですか? 顔色、すごく悪いです」
「大丈夫だよ、変な夢を見たせいだから。それより……」
半ば強引に笑顔を作りつつ、切り傷だらけの左手をじっと見つめる。黄昏時であり、陽の差さないこの部屋では非常に分かりにくいのだが、それでもはっきりと見える程度にボロボロだ。
この傷は十中八九、周囲に散らかっている機材へと手をぶつけたために生まれたのだろう。その証拠に、得体の知れない油がベッタリと付着しているのだ。臭気こそ薄いものの、このまま貸してもらった布団やスマートフォンに触れるのは避けたい。
「悪い、洗面所を借りてもいいか? 機材の油が付いたみたいだ」
「ああ、本当ですね。良いです、けど……それ、なかなか落ちない、です。落ちても、三日は臭いが残る、かも」
「はぁ? 嘘だろ?」
「いえ、結構しっかり残ります。落とし方、教えるので、付いてきて。起きられますか?」
「あ、ああ……マジかよ……」
そんな厄介な油だったとは、うっかり布団などに手を触れなくて良かった。いや、もしかすると何かの弾みで触れてしまったかも知れない。手の汚れを落とした後、ちゃんと確認しておこう。
まだ倦怠感の残る体に鞭を打ち、どうにか立ち上がった僕は出水に続いて廊下へ向かう。小さな窓から外の景色を見る限り、時刻はもう午後五時を過ぎた頃だろう。思ったよりも長い時間、眠れていたようだ。
「あ、そうだ出水」
「ん?」
洗面所へと向かう途中、手すりに触れないよう階段をゆっくりと降りながら、先導する出水へと問いかける。
「僕、どうもかなり魘されてたみたいだけど……何か言葉は聞こえたか?」
「言葉、ですか? いえ、ほとんど呻き声だけ、です。どうして?」
「ああ、いや……ほら、寝言を聞かれるのって恥ずかしいだろ? ちょっと気になってさ」
「そうですか? んー、よく分からない、です」
「そ、そうか」
どうやら、僕は余計なことを叫んでいなかったらしい。まあ、聞かれたところで何の話だか分からなかったとは思うが、変に詮索されてまた頭痛がぶり返しても困る。もうあの痛みは、二度と味わいたくない。
苦痛を少しだけ思い出し眉間に皺を寄せたところで、出水はピタリと足を止め、木製の引き戸を軽く開ける。
「ここ、入って」
「ありがとう、助かる……よ……」
通された先には、綺麗に整頓された洗面台と洗濯機があった。だが、恐らく今夜着る予定であろう着替えも、無造作に洗濯機の上へと置かれていた。当然のことながら、出水の下着も堂々と、である。
「……」
瞬間的に飛び込んできた布から視線を素早く外し、不自然に天井を見上げながら無言で洗面台へと向かう。僕の様子に小さく首を傾げつつも、出水は抽斗から化粧品のようなものを取り出した。
「手、広げて。傷には沁みるかも、だけど……これで落ちるはず、です。水は出しておくので、適当に止めてください。あ、これはあまり使わないで、欲しい。お母さんのもの、だから」
「あ、ああ……分かった」
「……? じゃ、部屋に戻ります」
気まずそうに振る舞う僕を不思議そうに見つめつつ、出水はそのまま部屋へと戻って行った。階段を駆け上がる彼女の足音を耳にしつつ、深く溜息を吐く。
「はぁ……」
どうして僕の方が気を遣っているのだろう。まったく、ここまで無頓着だとは……呆れてものが言えない。無論それだけ、僕を警戒していないとも言えるが……信頼されていると思うべきか、興味を持たれていないのだと嘆くべきか。悩ましいところである。
まあ、彼女の父親のように浮ついた人間性であった方が困る。とりあえずこういう細かなところは、少しずつ高城だとか西野だとか、そういう人から教われば良いだろう。僕が何か言及するようなことではない。
一頻り水で濯いだ後、指の感触を確かめる。ベタつきは大分取れたようで、臭いは今のところクレンジングオイルの方が強い。今のところは、これで満足としておこう。
掛けられたタオルで水気を拭き取り、洗濯機の方をなるべく見ないように洗面所を出る。ここで出水の両親に出会うと何か好からぬ印象を抱かれかねないため、玄関の様子を確かめつつ足早に階段を上がる。
「さて、と」
そのまま廊下を抜け、借りている部屋へと直帰する予定であったが、ふと出水の部屋の前で足を止めた。もちろん、彼女にお礼を言うためである。下着の件については、口が裂けても言うつもりはない。
何かの拍子に、この件が高城たちへと漏れた場合、非常に冷たい目を向けられることになろう。それだけは絶対に避けたい。
何事も無かったかのように呼吸を整え、締め切られた部屋の扉を軽くノックし感謝の言葉を告げる。
「終わったよ。ありがとうな」
「早かった、ですね。臭いはどう、ですか?」
「それはまだ分からないけど、とりあえず大丈夫そうだ。助かったよ」
「そうですか。それは良かった、です……あ、そうだ先輩。ちょっと待って」
「え?」
淡々と受け答えをしていた出水は、そう言うと急に何かを探し始めたらしく、騒々しい音を廊下まで響かせる。
「あの、ちょっと渡したいもの、あって」
「渡したいもの?」
何か、彼女に貸していたものでもあっただろうか。別に、このタイミングで渡す必要は無いだろうに。まあ、一旦行動を始めてしまうと止められない出水だ、今さら僕が声を掛けたところで意味は無いだろう。
そう思いしばらく廊下で待っていると、やがて部屋の中から物音がしなくなり、代わりに扉がゆっくりと開かれた。
「すみません、ちょっと手間取って」
「いや、それは良いけど……渡したいものって何だ?」
「本当は学校で渡したかった、けど……ちょっと難しくて。いろいろ、忙しかったから」
そう言って出水は申し訳なさそうに軽く俯きつつ、ゆっくりと何かを僕へ差し出した。特に何も考えず受け取った僕は、それをじっと眺める。
「ん? これは……なんだ?」
出水から差し出されたのは、一枚の黒いカードであった。裏返してみても特に何も書かれておらず、ただ真っ黒い以外に特徴は無い。光沢はあり、厚みからしてICカードか何かだろう。
こんなものを出水に貸した覚えはないし、そもそもこれ自体を所持していた記憶もない。何かの間違いだろうと考え、顔を上げて出水へと突き返す。
「これ、僕のじゃないよ。別の人のものじゃないか?」
「えっ? そう……ですか?」
「貸した記憶もないし、そもそもこれが何なのか知らないし。なんでこれを僕のものだって思ったんだ?」
「え、えっと……」
神妙な面持ちから一転、目を丸くした出水は返されたカードを手にし、小さく呟く。
「あの、これ……志摩丹のトイレに、落ちてたので……」
「志摩丹の?」
「はい。あの……例の事件、あったとき、です。遺体の横に、これが……」
「遺体の……ああ!!」
その言葉を聞いた途端、僕はこの黒いカードの存在を思い出し、完全に硬直した。そう、これは切断された頭部を大事そうに抱えていた、真中 優佳の遺体の真横に落ちていた、あのカードだ。
「な、なんで拾ってきたんだよ! 現場に落ちていたものなら、大切な証拠物品じゃないか!」
あまりの衝撃に思わず声を荒げつつ詰め寄る僕へ、出水は狼狽えながら、か細い声をより小さくして答える。
「え、あ、その……先輩の手元に、あった、ので……」
「僕の手元に?」
「はい。だから、その……先輩のものかな、って思って」
「……」
そういえば、僕はあの遺体を目にしたとき、強い衝撃を受けたせいで気を失っていた。恐らく倒れた場所がちょうど運悪く、このカードの近くだったのだろう。それに、一見するとトレーディングカードゲームのスリーブにも思えるし、あの女性が持っているとは考えにくいのも事実だ。
とはいえ、不用意な行動であることは確かだ。今さらそれを咎めたところでどうしようもないが、この事実を箱崎たちにどのように説明すれば良いのだろう。勘違いをした、という話では到底、二人は……特に真中は納得しないだろう。
そもそも、出水はあの現場を目撃していないはずだ。高城の話では、気絶した僕を最初に発見したのは志摩丹の従業員であるらしいし、西野は彼女から事件の詳細は聞けなかった、と言っていた。これらについては、僕の脳が完全に記憶している。間違いはない。
証言をもとにすると、高城が倒れている現場を最初に目撃したのは出水だが、それ以降、彼女はあのトイレに足を踏み入れていないはずなのだ。そうだとすれば、このカードを彼女が持っていては矛盾が生じる。
誰かが、嘘を? 何のために?
「いや、待てよ……」
違う、そうとは限らない。思い返せば、彼女が現場を見ていないと誰も断言していないのだ。僕や高城が勘違いをしていた、とも考えられる。
「……出水。トイレで倒れている僕を見つけたのは従業員の人、だったんだよな? その人と一緒に、お前もトイレに入ったのか?」
「えっと……はい。従業員の人、女性で……先輩が、動かせなくて」
「その時、遺体は見なかったのか?」
「は、はい……遺体は、なるべく見ないようにして、えっと……怖い、から」
「そうか……いや、そりゃそう、だよな……」
やはり、そうか。だからこそ、彼女は西野に対し事件の詳細を語れなかったのだ。まともに遺体を見た訳ではないし、僕や高城を動かすのに手いっぱいだったのだろう。
誰だって遺体を、しかも僕たちが気を失うような壮絶なものを、直視したいなどと思わないだろう。グロい絵画が好きな出水だって、現実にそれを目の当たりにして正気でいられる可能性は低い。
とにかく、このカードの件は早急に箱崎へ伝えよう。怒られることは覚悟の上だ。
「はぁ……仕方ない、僕から警察には伝えておくよ。それ、貰っていいよな?」
「え、はい……」
「大丈夫だよ、出水のことは内緒にしておく。それより、そんな気味の悪いもの、さっさと警察に渡そう。いつまでも手元にあったら、あの事件を思い出して気分悪いだろ?」
「……ありがとう、ございます」
「いいよ、別に。それに、堂々と現場に乗り込んだ挙句、気を失った僕が一番悪いんだし」
それに加え、あのカードのことを事件の翌日、学校にまで足を運び捜査していた彼らに黙っていたのは紛れもなく、僕なのだ。出水一人の責任であるとは、微塵も思わない。むしろ、ここから事件解決へと導くことが出来れば、最高の結果となろう。
そして、黒いカードを受け取った僕は真っ先に借りている部屋へと向かう。箱崎に電話をかけ、全て打ち明けるために。
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