高城がいるという部屋は、六階……内科系の病棟にあるそうだ。なぜ通り魔に襲われ怪我を負った高城が、外科系の病棟ではなく内科の個室へと入院することとなったのか。それはこのフロアが、精神・神経内科の患者を収容しているためである。
怪我自体は紙一重の差だったという話だが軽く済んでおり、その治療だけならばすぐに帰宅も可能だっただろう。ただ、彼女の負った心の傷は、そう簡単に癒えるものではない
夜間、一人で帰宅途中に襲われたのだ。それも、かなり精神的に不安定な状態で、である。幾ら明るい高城でも、大きなショックを受けているはずだ。
そういう訳で、僕と出水は六階のフロアを進んでいる。精神疾患を抱えた人間の入院する空間ということもあり、僕の足取りは重く、物音ひとつ立てないよう慎重に進む。
一方の出水は、ここがどういう病棟なのか知らないのか、もしくは高城のことしか眼中にないのか、まるで気にする素振りも見せずに突き進む。彼女の足音が響くたびに、僕の心臓は早鐘を打っているというのに、だ。
すると、急に出水は一つの部屋の前で足を止めた。そして、じっと壁の方を見つめている。
「ど、どうしたんだ、出水」
「六〇三号室。ここ、ですね」
「え? あ、ああ。ここ、だな」
「……?」
余計な緊張のせいで頭がいっぱいとなり、目的地に到着していたことに全く気付いていなかった。もし出水がいなかったら、僕は延々とこの病棟を彷徨っていたであろう。いやはや、僥倖であった。
そしてさらに幸運なことに、僕が怯えていたということに、出水は気付いていないようだ。これならば、どうにか先輩としての威厳を保つことが出来る。
「先輩、早く入ろう? 時間あまりない、から」
「あ、ああ……ごめん」
いや、僕にはすでに先輩としての威厳など無かったらしい。軽く叱られ、気落ちしつつ高城の病室へと踏み入れる。
病室特有の、独特な匂いが鼻腔をつく。それと同時に、無機質な白の空間が目の前に広がってゆく。そして、大きな窓の傍にある小さなベッドの上から、高城がこちらを見つめながら微笑んでいた。
「あ、由惟。それに先輩も」
「美琉加、大丈夫?」
「うん、傷は平気だよ。ごめんね、心配かけちゃって」
すぐに駆け寄った出水へ、高城は気丈に笑顔で応えている。そんな彼女の様子に安堵した出水は、ようやく気の抜けたような柔らかい微笑みを返す。
「ううん、良かった……良かったよ……」
いつもより淡々とした受け答えではあるが、会話を聞く限り元気そうにも見える。無論、心は誰からも見える訳ではない。見た目が元気そうでも、ちゃんと労わらなければ。
「高城、大変だったな。僕のせいで遅くなったせいで、こんなことになって……ごめん」
「なんですか先輩。昨日のことなら、私の意志で残っただけなので、謝る必要ないですよ。でもぉ、お見舞いのケーキとか、そういうの無いんです?」
「は?」
「はぁーあ、気が利かない先輩ですねぇ……そんなんだからモテないんですよ」
「お前……」
こいつ……本当に、心に傷を負っているのだろうか。このやり取りが演技だとすれば凄いが、そうだとしてもモテないことをネタにするのは、もう止めて欲しい。そんなことは、この僕が一番よく理解しているのだから。
まあ、元気だという証拠でもある。今はとりあえず喜んでおくとしよう。
「まったく……退院したら、快気祝いに何か奢ってやる。それで勘弁してくれ」
「やったー! っ、いたた……!」
「だ、大丈夫?」
「う、うん。あはは、まだあんまり動いちゃダメなの、忘れてた……はぁ」
そう言うと、高城は浮かべていた笑みを僅かに曇らせ、そのまま仰向けとなった。当たり前の話だが、彼女が入院したのは昨晩遅くである。まだ痛むのも無理はない。今のは自業自得としても、今後はあまり刺激となるような話は止めておこう。
しばらく、無言のまま時間が経過していった。高城に繋がれた点滴の落ちる音すらも聞こえそうなほど、重苦しい静寂が病室を包み込む。
「あ、あのさ」
この空気を嫌った僕は、とにかく話題を探すため適当な言葉を口にする。
「高城の両親、何の仕事をしてるんだ?」
「はい? なんでそんなことを聞きたいんです?」
しまった、あまりにも脈絡が無さ過ぎて意味の分からない質問となってしまった。
「いや、仕事を片付けてからここに戻る、って言ったらしいんだよ。事務仕事とかなら電話でも済む話だろうから、そういう仕事じゃないんだろうな、って思って」
「それ、本当です?」
「ああ。西野がそう聞いたらしいから、嘘じゃないと思うぞ」
「西野……ああ、会長さんも来てたんですねぇ。いえ、私が言いたいのはそういうことじゃないですよ。多分あの二人、戻って来ませんよ」
「え?」
そっけなく、窓の外を見つめながら抑揚のない声色で高城はそう言い放った。耳を疑った僕は、眉間に皺を寄せつつ再び彼女へと問い掛ける。
「えっと……戻らないっていうのは、午前中には、ってことか?」
「違いますよ、先輩。この世の中には、娘よりも仕事を大事に思う親だっているんです。そんなこと、先輩ならよく知ってるでしょ? 単純な話です。親を選べなくて苦しんでるのは、先輩だけじゃ無いってだけのこと、ですよ」
「……」
まさか、高城の両親も子どもに愛情を注がない人間だったとは。ただ、僕の家庭とは少し異なり、彼女の場合は完全なネグレクトと呼んでもいいだろう。緊急入院した娘の付き添いを止めるくらいなのだ、どんな日常生活を送っていたか、想像に難くない。
だからこそ、高城はネットの世界に存在価値を求めたのだろう。僕らのような、純粋な好奇心などとは訳が違う。心の拠り所を得るために、本気で挑んでいたのだ。
そんなことにも気づかなかったとは、僕は先輩として失格だ。
「ごめん、気付いてなかった。お前も、苦しんでいたんだな」
「止めてくださいよ、今さら。なんか気持ち悪いじゃないですか。先輩たちは、先輩たちの目指すやり方で良いんですよ。それが、私にとっては……」
「……高城?」
「いえ、何でも無いです。とにかく、変に気を遣わないでください。今まで通り、普通に接してくれたら、それで良いんですから」
「そう、か……分かった」
僕の返答に満足したのか、高城は両親の話をする前の柔らかな表情へと戻っていた。いつの間にか、重苦しかった空気も多少は緩んだような気もする。
しかし、高城の話が正しいとなれば、僕たちは一体いつまでこの病室に居て良いものなのだろう。もちろん、出水も一緒なので気まずくはなりにくいのだが、ずっとここにいる訳にもいくまい。
高城の精神が安定していれば、恐らく大丈夫なのだと思うが……それを直接確認する訳にもいかないし、これは困った。
すると、そんな僕の悩みを見抜いたように、高城はゆっくりと起き上がると、一転して真剣な眼差しを向けて唇を開く。
「水島先輩、話しておきたいことがあるんです」
「話しておきたいこと?」
「はい。それが終わったら、もう帰ってもだいじょぶですよ。私の心は、別に傷ついた訳じゃないので」
「え、ど、どういうことだ?」
いきなりの爆弾発言に、僕はもちろん、並大抵のことではリアクションしない出水さえも驚き、目を丸くする。精神的な負担が強かったからこそ、この病棟に入院したはずなのだが、もう大丈夫とはどういうことなのか。
高城は視線を床に落としつつ、さらに緊張感を増した声色で僕の問いに答え始める。
「お医者さんたちとか、警察の人の前では、演技したんです。震えながら、怖いって叫んで。そうすれば、多分こういう状況が作れるんじゃないかなって考えた訳ですよ。まあ、絶対に成功するとは思ってましたけどね」
「ま、待ってくれ! お前の言ってる意味が分からないんだが……」
「最後まで話を聞いてくださいよ。そうすれば、全部わかりますので」
「はあ?」
まだ質問をぶつけようとした僕を、高城は鋭く睨みつける。その迫力に屈した僕は、喉から飛び出そうになった言葉を強引に奥へと押し戻した。それを雰囲気で感じ取ったのか、彼女は小さく頷くと話を再開し始める。
「私が刺された時、犯人はこれを現場に残していきました。これは、まだ警察にも見せていません」
そう言って、高城は一枚の紙を僕たちへと差し出した。大きさや特徴からして、ポストカードであるようだ。
「これ、まさか……」
「ええ。裏に描かれた絵、見てください。ああ、由惟が見た方が分かるかも」
「っ!」
僕の伸ばした腕よりも早く、高城の手からポストカードを奪い取るようにして受け取った出水は、その裏に描かれたものを見て、息を飲んだ。彼女の反応だけ見れば、何が描かれていたのか容易に想像はつく。
「出水。どうだ?」
「『ジャック・ザ・リッパー』。西蓮寺先生の、初期のころの作品、です……」
「やっぱり、そうか……」
『ジャック・ザ・リッパー』……通称、切り裂きジャック。十九世紀のイギリスで発生した連続猟奇殺人事件の犯人に与えられた、仮の名だ。殺害された五人の娼婦の内臓が切り取られていたという猟奇性、加えて犯人が未だに確定していないという不可思議さから、二十一世紀となった今でも語り継がれている。
この事件を題材とした二次創作物は数多く、これを模した絵が現場から見つかったとしても、愉快犯か何かであると処理されても、そう不思議ではない。
だが、それが西蓮寺の絵なのであれば、話は大きく変わる。大島から続く、一連の不可解な事件……それらとの関連性が見いだされるのだ。いや、ほぼ確定したと言っても良いだろう。
つまり高城は、木村たちを殺害した犯人から狙われたのだ、と推測できる。これは大問題だ、すぐにでも箱崎たちに伝えておきたい。
しかし、それにしても引っかかる。大島、真中、木村の三人には共通点があったが、高城には彼らとの接点が見当たらないのだ。せいぜい、木村の教え子だったこと、くらいである。
あの写真に、高城の両親が写っていた……ということは無いだろう。もし居たとすれば、高城本人が真っ先に見つけるはずなのだ。無論、僕のように両親の顔を何年も見ていない、という話ならば別だが、さすがにそこまで仲の悪い家族は多くないと信じたい。
すると、事件の関連性について頭を悩ませる僕に、高城は意を決したような調子で問い掛ける。
「先輩。ここから先は、もっと大事な話です。多分、この件とも関係があるかも知れない、とっても重要なもの」
「なに? それ、本当か?」
「はい。……ごめんね、由惟のことも話すことになっちゃうけど、いい?」
高城の言葉に、出水は黙ったまま頷く。それを目にした高城は、大きく息を吐くと僕をまっすぐに見つめる。
「撮影の前、私がいつも何をしているのか、知ってますよね?」
「え? ああ、確か……イメトレ、だったか」
高城が撮影のたびに行なうことと言えば、イメージトレーニングだろう。それのせいで毎回撮影の時間が遅くなるため非常に迷惑していたこともあり、僕を含めたメンバーならば全員知っていることだった。
「はい。でも実は、イメトレしてた訳じゃないんです。実際にやっていたのは、『未来予知』なんです」
「は……?」
突然、何を言いだすのかと思えば……『未来予知』を行なっていた、などと言われて信じられる訳がない。現代の科学では、ある程度の予測まではシミュレーションにより解析可能とは言われている。しかし、それも絶対的なものではないし、人間の行動を予測する類のものは複雑すぎて、ほぼ不可能だとも聞いている。
まさか、高城は精神的におかしくなってしまったのではないだろうか。わざと心に傷を負ったふりをした、と言っていたが、その話が嘘だったのかも知れない。
「高城、やっぱりお前、事件の影響がまだ……」
「違いますよ! 私は本当に、全然何ともないんです。まあ、傷は痛みますけどね」
「いや、だとしてもおかしいだろ。いきなり『未来予知』が出来る、なんて聞かされても、そう簡単に納得できると思うか?」
「出来ると思います。特に、先輩なら」
「はあ?」
そう言うと、高城は自分の頭のこめかみ辺りを指さし、二回ほど軽く、トントン、と突く。
「正確に言うと、全員の行動パターンをシミュレートして、私がどういう行動をすれば、望む結果が得られるか。それを、私の脳は自動で計算してくれるんです。先輩が、見たものすべてを記憶してしまうのと同じように、ね」
「それって、まさか……」
「ええ」
そして、ゆっくりと手を下ろし、高城は重く、しかしはっきりとその言葉を口に出した。
「『新人類計画』……私も、あれの参加者です。そしてこの『未来予知』の能力を手にした、先輩と同じ可哀そうな子どもの一人、ですよ」
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