午後七時過ぎ……西光学園高校にほど近い小さな喫茶店、『カフェテラス・ボム』。
そのレトロな店構えと特徴的な手書きのメニュー表から、初見の客にとってはなかなか入りづらい店である。立地も決して良いとは言えず、僕と同年代の利用する姿は、ほぼ見かけることは無い。
だが僕は、この店をとても気に入っている。趣や接客の姿勢はともかく、日替わりでコーヒーの種類が変わったり、客層が落ち着いていたりと、非常に僕好みの世界なのだ。店員の老婆は積極的に客へと話しかけることも無いため、一人の時間を過ごすにはうってつけである。
僕は時折、この店を利用するのだが、今日は一人ではなく西野も同席していた。それというのも、真中は例の写真を押収した後、そのまま僕たちを置き去りにして警察署へと一人で戻ってしまったのである。
てっきり、僕は自宅付近まで送り届けてくれるものだとばかり思っていたのだが……まあ、あれ以上に真中と一緒にいる、というのは精神衛生上よろしくない。それに、西野とも相性が悪かったようであるため、ある意味でこの選択は正解だった、と言えよう。
「いらっしゃい。ああ、アンタはいつものね? そっちの彼女は?」
「あ、えっと……こちらを。あと、サイフォンコーヒーを」
「あいよ」
いつもの通り、不愛想に水の入ったコップを机に置き、店員の老婆は注文を取りに来た。西野はその態度に少し不快感を示しつつも、適当にメニュー表を指し示し、店員が去った後に小さく溜息を吐く。
「いつもの、って。夏企、あなたどれだけ通い詰めてるのよ」
「別に、家に帰ったって自分で作るか、出来合いものを買うしか無いんだから、しょうがないだろ。ここの方が安く済むし」
「もう……」
呆れたように西野はコップを持ち、少しだけ水を口に含む。家に帰ったところで、待っているのは静寂だけである。それは、西野も良く知っていることだ。だからこそ、彼女はそれ以上僕に言及しようとはせず、ただ無言のままコップに浮かぶ氷を眺める。
こうして、今はとても落ち着いて過ごせているのだが、思い返せば、つい十時間ほど前……僕たちは転落した木村の遺体を目撃しているのだ。それも、転落する瞬間から、一部始終を、である。
それにも拘わらずこうして冷静でいられるのは、もちろん西野の存在という、精神的な支えもあってのことだろうが……それ以上に、この件に関しては謎が多すぎるのだ。
転落する直前の木村の様子。撮影していたはずのカメラの紛失。例の写真と、それに記載されていた『赤い部屋』という言葉……どれもこれもが不可解すぎて、パニックになる余裕すらない。
西野もそれは同様で、木村が転落した時こそ混乱していたものの、それ以降の彼女はまるでいつも通り……いや、いつもよりは弱々しいか。だが、比較的会話を交わす頻度の高かった教師が亡くなったにしては、落ち着いているように見える。
遺体を見るのなんて初めてだっただろうに、肝が据わっているというか……改めて、西野の心の強さに感心するばかりである。
「ああ、そうだ。夏企」
「うん?」
ふと、西野は何かを思い出したように語り始める。
「例の動画の件、取り下げるわ。それどころじゃなくなっちゃったし、今そんな動画を作ったら、むしろ世間から良く思われないでしょうから」
「……確かに、そうかもな。視聴者数は多いだろうけど、どうやっても炎上する未来しか見えないな」
教師が学校の敷地内で自殺した、などというニュースが伝われば、当然のことながら学校へのバッシングは、相当なものとなるだろう。そんな状態で、学校のプロモーションなどしたところで、火に油を注ぐようなものだ。
あのネットニュースサイトのコメント欄も、恐らく相当に盛り上がり、祭り状態となるのも必至だ。あんな奴らのエサとなるのは、死んでも御免である。
しかし、自殺、か……つい先日まで妻の自慢話すらしていた、あの木村が急に死を選ぶ、とは。今でも信じ難い。
「なあ、西野」
西野は溶けゆく氷から視線を移し、じっと僕を見つめ返す。
「先生は、どうして自殺なんかしたんだろうな。あんなにいつも穏やかで、それにもうちょっとで定年だったのに」
「さあ……それは分からないわ。人間の考えることなんて、誰にも分からないもの。でも、そういうことはもう警察に任せましょう? 私たちには何も出来ないし、渡せるものは渡したもの。だからこれ以上、事件に関わるのは止めなさい。嫌な記憶が焼き付いてしまう前に……ね?」
「……」
嫌な記憶、か。サヴァン症候群である僕は、どんな光景であろうと忘れることは出来ない。そう、木村の遺体や、志摩丹で見た真中 優佳の遺体……それに、僕の投げつけた写真立てが頭に当たり、出血をした西野の顔……それらは今でもなお、鮮明に思い出せる。
これ以上、衝撃的な光景を目の当たりにすれば、僕の精神は崩壊してしまうかも知れない。それは西野に言われるまでもなく、僕自身が一番よく理解していることだ。
「今回真中さんと約束したのは、木村先生の死因と、動機を教えてもらうことだけだ。それだけ聞いたら、事件なんて追わない。だから、大丈夫だよ」
「そう。それなら、良いんだけど」
そう言って、西野は弱々しく微笑む。よほど僕が心配なのか、やはり今日の出来事は堪えたのか……いずれにしろ、彼女をこれ以上苦しませることは、もう――――
ヴーン、ヴーン
「ん……?」
不意に、僕のポケットに入っているスマートフォンが振動を始めた。無料チャットアプリからの通知や、メールの受信による振動ではない。これは、着信だ。
「ごめん、電話みたいだ。えっと……」
慌ててポケットからスマートフォンを取り出すと、画面には電話帳に登録のない番号が表示されていた。非通知ではなく、携帯電話からの着信である。間違い電話か何か、だろうか。
チラリ、と西野へと視線を送る。彼女は少し不思議そうな顔で、早く取ってあげなさいよ、と言わんばかりに手で合図を見せた。確かに非通知ならばともかく、電話に応答しないというのは失礼か。
周囲に客はほとんどいないが、一応マナーとしてなるべく身を小さくしつつ、画面をタップしスマートフォンを耳に当てた。
「も、もしもし?」
「……真中だ。今は自宅か?」
「えっ、真中、さん……?」
驚くことに、発信者は真中であった。別れてから二時間程度しか経過していないというのに、今さら何を連絡しようというのだろう。まさか、まだ何か聴取したいことでもあるのか。
僕の様子と声に反応し、目の前にいる西野はその表情を険しいものへと変える。
「えっと、喫茶店にいます、が……」
「は? 呑気な奴だな。仕方がない、時間が惜しい。悪いが、今からお前に頼まれていた用件を伝える。いいか、他の客には聞かれるなよ」
「え、ちょ、ちょっと!」
唐突に掛けてきた上に、真中は一方的に話を進めてゆく。恐らく、また機嫌を損ねるような出来事があったのだろう。
「まずは、木村の死因。……失血死だ。あとは動機だが、これは不明。用件はこれで終わりだ」
「は? そ、それだけ、ですか……?」
「それ以外に、何か約束をしたか? じゃあな、切るぞ」
「ま、待ってください! 一つ、もう一つだけいいですか!」
「……お前、他の客に聞かれるな、と言っただろう。馬鹿なのか?」
あまりに一方的な会話であったため、店内であることを忘れ、僕は大きな声で引き留めてしまった。そのお陰か、真中はまだ電話を切らずにいる。質問をしたとして、正直に話してくれるとは思えないが、それでも質問をする猶予が出来たのだ。この機を逃すものか。
「失血……ということは、僕の話した通り、ということですよね。転落する前からすでに……!」
「チッ」
真中は僕の質問を遮るほど大きな舌打ちをすると、しばらくの間、無言となった。ビジートーンは聞こえないため、切られた訳では無いらしい。だが、それにしては無音のまま時間だけが過ぎてゆき、妙な汗が首筋を伝って流れてゆく。
「あ、あの……もしもし?」
一度、電話口へと呼びかけてみたものの、特に反応は無い。このまま、僕のスマートフォンの電源が切れるのを待っているのだろうか。
「ねえ、夏企。どうしたの? 何かあった?」
しびれを切らしたのか、頬杖をついていた西野が怪訝な顔つきで僕へと訊ねる。だが、まだ電話が続いている以上、それについて答えることは出来ない。黙っているようにジェスチャーをし、再度呼びかけを試みる。
「もしもし? あの、聞こえていますか?」
相変わらず、聞こえてくるのは自分の鼓動だけで、特に変化はない。もう諦めて切ろうかと思い、スマートフォンを耳から離した。その時であった。
「もしもし、水島くんかな? 聞こえるかい?」
「えっ……」
不意に、真中とは異なる男性の声がスピーカーを通じて鼓膜へと伝わる。この男は確か、真中の上司である箱崎だ。電話越しであるため確証は得ないが、それでもこの落ち着いた雰囲気は、彼の持つ独特のものである。
「うちの真中と勝手な取引をしたみたいだけど……ごめんね。残念だけど、未成年に捜査協力なんて要請できないし、これ以上の情報開示は無理だね。建前としては」
「そ、そうですよね……建前?」
「うん、建前」
そう言うと、箱崎は少し笑いながらも、はっきりと僕へ問いかける。
「単刀直入に訊ねるよ。キミには確か、特殊な力があるって話だよね。えっと……サヴァン症候群、だっけ」
「え、は、はい」
「俺からも、是非お願いしたい。キミの力を、捜査に役立ててくれないか? もちろん、現場に踏み込む、とかそういう危険なことは無し。どうかな?」
まさかの依頼に、僕は思わず立ち上がってしまう。突然の行動に西野は仰天し、ポカンと口を開けている。
「も、もちろんです」
「良かったよ。では、また何かあったら連絡するから、この番号は登録しておいてよ。それじゃあ……っと、忘れるところだった」
一つ咳払いをした後、箱崎は声のトーンを少し落とし、静かに言葉を紡ぐ。
「木村先生の胸ポケットに、一枚のポストカードが入ってたんだ。吸血鬼が老人の頭に噛みついている、とても気味の悪い絵の描かれたポストカードを、ね」
「吸血鬼の……? そ、それって……」
気色の悪い絵、それにポストカード。それだけで、とある画家が脳裏に過った。だが、それだけではもちろん断定することなど出来ない。まさかとは思うが、念のために箱崎へと確認する。
「それはもしかして、西蓮寺 真冬の作品、ですか……?」
「残念ながら、まだ断定は出来ていないんだ。でも、その可能性が高いと踏んで、今確認を続けているよ。それじゃ、また何かあったら連絡するね。ああ、そうそう、お友達……そうだね、西野さんとか他の人には、この話は内緒にしておいてね。建前上は、ね」
「……分かりました」
そして、通話は切断された。警察側にどういう事情の変化があったのかまでは定かでないが、少なくとも僕の能力が求められている、ということは事実である。
今まで、あれほど僕を苦しめてきたこの能力が、ようやく本格的に役立てるのだ。こんなにも喜ばしいことは無い。沸き立つ感情を抑えるのが精いっぱいだ。
「夏企」
「……あ、え、何?」
不意に西野に呼びかけられ、視線を下ろす。テーブルの上にはすでに注文した品物が揃っており、むしろコーヒーは少し冷めてしまったのか、カップから湯気の立つ様子は見られない。そんな中、西野は料理やコーヒーに一切口をつけず、不安げな様子で僕を見上げていた。
「事件に関すること、でしょう。正直に話して」
「……」
箱崎は、誰にも話すな、と言っていた。ただし、『建前上は』。ここは、西野を安心させるためにも、ちゃんと話しておくべきだろう。ただし、この店内ではなく別の場所で。
あと、できれば金子たちとも共有しておきたい。木村は顧問のような役割であったし、彼の敵討ち、という名目で世間の理解も得られるだろう。それに、未だに行方不明となったままのカメラのことも気になる。
座り直し、温くなったコーヒーを一気に煽り、気合を入れる。そして、力強く息を吐いた後、西野の問いに応える。
「うん……説明、するよ。でも、ここじゃダメだ。出来れば、あまり人のいない場所で話したいんだけど……良いかな」
「ええ、もちろん。じゃあ、食べ終わったら夏企の家に行っていい? そこで話を聞きたいかな」
僕の家、か。確かに今日も両親は戻らないし、どうせ戻っていたところで僕たちが何を話していようと気にするまい。堂々と西野を家に招くのは少し憚られるが、情報の漏洩という観点で、最も安全なことは確かだ。
「分かった、じゃあそうしよう。でも、あまり食べ過ぎない方が良い。あまり気分のいい話ではないから」
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