その日の夕刻、新宿警察署――――
ここは日本に存在する最大の警察署であり、六百名近くの職員が日夜を問わず出入りしている。管轄は主に新宿区内であり、水島たちの通う高校もその範囲に含まれている。
その一室、捜査一課の片隅で箱崎 邦洋は、とある映像を何度も再生しては巻き戻していた。
「くぁ……」
箱崎は大きく欠伸をした後、軽く目を擦る。机の周りに散乱する栄養ドリンクの空き瓶、それに目の隈……その様子から、どれだけの時間をこの映像再生に費やしたのかが窺える。
モニター画面に映し出されているのは、新宿志摩丹の内部であった。撮影時刻は2015年5月1日、午後六時……そう、彼の後輩、真中 弘佳の双子の妹である優佳が、遺体となって発見された時刻の監視カメラの映像だ。
ちなみに、現場検証ならびに第一発見者等へのヒアリングの結果、誰一人として容疑者候補にすら浮上しなかった。そもそも、彼女自身と接点のある人物がおらず、あまりにも動機の面が不充分であった。
鋭利な物質で綺麗に切断されたこと、また抵抗した様子も無かったことを鑑みると、少なくとも顔見知りでなければ説明がつかない。その上、薬物反応もなく、自殺とするには不自然過ぎる。だからこそ、捜査は難航しているのであった。
そのこともあり、初心に立ち返る意味も含めて箱崎は映像をくまなくチェックしている、という訳である。
無論、すでに遺体発見から二日も経過しており、他の警察官により何度も再生された後である。この映像から新たな事実が見つかるとは、到底思えない。だが、それでも彼は必死に目を凝らす。
「うーん、やっぱりそう簡単には見つからんよなぁ」
革の劣化した回転椅子の背もたれを軋ませ、箱崎は天井を見つめる。
そもそも志摩丹のような大型デパートで、首を切り落とせる得物を持ち歩く人間がいれば、即座に通報されることだろう。ましてや、途絶えることなく人が行き来するため、少しでも不審な人物が通れば何かしらの目撃情報が得られていても、不思議ではない。
それが、現時点では何もない。目撃情報も無ければ、監視カメラにも何も映っていないのであった。監視カメラの死角をさらに検討すべきか、もしくは嘘の証言をする者がいたか……いずれにせよ、この映像だけでは判断不可能である。
「はぁ……一服するか」
そう言うと、気分転換を兼ねて箱崎はコンビニの袋を手で探る。しかし、一向に目当てのものが手に触れず、天井に向けたままであった視線を、袋へと落とす。
「あ、あれ? おかしいな、ドリンクと一緒に買ったはずなんだけどな……」
すると、顔を顰める箱崎の目の前に、不意に小さな箱が差し出される。
「お探し物はこれですか、先輩」
「おっと! ……おお、真中か。なんだよ、戻りました、くらい言ってくれよ……」
突如として現れた真中に驚きつつ、箱崎は探し求めていたタバコへと腕を伸ばす。だが、寸でのところで真中は、それを懐にしまい込んだ。
「お?」
思いもよらぬ行動に、箱崎は数回瞬きをする。その様子を見て、真中は呆れたように溜息を吐く。
「私の前では禁煙、と言ったはずですが」
「あ、あれ、そうだっけ……いやしかしだな、それは俺が買ったものなんだから、お前に没収される筋合いは無いだろ。さっさと寄こしてくれ」
「ダメです。……それより、こんな時間までずっと監視カメラのチェック、ですか。あと一時間もすれば会議が始まりますし、今さら何を観て……ああ、そういうことでしたか」
真中はそのまま箱崎の背後に回り、モニター画面に視線を移すと、また大きく息を吐く。
「まあ、それも先輩らしい、というか……あまり無理はしないでくださいね?」
「それはどうも。でもな、真中。何も映ってないだろう、と決めつけてかかっていたら何も見つからない。何かが映ってる、と思ってじっくり探せば、見落としていたものを発見できるかもしれん」
「はぁ……」
そして、もう一服することを諦めたのか、箱崎は別の映像を映し出し始める。遺体の発見されるおよそ一時間前、六階のイベントフロアの映像であった。
「『映像は擦り切れるほど観ろ』ってね。まあ、同期の受け売りだけどさ。知ってる? 村田って奴なんだけどさ、あれがまた面白いやつでさ」
「知りませんよ。そんなことより、もっと栄養バランスのとれた食事を買ってきましょうか? その様子じゃ先輩、朝から栄養ドリンクばかりなんでしょ。早死にしますよ」
「……お前、真面目なのかよく分からんな……ん?」
真中の突拍子の無い提案に顔を引き攣らせていた箱崎の手が、ふと止まる。そして、映像を少し巻き戻し、ある部分だけを拡大し始める。
突然の行動に驚きつつも、真中も彼と同じくモニター画面を凝視する。
「どうしたんですか、先輩」
「これは……」
拡大し終えた箱崎は、眉間により一層深い溝を作り、唸り声を上げる。映し出されていたのは、被害者である真中 優佳の右手であった。
その手には、丸められた細い紐のようなものと、黒い小さなものが握られていた。映像が粗く、鮮明に映ってはいないものの、明らかに異質であることには疑いない。
箱崎は慌てながら、エントランスで撮影された彼女の映像も、改めて映し出す。そして被害者の手を限界まで拡大してみるも、この時点ではどうやら何も持っていないことが窺えた。
「真中、ガイシャの……ああ、すまん。妹さんの所持品は?」
「気を遣わなくていいですよ、別に。ええ、と……ハンドバッグには手鏡などの化粧品、手帳、ハンカチ、それと財布。あとは口臭ケア用の食品に、頭痛薬が数錠。以上ですので……この紐のようなものと、黒い物体については一切不明です」
「そうか、そうなると……だ」
そう言うと、慣れた手つきで映像をプリントアウトした箱崎は椅子から立ち上がる。その拍子に、錆び付いた金具の軋む音が部屋に響き渡る。
「これ、鑑定に回しといて。この紐は、もしかすると凶器かも知れないからな」
「分かりました……えっと、これが凶器、ですか?」
「そうとも」
プリントされた紙を受け取りつつ、真中は首を傾げる。その表情を見て、箱崎は少し笑いながら説明を始めた。
「例えば、これがワイヤーとかピアノ線だったとすれば。鋭利な刃物は無くとも、多少無理をすればトイレの個室内でも首を切り落とせるんじゃないかな。本人の力を借りることができれば、だけどね。それに、遺体のあった個室の隣……つまり入り口側の個室は、全面血で塗られたみたいになっていただろう? ということは、だ」
「切断したのは隣の部屋で、あえて犯人は遺体を移動させた、と?」
真中の言葉を受け、箱崎は正解、と言わんばかりに指を鳴らす。だが、そう結論を出した割に、彼女は憮然としたまま彼に問いかける。
「……何のために?」
「えーと、そこまでは知らんよ。だって、それをこれから調べるんだからね。ということで、行くよ。準備して」
「今からですか? ちょ、ちょっと待ってくださいよ、鑑定に出してから向かいますので!」
「うん、よろしくー」
颯爽と部屋を立ち去る箱崎の背中を睨み付け、真中は軽く舌打ちをする。そして準備のため自分の席へと移動しようとした、その時。ふと、モニターへと視線を落とした。
そこには、静止したままの妹の姿があった。これから殺害されるとは知ってか知らずか、穏やかな表情を浮かべていた。それにつられたのか、真中も同じように少しだけ優しく微笑む。
「……大丈夫、心配ないよ。絶対、やってみせるから」
そう呟き、モニターの電源を落とすと、彼女も足早に部屋を去って行った。
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