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小欅 サムエ
小欅 サムエ

2-14

公開日時: 2020年12月1日(火) 22:53
更新日時: 2021年3月14日(日) 16:48
文字数:4,389

 新宿警察署のすぐ隣、野々原ビルの地下一階、ムーンバックスカフェ。大手チェーン店で利用客層は若い人が中心であるが、この店舗は新宿界隈において比較的混雑しにくいことで有名である。


 少し駅前から離れているということもあるが、警察署やその周辺に用事がない限り、駅周辺にもムーンバックスカフェは点在しているため、わざわざここまで足を運んで休憩しに来る、という客はそういない。


 それに加え、今日は五月五日……そう、端午たんごの節句である。子供の成長を祝う日の、しかも開店時間と同時に来店する客など多いはずもなく、思った通り席はガラガラであった。逆にこの環境では、高校生と警察官の二人が何か話をしていれば、目立ってしまいそうなものだ。


「うーん、ちょっと早かったかな?」


 アイスコーヒーを片手に、箱崎はこざきは苦笑いしながら周囲へと目を配る。


「……よく利用するんじゃないんですか?」

「うん? まあ、署にもコーヒーはあるからね、特殊な事情でもない限りは、あまり来ないかもね。ああそうだ、別に奢りだから遠慮せずに注文してくれていいよ」

「……」


 この店の注文スタイルは先払い式であり、遠慮せずに注文する、と言われてもできるはずがない。それに昨日のことがあったというのに、警察官を目の前にしてもなお、飲食しようという気が起こるとでも思っているのだろうか。やはり彼は、この店をほとんど利用したことが無いのだろう。


 まあいい、さっさと本題へと移ろう。昨日の疲れが全く癒えていない中、朝早くからこんなところまで来たのだ。早く片付けて、眠れるものならば昼寝でもして、精神を休ませたい。


「それで、話って何でしょうか。前は他言無用、とまで言っていたのに、協力してほしいとか言われて……正直、こっちもかなり混乱してるんです」

「ああ、そりゃそうだよね。それは率直に申し訳ない。まあ、一つ言い訳させてもらうと、そうだな……以前は上層部からの指示、今回は僕個人からのお願い、と思ってくれればいいよ」

「は?」


 呆気にとられる僕を完全に無視して、箱崎はコーヒーを一口すすった。今の言葉をかみ砕くと、彼は要するに独断で僕を利用しようとしている、と言っているのだ。そんなことを言われて、はいそうですか、と簡単に引き下がれるはずがない。


「ちょ、ちょっと待ってください。それって、捜査協力してるのが他の警察官にバレたら、マズいってことなんじゃ……」

「うん、マズいね。キミはともかく、俺は良くて停職、減給。最悪の場合は懲戒になるだろうさ。まあ、未成年だしキミはそんなに気にしなくてもいいよ」

「え、ええ……?」


 とんでもないことをさらりと口にする箱崎に、開いた口が塞がらない。それほどまでに、この事件を解決したいという想いが込められているのだろう。だが、それに見合うほどの活躍を僕に期待しているのだとすれば、それこそ荷が勝ちすぎている。


 やはり、早めに捜査協力を断っておくべきだろう。明らかに泥船であると知って、あえて乗る人間などいるはずがないのだ。


「そ、それでしたら、残念ですけど、やっぱり……」

「ああ、そうそう。あの写真の人物だけどね、半分くらいは身元が分かったよ。うん? 何かな?」

「えっ!」


 断ろうとした瞬間、彼はまるで僕の声が聞こえていなかったかのように、驚くべき情報を口にした。あの写真……つまり、大島おおしま西蓮寺さいれんじの写った奇妙な写真について、何か分かったことがあるらしい。


 恐らく、僕が拒絶するタイミングを見計らって彼はそんなことを言葉に出したのだろう。さすがはベテラン刑事らしく、やり方が汚い。だが、ここまで聞いてしまった以上、誰が写っているのか非常に興味がある。懸命に言葉を飲み込み、箱崎へ続きを促す。


「いえ、すみません……続けてください」

「そう? じゃあ、分かっている範囲だけ話すよ。今のところ、あの写真に写る十五人のうち、十名までは名前が判明したんだ」


 そう言うと、箱崎は鞄から五枚の写真、それに分厚い資料と思われる紙を取り出した。その資料の表紙には、大きく『持ち出し禁止』と書かれているのだが、もう僕はその文字を見なかったことにした。言及したところで、きっと無駄なのだから。


「えっと、まずは大島おおしま ひろし……知っての通り、散々世間を騒がせたノンフィクション作家だね。先月の三十日、彼は自宅の浴室で遺体となって発見された。この件は、ニュースとかで知ってるかな?」

「ええ。……でも、『浴室』ではなく『浴槽』、ですよね。ネットニュースには、そう書かれてましたし」


 これに関しては、忘れもしない。あの日、金子かねこに無理やり見せられて、それで事件を追ってみよう、という話になったのだ。結局、西野にしのに叱られて計画は中止したのだが、奇妙なことにこうして事件を追う羽目になってしまった。全く、不思議な因果である。


「うん、そうだね。この件は、自殺として片付けられた。しかし、驚くことにね……八王子署の連中から聞いた話だと、あの真中まなか 優佳ゆうかが現場に現れて、彼の死は自殺であると公表しろ、と言って来たそうなんだ。それも、警視庁公安部こうあんぶの指示でね」

「は?」


 真中の妹、優佳が大島の事件現場に現れ、しかも自殺と公表しろ、と言い出した? しかも、公安部……公共の安全と秩序を守る部署の指示を?


 意味が分からない。真中の妹が何をしていた人なのか詳しく聞いた覚えはないものの、そんな場所に駆けつけて、しかも公安部の指示を渡すなど、普通の人間ができるようなことではない。しかし少なくとも、彼女は公安関係の人間であった、ということになる。


「あの、それって……優佳さんは警視庁の人間だった、ということですか?」

「いいや、彼女は公安部とは関係のない人間だよ。どこの名簿を見ても、彼女の名前は存在しなかった。彼女の仕事については今も調査してるけど、バイト暮らしだった、ということしか分かっていない。この件は、ちょっと内緒にしておいてくれ」

「は、はあ……」


 とりあえず、今のところは何も分からない、ということか。しかしあの事件の被害者が、そんな胡散臭い人間だったとは。あの真中 弘佳ひろかの妹とは、到底思えない自由奔放さである。


「さて。あと西蓮寺さいれんじ 真冬まふゆ。芸名かと思ったけど、本名なんだね。画家で、西光せいこう学園大学の講師をしている、と。彼女のことは説明無用かな?」

「ええ、実際に会いましたし……ネットでも、画家ということしか分かりませんでしたから」


 奇妙なのは、彼女の絵と酷似した遺体が、連続して見つかっている、という点だけである。彼女自身は、話した感じでは物腰も柔らかく好印象であった。あの日、道路を歩く彼女と目が合わなければ。


 ……あれは、本当に一体何だったのだろう。今思い返してみても、やはりあれは西蓮寺であったことは間違いない。別に何か被害を受けた訳ではないが、気味の悪い思いをしたのは確かである。


「えっと、木村きむら 一良かずよし……は、いいよね。キミたちの先生だし。他には、真中の父親である喜久よしひさ。端で笑ってる、髭の男が彼だ。それと、飯塚いいづか 美祢子みねこ。この人は、ファイネル製薬の開発部長だったかな。厚生労働省とは結構コネがあったみたいだから、もしかするとキミの父親とも面識があるんじゃないかな。会ったことは無い? ほら、この人」

「飯塚……いえ、無いですね」


 箱崎は写真に写る一人の女性に向けて、指で軽く指し示す。眼鏡と鷲鼻である以外に、大きな特徴はない。まあ、それでも僕なのだから、ピンと来ない以上、少なくとも僕とは面識が無いのだろう。親に関しては、それこそ知ったことではない。


「そうか。あと、この人は牟呂矢むろや 晃司こうじ。西光学園大学の生命工学部の教授だよ。まあ、高校には恐らく来ないだろうし、知らなくて当然かな。この女性は灰谷はいたに れい。厚生労働省にいた、ということまでは分かってるんだけど、それ以外は不明だ。それと、間柴ましば ただし。この人は、代々木よよぎにある東京総合国際病院の小児科医だって」


 ひたすらに、箱崎は名前を読み上げて写真を指してゆくが、僕には誰一人としてピンとくるようなことは無かった。現時点では、僕がこの件で役立てそうなことは無い。


 そもそも、僕の場合は記憶が優れているだけであり、この人と会ったことがあるか、と問われてもすぐに思い出せるわけではない。膨大な記憶の海を潜り、探り当てる必要があるのだ。


 例えば、ここからここまでがテストの範囲だ、と教えられれば、その範囲内を想起することは容易であるが、今までにいつ、どこで誰と会ったか、ということについては、明確な日時の指定が無い限り困難なのである。


 それでも、僕は連日の睡眠不足により疲労困憊となりながらも、必死に脳を活性化させる。せっかくの機会であるし、危険を顧みず極秘資料を見せてくれた箱崎の役に立つために。


「うーん、そうか。なかなか近づかないね」

「す、すみません……」

「いや、謝ることじゃないよ。さて……大島、西蓮寺、木村、真中、飯塚、牟呂矢、灰谷、間柴……残る二人は、有名な人だから分かるかも知れないね」


 そう言うと、彼は真面目そうな七三分けの男を指さす。


「この人、塩村しおむら 憲恭のりやすだね。僕は、この写真を見た瞬間に気が付いたけど、キミはどうだい?」

「塩村……あ」


 言われてみれば、この七三分け、それにこの真面目な雰囲気……どこかで見たことがある。それも比較的最近、真剣な討論番組の最中に。


「これ、もしかして厚生労働大臣の……?」

「そう、補佐官だ。こんな大物が写っているんだし、やっぱり普通じゃないよね。少なくとも厚生労働省、つまり国が何らかのプロジェクトを立ち上げた際のメンバーじゃないかな、と俺は推測してるんだ」

「そ、それはさすがに飛躍しすぎなのでは? それだと、木村先生や西蓮寺、それに大島の存在について説明がつきませんし……」


 確かに、箱崎の言わんとすることも分かる。だが、医師である間柴や製薬企業の社員である飯塚などはともかく、世界史の教師、美術の講師、それにノンフィクション作家……この三人がそのようなプロジェクトに参加しているなど、考えにくい。


「それもそうだけど……でもね、最後の一人、この人の存在が大きい。今回、俺がキミに捜査協力を依頼したのは、この男がいたから、と言っても過言じゃないんだ。見てくれ」


 今までになく真剣な眼差しで、箱崎はじっと僕を見つめながら一人の男へと指さす。ふくよかで、非常に毛量のある男性だ。この人と、僕に一体どういう関係があるというのだろうか。


「あの、この人は?」

「……キミ、本当に分からないのかい? よく見てごらん」

「……いえ、こんな人は……いや、待てよ」


 輪郭や頭髪を除いて、目鼻や口だけに意識を集中させる。すると、確かに見覚えのある顔が、僕の脳裏へと徐々に浮かび上がってきた。


 この男は、確か……いや、まさか。


「え、これ……僕の、父、ですか……?」

「ああ、もちろん。言うまでも無くキミのお父さん、水島みずしま 龍太郎りゅうたろうだよ」


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