五月八日、午前八時半。久々にゆっくりと休むことが出来た僕は、目を覚ました後もグダグダと布団に寝ころび、周囲に散らばる機器を眺めていた。僅かに開けていたドアの隙間から差す光を受け、塗られた油が鈍く輝いている。
「どうしたら、こんなに集めることになるんだろうな……」
出水曰く、父親が勝手に引き取ってきてしまった備品だそうだが、素人目には単なるガラクタにしか見えない。たとえこれを直したところで、何に活用するつもりだったのか、まるで分からない。
もちろん、専門的な知識がある訳ではないので、丁寧に修理することが出来れば有意義なのかも知れない。きっと、一部屋どころか屋根裏部屋などを潰すほどの価値が、これらにはあるのだろう。
せっかくだ、挨拶のついでに彼へ聞いてみることにしよう。正直なところ、出水に対する仕打ちを耳にしていた僕にとって、彼にはあまりいい印象はない。むしろ、彼女を苦しめた件について問い詰めたいくらいであった。
とはいえ、こうして部屋に泊めてもらい、なおかつ活動で使用する動画制作用の機材も譲り受けている身である。認めがたくとも、恩人の一人であることには変わりない。社会へ出ていくためには、こういう時こそしっかりと礼を尽くすべきなのだろう。
しかし、それにしても妙だ。
「何も聞こえてこないな……」
昨夜から部屋のドアは開けたままにしているというのに、僕が目を覚ました七時から八時半までの間、一階からは何一つとして物音が聞こえてこないのだ。ずっと耳を澄ませていた訳ではないが、二階にいる僕へ一時間以上もの間、何の生活音も響いてこないというのは、さすがにおかしい。
この時間まで何も音が聞こえないということは、洗濯や朝食の準備すらもしていないということだろう。もちろん、様々な生活様式の家庭があっても不思議ではないが……幾ら休みとはいえ、ここまで時間にルーズであると逆に不安になる。
「仕方ない、か。……ん? 待てよ、確か……」
そろそろ動き出すかと思い、小さく溜息を吐いた頃、ふと昨日の出水と父親の会話が脳裏を過る。不快だと感じ、彼の声を耳にしないよう必死に布団を被っていたものの、聞こえてきてしまった話の内容は、僕のこの脳が覚えてしまっていた。
「っ!」
嫌な記憶が呼び起こされる最中、出水の父親が発したと思われる言葉を思い出し、焦って飛び起きる。それというのも、その言葉とは『変な人がこの家を見ていた』という、非常に物騒なものだったのである。
そうだ、彼ははっきりとこの家を見つめる不審者を目撃していた。それが空き巣であれば、目撃された時点でこの家を狙う可能性は低くなるだろう。だが、高城を襲ったような通り魔などの場合は、むしろ逆だ。
僕が寝ている間に、その人物がこの家へと侵入していたのならば、この静寂にも説明がつく。最悪の場合、最も見たくない光景を目の当たりにする可能性もあるだろう。
どっと噴き出す汗を拭いつつ、部屋を飛び出した僕は階段を目指し駆け出す。だが、それも束の間のことであった。
「うわっ!?」
「きゃっ!」
不意に、私室から出水が飛び出してきたのである。どうにか直撃こそ免れたものの、咄嗟に躱したために僕は廊下の壁へ背中から激突する羽目になってしまった。ついでに後頭部も打ち、痛さに堪え切れずその場に蹲る。
「くそ、いってぇ……」
「だ、大丈夫ですか? でも狭いから、走ると危険、です」
「ご、ごめん。つい焦っちゃって……って、あれ?」
顔を上げた僕は、出水の姿を目にして硬直する。そして呆然としつつも、しっかりとした寝ぐせを直さないまま、眠そうに目を擦っている彼女へと問いかける。
「えっと、さっき起きたばかりなのか?」
「え? はい、そうですけど……お水を飲んで、またひと眠りしようかな、って思って」
「いや、寝すぎだろ。もう八時を過ぎてんだぞ。……それより、ご両親はどうしたんだ?」
「どうって、仕事。二人とも、朝早いんです。六時くらいには出て行っちゃうから」
「あ、ああ……そっか、そういうことか……」
そうか、休校が続いていたことで曜日感覚が完全にズレてしまっていたのだが、今日は金曜日……つまり、平日なのだ。会社勤めであれば、すでに出勤していて当然である。
緊張感が一気に失せ、背中と後頭部を無駄に痛めてしまったことに落胆する。冷静になっていれば、こうして痛みに涙を滲ませることは無かったし、廊下を走るな、などという小学生がされるような指摘を、後輩から受けることもなかっただろう。
このところ、身の回りで多くの事件が起きていたせいで、まともな思考が出来なくなっていたのだろう。僕も出水と同じようにもうちょっとだけ眠って、摩耗した精神を回復させた方が賢明かも知れない。
小さく溜息を吐いて立ち上がり、階段の先を見下ろしながら苦笑して見せる。
「はぁ、焦って損したよ。でも、そうか……ご両親に挨拶できなかったな。そういえば僕のことは説明してくれたのか?」
「う、うん。事件のことは話さなかったけど、納得してくれました。でも、邪魔しないでね、って言ったら、二人ともすごく嬉しそうに頷いてました。なんで嬉しかったのかなぁ?」
「……いや、それって……」
多分、出水の両親は良からぬ方向で理解を示してしまったのだろう。コミュニケーション能力に難のあった出水が男を連れ込んだのだ、普通ならば反対もするだろうが、この両親に関してはむしろ歓喜して然るべきだ。
加えて、彼女の父親は不貞行為を目撃された、という負い目もある。そんな彼が出水を強く非難する資格は無いし、素性の知れない相手ならばともかく、同じ活動のメンバーである僕を泊めることに何ら抵抗は無かったのだろう。
ただ、僕は出水と付き合っている訳ではないし、変に応援されても困る。きちんと訂正しておくべきだ。
「はぁ、まあいいや。落ち着いたら、改めて僕から今回の経緯を話しておくよ」
「え? 今日は泊まらないんですか?」
「ああ。さすがに迷惑だろうし、今日は多分家に帰れると思うからさ。ダメだったら、そうだな……また考えてみるよ」
「そう、ですか……」
さすがに一日も経てば封鎖も解けているだろうし、相続などの問題を片付けるには自宅が適切だ。そのためにも、箱崎からの折り返しの連絡が必要なのだが、今のところ僕のスマートフォンには何一つとして反応が無い。
黒いカードの件も伝えたいし、午前中までに連絡が無ければ、不本意だが新宿署まで赴くことにしよう。それまでは、とりあえずここで待たせてもらうとするか。
……そういえば、黒いカードのことで思い出した。彼女に依頼した件は、きちんと動いているのだろうか。
「なあ出水、金子から返信あったか? 昨日あの後、連絡してくれたんだろ?」
「あ、はい。でも、警察の人と同じで、返事ないです。忙しかったのかな?」
「そうか……まあ、国立を目指すって言ってたからな。こんな時期に休校になって、きっと焦ってるんだろ。でも、そうか。そうなると……」
木村の遺言ともいえる、僕らの投稿した動画へのコメント。それに対する調査を金子に依頼していたのだが、出水の話を聞く限り、今朝までに反応は無かったようだ。仕方がない、金子には悪いがその件はこちらで片付けておこう。
どうせ箱崎からの連絡を待つ時間もある。その間、ずっと寝ている訳にもいかないし、行く当てがない以上はこうするしかあるまい。
「一応、アイツには連絡しておくとして……PC借りてもいいか? せっかく時間があるし、動画のコメント確認しておきたいからさ」
「私の? 良いですけど……余計なフォルダとか開かないで。絶対に、それは約束して」
「お、おう……」
「じゃ、入って」
いつになく鋭い眼光を向ける出水にタジタジとなりつつも、彼女の部屋の中へと通された。年頃の女の子らしい、可愛らしい小物などはほとんど見当たらない。その代わりに壁には西蓮寺の作品と思われる絵が飾られており、はっきり言って長居のしたくない部屋であった。
加えて、整理整頓がきちんとされておらず、通学用のカバンはもちろんのこと、脱ぎ散らかした衣服もその辺りに転がっている。普通、こういうものを片付けてから人を通すものだと思うのだが……もう、そういう細かいことは気にしないことにした。
部屋の様子に、思わず顔を引き攣らせる僕を尻目に、出水は黙々と手慣れた様子でPCを立ち上げる。そして、あっという間に動画投稿サイトのログイン画面を映し出し、そこでようやく彼女は僕へと振り返る。
「じゃ、お願いします。ログインIDとか、覚えてないので」
「あ、ああ……自動ログイン設定にはしてないのか?」
「ログインする意味ないし、なるべくログインするPCは絞った方が良いから。管理するだけなら、金子先輩だけで充分、なので」
「そ、そうか。じゃあ、ちょっと借りるな」
いつも以上に饒舌な出水に戸惑いながらも、記憶の奥底にあるログインIDとパスワードを入力する。まったく、僕に瞬間記憶能力が無かったら、ログインできず話が終わってしまうところだった。確かに複数回線からのアクセスは防ぐべきとは言え、四人しかいない活動メンバーなのだから、そういう細かいことは気にせずとも良いのに。
とにかく、これでログインは完了した。後は新着コメントを確認するだけだ。
「えっと? ……あ、本当にあった。確かにURLだな。投稿日は……五月三日、か」
「うそ、事件の前日じゃないですか! どうして先生、こんなことを……」
「分からない。分からないけど、このURLを踏んでも大丈夫か? 一応、日本のドメインみたいだけど、万が一のこともあるし」
「……それは大丈夫です。バックアップは適宜とってますし、セキュリティソフトは入れてますので。今はそれより、この中身が気になります」
「そうか。じゃあ、飛ぶぞ」
木村から送られたものとはいえ、マウスを握る手がとてつもない緊張感に襲われる。だが、ここで躊躇していても始まらない。汗で滑りそうになりながらも、どうにかそのURLをクリックする。
すると、数秒の読み込み時間の後、画面には突如として一つの映像が映し出された。赤い背景に黒い文字で書かれた、その映像のタイトルは————
「……『赤い部屋』?」
そう、部室で見つけた写真の裏に書かれていた『赤い部屋』と同じ名前のアニメーションである。ただし形式を見る限り、これは一般に広まっているFLASH作品ではなく、それを模した動画であるようだ。
不意に現れた不気味な映像に、西蓮寺の作品を好む出水でさえも怪訝な顔つきで画面を睨み、僕へと問い尋ねる。
「これ、何ですか?」
「えっと……ホラー作品みたいなもの、かな。なんでこれを先生が張ったのかは、分からないけど」
「ホラー、ですか……」
驚きはしたものの、いきなりこれが表示されたところで何とも評価できない。カフェのマスターから話を聞いていなければ、この動画へと飛んだ時点でコメントを削除していたレベルなのだ。あの話が無ければ、これを『荒らし』だと断じていたに違いない。
ただ、これが木村からの遺言となれば話は別だ。それに加え、『赤い部屋』という言葉は真中から聞いていたし、このFLASHも金子に相談した際に確認している。それ故、これが偶然だとは思えなかった。
しかし、動画が進むにつれて僕の苛立ちは徐々に募ってゆく。結末の知っているビックリ系ホラー動画を見たところで、単なる時間の浪費でしかない。これが木村の残したコメントだという話すらも、今では信じがたいものとなっていた。
「内容はFLASHと同じだな……はぁ、下らない。もしかしたら普通に荒らしだったのかも知れないな」
「そうなんですか? 確かに、ちょっとチープな感じですけど……」
「まあ、この作品自体が古いからな。これが公開された時は、結構話題になったみたいだけど、今になってはそういう印象を受けてもしょうがないよ。でも、これがなんだって————」
そう軽く出水に答えたところで、画面へと視線を移した僕は息を飲んだ。動画の終盤、『赤い部屋』を閉じてしまった数多の人間の名前が真っ赤な背景の中に、表示されるという場面。通常ならば、どこにでもいそうな人の名前が羅列してある中に、ある人物の名を見つけてしまったのである。
「え……」
「こ、これ……!」
幾つかの人物名の中に、僕の名前が刻まれていた。『水島 夏企』という、紛れもない僕の本名が。
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